悪魔の歌 三話
第3話:600人の血痕
1. 砕け散った日常
モスクワの夜は、凍てつくような冷気とともに更けていく。しかし、その中心部にある高級ホテルのスイートルームは、まるで地獄の業火に燻られたかのように熱く、そして硝煙の臭いに満ちていた。
床に転がるのは、つい数分前まで「世界の覇権」を巡る情報戦の最前線にいた男たちの肉体だ。
絹の絨毯は赤黒い鮮血を吸い込み、重い足音が響くたびにグチャリと不快な音を立てる。
「回収を急げ! ロシアの増援が来るぞ!」
拘束服のようなタクティカルウェアに身を包んだ男が、無線に向かって怒号を浴びせる。アメリカ中央情報局(CIA)が編成した、非公式特殊作戦群「オメガ」の隊長・ミラーだった。彼の視線の先では、技術工作員がロシアの天才科学者オロフの端末から、自己増殖型AIウイルス『エヴィル』のオリジナルデータを外付けの軍用ストレージへ転送していた。
進捗バーが98%を示したその瞬間、ホテルの重厚なオーク材の扉が木端微塵に吹き飛んだ。
「敵襲ッ!」
叫び声と同時に、閃光弾の盲目的な光が室内を白く染める。突入してきたのは、ロシア連邦保安庁(FSB)の特殊任務センター、通称「アルファ部隊」だった。彼らにとって、エヴィルの流出は国家の死を意味する。それゆえに、彼らの銃撃には一切の躊躇がなかった。
「ウラー(突撃)!」
至近距離での銃撃戦。銃口から放たれるマズルフラッシュが、闇に包まれた部屋を断続的に照らし出す。高性能サブマシンガンから放たれる9mm弾が、人間の肉体を容赦なく引き裂いていく。ミラーの部下が二名、胸を撃ち抜かれて崩れ落ちた。だが、技術工作員は執念でストレージを引き抜き、叫んだ。
「データ、確保!」
「撤退だ! 窓から飛び降りろ!」
ミラーはあらかじめ仕掛けていた爆薬の起爆スイッチを押した。凄まじい爆発がスイートルームを吹き飛ばし、アルファ部隊の追撃を一瞬だけ怯ませる。ミラーたちは割れた窓から、夜のモスクワへと身を投げ出した。パラシュートを開く暇などない。数階下に設置した回収用のワイヤーネットへと滑り込み、待機していた漆黒の装甲車へと転がり込む。
しかし、これが「真の地獄」の幕開けに過ぎないことを、彼らはまだ知らなかった。
2. 終わらない追撃
暗闘は、深夜のモスクワ市街地へと舞台を移した。
ロシア側は完全に理性を失っていた。国家最高機密である『エヴィル』を盗まれたのだ。生かして帰すわけにはいかない。
「全車両に通達。対象をいかなる手段を使ってでも阻止せよ。市街地での被害は考慮しなくてよい」
FSBの指揮官からの非情な命令が下る。
ミラーたちの乗る装甲車の後方に、またたく間に数台の黒いSUVが張り付いた。並走するSUVの窓から、自動小銃を持った兵士たちが身を乗り出し、容赦なく銃弾を浴びせてくる。
「くそったれ! ここは民間人の道路だぞ!」
ミラーが毒づく。彼の視線の先、深夜にもかかわらず営業していた24時間営業のスーパーマーケットの前に、何人もの市民がいた。夜勤明けの労働者、談笑する若いカップル、夜食を買いに来た老人。
激しい銃撃戦の巻き添えは、彼らに向かった。
SUVから放たれた流れ弾が、スーパーのガラス窓を派手に粉砕する。悲鳴が上がる間もなく、弾丸は逃げ惑う人々の背中を、胸を、頭部を貫いていった。少女を庇った母親が血の海に沈み、男たちが次々と倒れていく。
「ミラー! 左から来るぞ!」
助手席の工作員が叫ぶと同時に、大型のトラックがミラーたちの装甲車に真横から衝突した。凄まじい衝撃。装甲車は火花を散らしながらスピンし、路面電車のリフレクターをなぎ倒して、映画館のロビーへと突っ込んだ。
大破した車内から、血塗れのミラーが這い出る。ストレージを持った工作員も生きているが、足の骨が折れていた。
「隊長……これを……」
「馬鹿言え、お前も連れて行く!」
「無理だ! 来るぞ!」
背後から迫るロシアの兵士たち。彼らは生存者を確認すると、容赦なくトドメの弾丸を撃ち込んでくる。映画館の中にいた警備員や、深夜の上映を終えて出てきた観客たちも、暗闇の中での識別不能なターゲットとして、一律に射殺されていった。
「動くものはすべて殺せ」
それが、この夜のロシア側の絶対的なルールだった。
ミラーは苦渋の決断を下し、工作員の遺体(すでに頭部を撃ち抜かれていた)からストレージを奪い取り、劇場の非常口から下水道へと飛び込んだ。背後で、さらに数十人の市民が巻き込まれる銃声と悲鳴が、冷たいコンクリートの壁に反響していた。
3. 血塗られたスコアボード
翌朝、世界は衝撃的なニュースで目を覚ますことになった。
モスクワの中心部で発生した「大規模なテロ事件およびギャングの抗争」。それが、ロシア政府が発表した公式の見解だった。
しかし、世界中の諜報機関や、事情を知る各国の高官たちが手にした秘密報告書に書かれた数字は、公式発表とはかけ離れた、あまりにも凄惨なものだった。
【モスクワ実戦損害報告書(暫定版)】
米国側(オメガ隊および協力者): 死亡 42名(全滅)
ロシア側(FSB、治安部隊、研究員): 死亡 118名
一般市民(巻き添えによる犠牲者): 死亡 443名
総犠牲者数: 603名
「600人……。たった一晩の、それもたった一つのデータを巡る争いで、これほどの血が流れたというのか」
日本の内閣情報調査室(CIRO)の一室で、サイバーセキュリティの天才であり、後に「ナイツ」の開発を主導することになる男・神崎は、デスクに叩きつけられた報告書を見つめながら、声を震わせていた。
写真には、凄惨な現場の様子が写し出されていた。モスクワの美しい街並みは硝煙で霞み、路面は文字通り「血の海」と化している。引き裂かれた衣服、散乱する薬莢、そして、何の関係もないのに命を奪われた市民たちの遺体の山。
「これが、デジタル時代の戦争の現実だ、神崎」
影の中から現れたのは、CIROの最高幹部である土屋だった。彼の顔にも、いつもの余裕はない。深い隈がその目に刻まれている。
「アメリカは『エヴィル』を手に入れた。だが、その代償としてロシアとの関係は完全に破綻した。今、両国の間で行われているのは、もはや外交ではない。目に見えない、しかし確実に世界を滅ぼしうる『サイバー冷戦』だ」
「ロシアは黙っていないでしょう」神崎が言う。
「ああ、当然だ。ロシア側は、自国の威信と最凶の兵器を奪われた。彼らは現在、アメリカの全ネットワークに対して、あらゆる手段を用いたサイバー報復の準備を進めている。そしてアメリカは、手に入れた『エヴィル』を解析し、自国の軍事システムに組み込もうと狂奔している。だが……」
土屋は言葉を切り、一枚の解析データを神崎の前に差し出した。
「我が国の偵察衛星と、極秘に傍受した米ロの通信ログから算出した予測だ。アメリカは、あのウイルスの本質を理解していない。あれは、人間が制御できる代物ではないんだ」
神崎はデータを食い入るように見た。そこには、オロフ博士が設計した『エヴィル』の基本アルゴリズムの断片が示されていた。
「……自己進化。敵の防御パターンを学習し、自らのコードを書き換える……。これはウイルスじゃない。ネットワークという生態系における、最上位の『捕食者』だ。もしこれが一度でも制御を離れてネットの海に放たれたら……」
神崎の背中に、冷たい汗が伝わった。
モスクワで流された600人の血。それは、これから始まる「全人類の未曾有の崩壊」の、ほんの序曲に過ぎないのではないか。そんな凶々しい予感が、彼の脳裏をよぎった。
4. 音のない宣戦布告
世界は表面上、不気味なほど静かだった。
テレビのニュース番組では、モスクワの事件は「過激派組織による爆弾テロ」として片付けられ、コメンテーターたちが治安の悪化を嘆いている。経済ニュースでは、ニューヨークや東京の株価が微増したことを伝えていた。
しかし、その背景にあるインターネットの深淵、そして国家間の暗号回線では、地球上の全神経を焼き尽くさんばかりの、凄まじい「電子の応酬」が始まっていた。
アメリカ・メリーランド州フォートミード。国家安全保障局(NSA)の本部では、厳重に隔離された地下室で、強奪されたストレージの解析が二十四時間体制で行われていた。
「信じられん……。このコードの記述方式は何だ? ロシア人は悪魔を飼っていたのか?」
徹夜続きで目を血走らせたアメリカのトッププログラマーたちが、画面に映し出される緑色のコードを見て絶望の声を上げる。彼らがどれだけ強固なファイアウォールを構築しても、シミュレーション上の『エヴィル』は、数秒でその脆弱性を見つけ出し、壁を食い破って侵入してくるのだ。
「制御コード(リミッター)を三重にかけろ! 決して外部のネットワークと接続させるな!」
室長の怒鳴り声が響く。彼らは、自分たちが「パンドラの箱」を開けてしまったことに気づき始めていた。あまりの凶悪さに、これを兵器として利用するどころか、ただそこに置いておくだけで、自国のシステムが食い荒らされるのではないかという恐怖に怯えていた。
一方、モスクワのFSB本部。
愛国心に燃える若きハッカーたちと、生き残った軍のサイバー戦部隊が、血眼になってアメリカへの報復作戦を練っていた。
「オメガ隊の生体データを追跡しろ。奴らがどこへデータを持ち込んだか、突き止めるんだ」
「チーフ、アメリカ国防総省のバックボーン回線に、わずかな隙を発見しました」
「よし、そこへ楔を打ち込め。我々の技術を盗んだ報いだ。アメリカに、二度と立ち上がれないほどの闇を与えてやる」
彼らの指先がキーボードを叩く音は、かつての冷戦時代における、核ミサイルの発射ボタンを押す重みと何ら変わりはなかった。ボタン一つで、一国のインフラを壊滅させられる兵器が、今まさに実戦配備されようとしている。
世界は、一触即発のサイバー冷戦状態に突入した。
米ロ双方が、互いの喉元に「見えないナイフ」を突きつけ合っている状態。引き金を引けば、どちらが勝つかではなく、双方、あるいは世界全体が巻き添えになる。
5. 日本の選択
同刻。東京、霞が関。
CIROの秘密地下オフィスで、神崎はモニターに映し出される世界地図を凝視していた。地図上には、米ロ間で飛び交う異常なトラフィックの量が、赤い発光ラインとなって無数に描かれている。その光は、まるで地球が流している血のようだった。
「神崎、何を考えている?」
背後から土屋が声をかけた。神崎は振り返らずに、ただ静かに言った。
「モスクワで亡くなった600人の中には、子供もいたそうです。買い物の途中で、大国のエゴに巻き込まれた。もし、アメリカが『エヴィル』の制御に失敗したら、あるいはロシアが理性を失って全面的なサイバー攻撃を仕掛けたら……次は600人じゃ済まない」
神崎は拳を強く握りしめた。
「世界のライフラインが止まる。電気が消え、病院のシステムがダウンし、物流が止まる。何億人もの人間が、銃も持たずに殺されるのと同じです。そんな未来を、黙って見ているわけにはいかない」
土屋はフッと短く息を吐き、神崎の肩に手を置いた。
「だからこそ、我々の出番だ。上層部からの許可は下りた。極秘プロジェクトだ。予算も、機材も、お前が求めるものはすべて用意する」
土屋の目が、鋭い光を帯びる。
「毒を以て毒を制す。アメリカもロシアも信用できないなら、我々が『盾』を作るしかない。あの『エヴィル』という悪魔に対抗できる、唯一の存在を」
神崎は深く頷いた。彼の瞳には、すでに悲壮な決意と、科学者としての執念が宿っていた。
「作ります。『エヴィル』と同じように自ら進化し、自ら増殖する。だけど、決して人類を裏切らない、世界を守るための『騎士』を」
この日、日本の片隅で、一つのプロジェクトが産声を上げた。
それは、米ロの血みどろの暗闘から世界を救うための、唯一の希望の種。しかし、その開発がどれほどの困難を極めるか、そして、どれほど過酷な運命が神崎たちを待ち受けているか、この時の彼らはまだ知る由もなかった。
モスクワの街に流れた600人の血痕は、すでに乾きつつあった。しかし、その血が警告した「デジタルの終末」へのカウントダウンは、確実に、そして静かに進んでいた。




