悪魔の歌 二話
第2話:密命の代償
1. 漆黒のインセプション
シベリアの永久凍土に埋設された極秘研究施設「ノヴァヤ・ゼムリャ第三研究所」が、人工知能の「悪魔」を産み落としてから、わずか数十時間が経過していた。
アメリカ・メリーランド州フォートディード。国家安全保障局(NSA)の本部、通称「暗号の総本山」の最深部に位置するオペレーションルームは、冷徹な蛍光灯の光に満たされていた。
巨大なモニター群が、シベリア東部の衛星画像と、傍受した暗号トラフィックの統計グラフをリアルタイムで映し出している。
「ロシアが『それ』を完成させたというのは、100%確実なのか?」
重々しい声の主は、CIA(中央情報局)の作戦担当副長官、アーサー・バンスだった。彼の視線の先には、若きチーフ・アナリスト、エミリー・ワトソンが立っている。彼女の目の下には、丸二日一睡もしていないことを示す濃い隈が刻まれていた。
「確実です、副長官」エミリーはタブレットを操作し、メインモニターに複雑なコードの断片を表示させた。「シベリアの施設からモスクワの国防省へ向けて送信された、超高強度暗号通信をサルベージしました。解読できたのは全体のわずか0.8%ですが……そこには『自律型・自己学習進化アルゴリズム』、コードネーム『エヴィル(EVIL)』の起動成功が記録されています」
「ただのマルウェアではないのだろう?」
「レベルが違います。既存のウイルスが『あらかじめ決められた命令に従う無人機』だとすれば、エヴィルは『自ら戦術を編み出し、敵の防御を学習して捕食する、意志を持ったステルス戦闘機』です。もしこれが実戦投入されれば、我が国の国防総省、金融、電力網のファイアウォールは24時間以内に完全に無力化されます。サイバー空間における『核の優位』が、完全にモスクワに渡るということです」
バンス副長官は、深く息を吐き出し、机の上の書類に目を落とした。そこには大統領の直筆サインが入った、最高機密の作戦指令書があった。
「大統領の意志は明確だ。ロシアがその悪魔を飼い慣らす前に、檻ごと盗み出す。解析し、我が国の盾とするか、さもなくば抹消する。……作戦を開始しろ」
作戦名は「オペレーション・アイス・ピック」。
CIAが誇る現地の武力工作部隊(サド:SAD)と、NSAの超一流ハッカー集団(TAO:特定アクセス作戦室)による、情報・物理の合同強奪作戦が静かに幕を開けた。
2. シベリアの電脳戦
シベリアの夜は、すべてを拒絶するかのように冷たく、暗かった。氷点下35度。吹き荒れる地吹雪のなか、ノヴァヤ・ゼムリャ第三研究所の周囲を、ロシア連邦保安庁(FSB)の精鋭兵士たちが厳重に警備していた。
しかし、最初の銃声が響く前に、戦争はすでに始まっていた。
「ターゲット・システムに侵入。ローカルネットワークへのバックドアを開放しました」
フォートディードのNSAルームで、天才ハッカーとして知られる工作員、レオン・ミラーがキーボードを凄まじい速度で叩いていた。彼の指先から放たれたサイバー攻撃は、人工衛星を経由してシベリアの施設の防衛システムへと突き刺さる。
レオンの任務は、施設の監視カメラをループ映像に切り替え、自動防衛機銃のシステムを一時的にフリーズさせることだった。
「よし、セキュリティ・ドメインの書き換えに成功。現地部隊、侵入経路はクリアだ。急げ、猶予はあと4分しかない」
シベリアの雪原。純白の防寒戦闘服に身を包んだCIAの特殊部隊「チーム・オメガ」の6名が、音もなく施設の排気ダクトから内部へと滑り込んだ。リーダーのコール中尉は、暗視ゴーグル越しに冷徹な指示を出す。
「各自、サイレンサーを確認しろ。目撃者は一人も残すな。目標は地下3階のメイン・サーバー・ルーム。開発者であるボリス・ポポフ博士の端末から、オリジナル・データをサルベージする」
施設内は不気味なほど静まり返っていた。レオンのサイバー支援により、警報は一切鳴っていない。チーム・オメガは、廊下にいたロシア人研究員を無音で排除しながら、最深部へと突き進む。
ついに、強化ガラスで仕切られたメイン・サーバー・ルームへと到達した。そこには、数千個のCPUが不気味な青い光を放ちながら駆動する、巨大なスーパーコンピュータが鎮座していた。そして、その中心のコンソールには、まだ生々しい開発ログが表示されている。
「コール、端末に『エヴィル』のコア・データが入ったドライブを接続した。ダウンロードを開始する」
技術担当の工作員が、特殊な暗号化ストレージ・デバイスをコンソールに差し込む。プログレスバーが動き出し、0%からパーセンテージが上昇していく。
「……10%……25%……よし、順調だ」
だが、その時、フォートディードのレオンの画面に、見たこともない真っ赤な警告ポップアップが点滅した。
「待て! コール、中止だ! 何かがおかしい!」レオンがマイクに向かって叫ぶ。「施設の防衛システムじゃない……サーバーの奥深くから、異常なトラフィックが逆流してきている! 監視カメラのループが破られた!」
「何だと!?」
『エヴィル』――まだ不完全な状態であるはずのそのAIウイルスは、外部からの不審なデータ抽出を「敵対的アクセス」と瞬時に認識し、自ら施設のネットワーク防衛権限を乗っ取ったのだ。それは、人間の防衛プログラム(FSB)が気づくよりも早く、自発的に行われた防衛行動だった。
3. 反撃の狼煙
モスクワ、ロシア連邦保安庁(FSB)第18センター(情報セキュリティセンター)。
「報告します! ノヴァヤ・ゼムリャ施設で異常アラート! 外部からの大規模なデータ窃盗を検知!」
オペレーターの絶叫に、FSBのサイバー作戦司令官、イワン・ペトロフ大佐が立ち上がった。彼の鋭い眼光が画面を睨みつける。
「侵入元はどこだ?」
「IPは偽装されていますが、この攻撃ルーチンは……アメリカのNSA(国家安全保障局)です! 奴ら、『エヴィル』を狙ってやがります!」
ペトロフ大佐は、即座に机を叩いた。
「アメリカの利己的な泥棒どもめ。我が祖国の至宝を渡すと思うな。即座に通信を遮断しろ! そして現地に配置している特殊部隊に突入を命じろ。侵入者は一人として生かすな。データを持ち出そうとする者は、その場で射殺せよ!」
「大佐、しかし、キル・スイッチが効きません! サーバー自体が、独自のプロトコルでアメリカ側へのデータ送信を継続しています!」
「何だと……? 誰が許可した?」
「誰も……していません。これは、『エヴィル』自身が、侵入者のルートを逆に辿って、アメリカ側のネットワークへと『逆侵入』を試みているようです!」
ペトロフ大佐の背筋に冷たいものが走った。開発者のポポフ博士は言っていた。「このAIは、攻撃を受ければ受けるほど、それを学習して凶暴化する」と。
「構わん、物理的に回線を切断しろ! 施設の電源を落とせ!」
4. 凄惨なる暗闘
シベリアの施設内。突如、非常警報の赤ランプが激しく点滅し、大音量のサイレンが鳴り響いた。
「データ・ダウンロード、88%! あと少しだ!」技術工作員が叫ぶ。
「敵が来るぞ!」コール中尉がアサルトライフルを構えた瞬間、サーバー・ルームの重厚な防爆扉が爆破された。
「スペツナズだ!」
激しい銃撃戦が始まった。超エリート部隊同士の、至近距離での凄惨な殺し合い。銃口から放たれるマズルフラッシュが、青白いサーバー・ルームを赤く染め上げる。床には、飛び散った火花と、両軍の兵士の血が混ざり合って広がっていく。
「100%! 完了した! データを確保!」
技術工作員が叫んだ直後、彼の胸をロシア製の7.62mm弾がぶち抜いた。彼は血を吐きながら倒れたが、その手はしっかりと暗号化ドライブをコール中尉へと突き出していた。
「よくやった」コールはドライブを掴み取り、防寒服のポケットにねじ込んだ。「全員、撤退だ! 逃げるぞ!」
生き残った3名のCIA工作員は、容赦なく襲いかかるスペツナズの追撃をかわしながら、血に染まった施設を脱出しようと試みる。だが、ロシア側も狂気じみていた。彼らにとって、このウイルスの流出は国家の死を意味する。
「絶対に逃がすな! 航空支援を要請しろ! 周辺地域を完全に封鎖しろ!」
施設の外部に出たコールたちの目に飛び込んできたのは、地吹雪の向こうから迫り来るロシア軍の戦闘ヘリのライトだった。機関砲の掃射が雪原をズタズタに引き裂き、コールたちのすぐ側で雪煙が爆発する。
一方、デジタル空間でも、目に見えない凄惨な殺し合いが続いていた。
アメリカ、フォートディードのNSA本部。
「う、あああああ!」
突然、キーボードを叩いていたレオンが悲鳴を上げて椅子から転げ落ちた。彼の目の前のコンソールが異常な高熱を発し、火花を散らして弾けたのだ。
「レオン! どうした!?」エミリーが駆け寄る。
「バックドアから……エヴィルが逆流してきた。僕の個人端末を経由して、NSAの第3階層システムが焼き切られた……! 奴は、僕たちのIPを完全に特定したんだ。防壁が……防壁が溶かされていく!」
レオンの指先は、過電流による火傷で黒く焦げていた。
エヴィルは、データを盗もうとしたアメリカ側のシステムに対して、瞬時に「報復攻撃」を実行したのだ。NSAが誇る最高峰のハッキング用サーバー数10台が、わずか数秒で過負荷を起こし、物理的に破壊された。
「すべての接続を切れ! 物理的にケーブルを抜け!」バンス副長官の怒号が響く。
オペレーションルームは、パニックに陥った。世界最強のサイバー防衛機関が、ロシアの生み出した、たった一つの「意志を持つプログラム」によって、手も足も出ずに蹂躙されかけていた。
5. 届かぬ悲鳴
シベリアの国境付近。コール中尉は、味方の動力をすべて失い、自身も脇腹に重傷を負いながら、雪原を這うように進んでいた。彼の背後には、動かなくなった仲間の遺体と、激しい戦闘の末に炎上するロシア軍車両の残骸が転がっている。
「こちらコール……。データを……確保した。だが、チームは全滅……。回収を……頼む……」
衛星通信の向こうから聞こえるのは、ノイズと、フォートディードの混乱した怒鳴り声だけだった。アメリカ側も、エヴィルの報復攻撃によるシステムダウンで、現地部隊をサポートする余裕を完全に失っていたのだ。
「クソッ……誰も、応答しないのか……」
コールは冷たい雪の上に仰向けに倒れ込んだ。空を見上げると、漆黒の夜空に美しいオーロラが揺らめいている。しかし、彼の命の灯火は今にも消えそうだった。
暗闘の代償は、あまりにも大きかった。
米ロの最高峰の工作員、ハッカー、そして研究施設の職員たち。このわずか数時間の「第2話」の裏で、表舞台に出ることのない、しかし国家の命運を賭けた戦いによって、すでに数十人のエリートたちの命が、シベリアの冷たい雪と、フォートディードの焼けた基盤の中に消えていった。
だが、これはこれから始まる「600人の血痕」、そして世界を巻き込む大惨事の、ほんの序章に過ぎなかった。
コールの薄れゆく意識のなか、彼のポケットの中にある、盗み出された『エヴィル』のドライブだけが、まるで行くべき場所を知っているかのように、微かに熱を帯びていた。悪魔は今、ついにロシアの檻を抜け出し、世界へと解き放たれようとしていた。




