第1話 イヴです。何でも聞いてくださいね。
有栖がペリカンケースを開けると時限インク特有の甘い匂い。
中にはノートPC、スマートフォン、I/Oデバイス。
I/Oデバイスを顔に掛けると九条有栖を覚えようとしている。
網膜投影ディスプレイが見せるのはユーザー登録承認の問い。
そして骨伝導イヤホンの振動も耳の奥にそれを伝える。
はいの解答に音声、虹彩、脈拍、心音、皮膚温度が次々取られて行く。
登録完了の文字が視界に浮かびアバターが微笑みかけた。
始業前8:45。
有栖は受付を済ませエントランス横に並ぶ会議室に通される。
H&C商事入社日。渡されたカード番号の席に着く。
入社前オリエンのグループメンバーと挨拶を交わす。
「おはよう、九条さん。いよいよ配属だね」
「おはよう。神田さん法務部希望だっけ?法学部だもんね」
「九条さんは営業部だったよね?」
「A課に行きたいけど。フフ」
H&C商事は特殊な商材も扱う大手総合商社。
入社初日が新人に配属先が伝えられる運命の日。
名が呼ばれ辞令に社員証と最小限の機材が渡されていく。
「九条有栖さん。こちらに」
「は、はい!」
「新卒の配属はあなたが初めて。期待しているわ」
その言葉と皆とは違う大きなケースに会議室がざわつく。
渡されたのは営業A課と書かれた辞令とペリカンケース。
「え?これ……、は、はい!頑張ります!」
思わず出る言葉に人事部長は笑顔で返す。
「辞令と社員証を受け取った皆さんは既に社会人。頑張って」
新社会人開始の合図だ。
有栖達新人は人事部員に案内され執務フロアに通される。
時限インクとコーヒーの匂いが混じる仕事の空間。
甘い匂いを撒く複合機の前を通り有栖は営業A課の島に。
人事部員とA課の人物が言葉を交わし有栖に声を掛ける。
「九条ちゃんだね。課長の風見です、よろしくな」
仕事着の段返りスーツが似合う長身の男性。
表情は柔らかいが何かを測っている。
「今日からお世話になる九条有栖です。……宜しくお願いします」
「お、いいね、その間。焦らないのが勝ち」
軽口にこちらの硬さを解く技術が混ざっている。
島の奥で背の高い女性がタブレットを片手に資料を捲っている。
目が合うと僅かな口元の笑みそして顎を引いて会釈。
真壁紫苑。学生時代の顔馴染だが今の彼女は輪郭が少し違う。
学生と違う職場の先輩として線が一本引かれている。
風見の机は賑やかだ。
付箋で縁取られたモニター。
ファンが喜びそうな海外ブランドのカタログにノベルティ。
そして何故か時代錯誤なソロバンが妙に馴染んでいる。
「九条ちゃんの席はここ。電源タップに、ネットは勝手に繋がるから」
「はい。有難う御座います」
「端末設定まだでしょ。先にやっちゃいな。話しはその後に」
有栖が封印シールを剥がしてケースを開けると時限インクの甘い匂い。
QRコードが印刷された内蓋代わりの簡易な説明書。
その下にノートPCそして見たことのない頑丈そうなスマートフォン。
更に見たことのないウェアラブルI/Oデバイス。
(コレ、アメリカ軍が採用した最新I/Oデバイスとよく似てる……)
(このスマホも見たことない……。ウワサ以上にヤバい会社かも。フフ)
有栖は内蓋に印刷される説明にそって設定を進める。
「1.I/Oデバイスを顔に掛けろ」
「2.スマホの電源を入れろ」
「3.QRコードを見ろ」
説明は命令口調。
(ろ、ろ、ろって……。雑な書きかただな。フフ)
内蓋を手に持ち書かれた通りにQRコードを見る。
網膜投影ディスプレイが見せるのはユーザー登録承認の問い。
そして骨伝導イヤホンの振動も耳の奥にそれを伝える。
ユーザー登録を済ませるとアバターが次の案内をしてくれた。
有栖の視界には製品名と思われるMagI/OとH&C商事の社名ロゴ。
そしてパーソナルAIの選択、利用約款、承認、初期設定と表示が続く。
(会社支給のAIじゃ、イヤとは言えないよねぇ……)
全てにはいと答えて数秒アバターに人が宿ったように話し出す。
『有栖。おはよう御座います。今日からいっしょに働く……』
録音とは違う僅かな呼吸と間。
だが続く一言にはまだ機械的な違和感が残っている。
『……イヴです。何でも聞いてくださいね』
有栖はスマートフォンを握ったまま半拍置いて返した。
「……甘やかしはいらないから。私がビビッてたら背中を押してね」
『はい、有栖。パーソナル設定方針、背中を押す』
視界のアバターのジェスチャーと骨伝導で伝わる声。
イヴとの関係が少しずつ整って行く。
「風見さん。あの、設定は終わりましたけど、これ……」
「それ、気になる?九条ちゃん」
「このスマホもI/Oデバイスも、特別ですよね?」
「その手のモノ、詳しそうだな。端末はセキュリティ強化のための試験品な」
「このI/Oデバイスは?まさか軍用……、ですか?」
「それ、今度ウチで扱うんだ。MagI/O、製品名はまだ内緒な」
「え!コレ扱うんですか?アメリカ軍の最新装備と同じ類ですよね?」
「なんだ知ってんのか。素人の評価試験、のつもりだったんだけどな」
「……いきなりですね」
「まぁな。なら解ってると思うけど、取り扱いには気を付けてな」
「……普段は骨伝導イヤホンと、網膜投影ディスプレイだけにしておきます」
「お、察しが良いね。SNSも駄目だぜ。よろしくな」
「……イヴ。って呼べばいいの?」
『はい、有栖。なんでしょう?』
「見えてるし、聞こえてるよね?」
『はい、有栖。外部視聴モジュールで』
「それの外しかた、教えて」
『はい、有栖。それでは……』
気が抜けるのと引き締まるのが同時に来る貴重な体験。
島の奥では紫苑が誰かと指示を出し合い笑いが起きる。
業務のリズムが脈のようにフロア全体を流れていた。
「よし、A課は社食に移動。お互い挨拶な」
ドリップコーヒーが飲める社食は社内の交流場所。
「イヴ。自己紹介だって。イヴもやったほうが良いよね」
『はい、有栖。自己紹介は端的に10秒以内で。もちろん私も』
イヴが耳元と右目の視界に印象を残す雛形を伝えてくれた。
『有栖。氏名、強み、担当希望の順に三行です』
コーヒーを受け取りA課のいつもの場所の窓際の席へ。
「よし、始めるか。九条ちゃん、オープンな話題のときはここなんだ」
「緊張するなって言ってもなぁ。じゃ、自己紹介、頼むわ」
皆がコーヒーを置き、有栖に向き直る。そして軽く会釈。
(うん、大丈夫。緊張はしてない)
「九条有栖です。英語はビジネス。資料作成が得意。なので交渉補助から」
声を出すと空気の密度が少し変わる。
「じゃ、次は俺からな。風見隼人、A課の課長。よろしくな」
「高城直哉です。ビジネス英語は助かる。この課は商材も顧客も特別でね」
「佐伯翔太。A課ぺーぺー、ヨロシク~。裏付資料も得意だと助かるわ~」
「真壁紫苑。って知ってるか、フフ。九条、期待してるわ」
(皆さん気を遣ってくれてるけど、悪い気はしないな)
「はい、あともう一人?イヴ、オープンモードで自己紹介を」
有栖はスマートフォンをテーブルの中央に置きイヴに呼び掛ける。
『有栖のためのパーソナルAI、イヴです。皆さんのお仕事も支援致します』
「おぉ!他人のパーソナルAIの声聞くのって、なんか新鮮っすねぇ~」
『はい。私も有栖以外の声を聞くのは新鮮です。これから皆さんの声を……』
「……」
正午までに有栖は社内チャットに参加。
受発注システムのIDも発行され在庫一覧の見かたも教わった。
有栖は解らないことをすぐに聞く度胸と思い切りを持っている。
だがどのタイミングで聞けば場を止めずに済むか。
その間はまだ掴めない。
「う~ん、イヴ。この備考の数字とアルファベットって何かな?」
『はい、有栖。課内コミュニケーションのきっかけに。昼休み明けに質問を』
イヴが短く具体的に提案する。
(ただ教えるだけじゃなく、機会を提案してくれるんだ。……凄いな)
ランチタイム。有栖はデスクで資料を見ながら社食のお弁当。
ここの社食は美味しいとテレビの取材でも有名。
(む!確かに美味しい。明日は出来立てを食ベに行こっと)
紫苑が通りすがりに声を掛けた。
「調子はどう? MagI/O、それ、凄いよね」
「はい!パーソナルAIがすぐ隣に居るみたいで」
「でも、頼り過ぎはダメよ。自分で判断しないと」
「……そうですね。答えだけではなく、空気を読むとかは特に」
「フフ。それが解ってるなら大丈夫ね」
会話はすぐに終わり紫苑はまた別の島へ歩いていった。
大学の先輩後輩の仲だった頃とは少し違う。
必要な分だけ端的に。
紫苑の間がこのフロアの標準なのだろうか。
午後。
有栖に初歩の依頼が降りてくる。先方への資料送付。
やることは難しくないが渡す情報によってやりかたが変わる。
メールのフォーマットも本文もイヴがサポートしてくれる。
肝心なのは情報をどう渡すか。
数年前に日本の老舗印刷会社が開発した植物由来の時限インク。
このインクが少なからず世界を変えた。
(設定した時間で印刷が消えるって、やっぱり凄いな)
アメリカの大手IT企業が技術を言い値で買うと話題にもなった。
(それだけの価値なのに、無償ライセンスで公開しちゃったんだよね)
印刷の価値が復権し開発元含め印刷業界の売上げが軒並み増大。
(この話、結構好き。本当に凄いな、そんな判断が出来るの)
有栖は依頼元に連絡し情報の受け渡し方法を確認。
確認ありがとう。この返信が素直に嬉しい。
有栖は資料送付の後に過去の取引情報に目を通した。
リストに並ぶ名は興味を引く物ばかり。
(顧客は政府組織と大企業のセキュリティ部門、大手警備会社……)
(商材は銃器に弾薬、特殊機材も……。私もココになれるかな。フフ)
有栖がふと気が付けばフロアの空気はもう終業モードだった。
誰かがコーヒーメーカーを洗い誰かは机の上を片付ける。
『有栖。明日のミーティングの通知です』
イヴの声と同時に軽い電子音と視界に文字が浮かぶ。
「明日9:00に営業A課ミーティングね。承知ですよ、イヴ」
明日は初めての会議。初めての場で初めて間を掴む実習になる。
有栖の視界の端に風見のソロバンが見える。
「風見さん、そのソロバン……、本当に使うんですか」
「使うよ~。リズムね。間の取りかたを覚えるんだよ」
「リズムですか。……得意なリズム、苦手なリズムとかですか?」
「それ。自分がどうするかってとき、得意な状況のが良いだろ」
(リズムか。合わせたり、ワザと外したり。戦術みたいなもんかな?)
帰り支度をしながら有栖はイヴに本日の短評を聞いてみる。
『はい、有栖。あなたは短文と具体で評価が上がるようです』
「端的に解り易くだね。真壁先輩もそうだった。学生の頃とは違うね」
『はい、有栖。明日のミーティングは結論を先に。発言と回答は20秒』
「了解。……ねえイヴ、もし私が黙り込んだら?」
『はい、有栖。私は有栖のためのサポートAI。背中を押します』
それは即答だった。慰めではなく手順。
弱さを見ないふりはせず進めかたの話。プロセス設計だ。
「己に気付くきっかけになるなら、それは悪くないね。イヴ」
『はい、有栖。有栖ならそう言ってくれると、思っていました』
ノートPCの電源を落としケーブルをまとめ引き出しを軽く押した。
有栖が席を立つと視野が少し広くなって見えるものも少し増えた。
それでも今日はまだ自分の弱いところは見えていない。
「お疲れ様、イヴ。明日もよろしくね」
『はい、有栖。お疲れ様です。明日も宜しくお願いしますね』
「うん。私がビビッてたら?」
『はい、有栖。背中を押します」
「うん。頼んだ」
返した言葉が少しだけ明るいと気付いた。
MagI/Oを外すと有栖は目と耳で感じることが少し優しくなった。
でもイヴが消えても背中を押してくれる感覚は不思議と消えない。
(うん、今日はよくやれた。明日は今日より少しだけ、上手くやる)
有栖とイヴが共に進み出す。今日はまだその第1歩。




