帝国の宰相
次の日の朝。
エルゲラ侯爵邸を発つ私たちを、侯爵が見送りに来てくれた。
泊めてもらったお礼をすると、侯爵は「たいしたことはしていないので、礼は不要です」と返してきた。
その謙虚な言葉に、ゆっくりと首を横に振る。
「いいえ、お湯をいただけたのはありがたかったです。それに、服まで用意していただいて……」
言いながら下を向き、自分の着ている服を見る。
女性ものの服だ。白いブラウスに紺のロングスカート。首元の白いリボンの結び目には、蝶を模ったブローチがついている。
この服は、私がメイドとして城に上がることになったため、急遽侯爵が手配してくれたものだ。
元々着ていた服と剣はさすがに持っていけず、侯爵邸に置いていくことにした。
「息子や彼の方がお世話になったことに比べれば、些細なことです。私どもはこれ以上動けません。あなた方に頼るしかない我々を許してください」
そこまで言うと、侯爵が深く頭を下げてきた。
このパターンは以前も体験している。
放置すると長くなるので、さっさと話を終わらせて侯爵邸をあとにした。
*
皇都の北側、貴族の邸が多く立ち並ぶ地区を歩き、宰相の邸を目指す。
当初侯爵は馬車を用意すると言ってくれたが、家紋のない簡素な馬車といえども侯爵家の馬車だ。普通の馬車よりも絶対に上等だと判断し、丁重にお断りした。
そうして歩くこと約十分。
あらかじめ聞いていた特徴と同じ邸が見えてきた。やはり徒歩で正解だったようだ。
更に足を進め、邸の門の脇に立つ兵士――門兵に、子爵からの紹介だと告げる。
門兵が手紙を見せるよう言ってきたため、言われた通りに手紙を渡すと、門兵は封蝋を確認する仕草をし、すぐに手紙を返してくれた。
「お話は伺っております。中へどうぞ」
どうやら子爵から宰相に連絡がいっていたらしい。
登城する宰相と行き違いにならずに済んでよかった。
門兵に礼を言い、門を通る。
何歩か歩いたところで、背後から鉄の門扉が閉まる音がした。
硬さを含んだ重たい音に、一瞬だけ外界から隔てられた気分になる。けれど、振り返ることはせず、馬車が通れるくらいの大きい道を邸に向かって歩く。
門から邸までの道は意外と距離があり、思う以上に時間がかかった。
漸く邸に着き、ドアをノックする。
少ししてドアが開き、中から初老の男性が姿を現した。
「どちら様でしょうか?」
「ナダル子爵のご紹介で参りました。ルディと申します。ガリード公爵閣下はご在宅ですか?」
「手紙などはございますか?」
「はい。こちらが子爵からのお手紙です」
持っていた手紙を男性に渡す。
男性は、門兵と同じように手紙を裏返した。
「……確かにナダル子爵家の紋章ですね。承知しました。主の許にご案内いたします。どうぞ中にお入りください。こちらの手紙はこのままお預かりします」
そう言うと、男性がくるりと向きを変えて歩き出した。
すぐさま彼のあとにつき、邸の廊下を歩く。
宰相の邸であるガリード公爵邸は、エルゲラ侯爵邸とは違い、やや簡素だ。
だが、所々に飾られているものはいずれも一級品だとわかる。
センスがいいわね、と横目で調度品を見ていると、前を行く男性が一室の扉を開けた。
玄関ホールや通ってきた廊下よりも、はるかに簡素な部屋だ。飾られている物はほとんどなく、商人や身分が低い者を通す部屋なのだと窺える。
「只今主を呼んでまいります。どうぞソファにお掛けになってお待ちください」
男性は一礼するとそのまま部屋を出ていった。
それから半刻程。待てど暮らせど宰相は来ない。
だいぶ前にメイドに淹れてもらったお茶は、口を付けないまますっかり冷めていた。
宰相は本当に来るのだろうか?
疑問が頭を過り、隣に座るユリアーナの顔を見る。
ユリアーナは私と目が合うと、肩をすくめて曖昧な笑みを浮かべた。お手上げということか。
ならば、とリディに顔を向けた直後、壁を挟んだ向こう側にわずかに人の気配を感じた。
「見られているわね」
「ああ。だが、殺気がない。様子見といったところだな」
相手に気付かれないよう小声でリディと話をする。
そこにユリアーナが、「私、全然わかんないんだけど……」と、これまた小さな声で口を挟んできた。
ユリアーナのぼやきに、普通はその反応よね、と苦笑する。おかげで緊張した気持ちがいくらか解れた。
とはいえども、今も見られていることに変わりはない。再び不快感を募らせる。
もういっそのこと、この部屋に雪崩れ込んできてくれないものか。
不躾な視線にうんざりして、ついついため息が出そうになる。
それを慌てて呑み込んでいると、後方から扉が開く音がした。
「いやぁ、待たせたね」
妙に明るい声で部屋に入ってきたのは、中年くらいの痩せぎすの男性。おそらく彼が宰相だ。
宰相は先程の口調とは真逆の、見定めるような目でこちらを見ている。
子爵の手紙を読んでいるはずなので、雇うに値するかを見定めているのかもしれない。
すぐさま立ち上がり、三人で頭を下げる。
「頭を上げなさい。だいたいの話は子爵から聞いています。皇城で働きたいそうですね」
「はい。私と彼女はメイドとして、彼は兵士として皇城で働かせていただけないでしょうか?」
三人を代表して、私が話をする。
いまだに兵士として城に上がれないことにもやっとしているが、ここまで来たら仕方がない。目的を果たすために割り切ることにする。
「皇城は人手不足なので、人手が増えるのはありがたいです。でもまずは、互いに名乗り合う必要がありますね。私はガリード公爵家の当主で、この国の宰相を務めています」
宰相が自己紹介をしながら、私たちに座るよう手で示してきた。彼の指示に素直に従う。
「ご丁寧にありがとうございます。私はナダル子爵の遠縁にあたるソレル準男爵家の娘、ルディと申します。彼女は私の従妹のアナです。彼は、私たちを皇都まで護衛してくれた冒険者のリオンさんです。彼もこのまま皇城で働きたいそうです」
エルゲラ侯爵とともに考えた、偽りの人物設定を宰相に告げる。
きちんと話を詰めたので、不審に思われることはないはずだ。
「彼は冒険者とのことですが、ギルドカードを見せていただいてもよろしいですか?」
「……」
リディが無言でギルドカードを宰相に差し出す。
帝国語を話せないので、リディが無言になってしまうのは仕方がない。私がきちんとフォローする。
「申し訳ございません。リオンさんは寡黙な方で……」
「そのようですね。ふむ。ギルドカードは本物、ですか。失礼しました。お返しします」
ギルドカードには名前と年齢、冒険者ランクが書かれている。
ただし、冒険者の国籍だとか、どこの都市で作られたカードだとかは、カードを見ただけではわからない。
更に詳しい情報を見るには、専用の魔道具が必要だ。当然ながらここにそのようなものはない。
おそらく宰相は、リディが本当に冒険者かどうか、確認しただけだろう。
「あなた方お二人の身分を証明するようなものは、ありますか?」
宰相は、今度は私とユリアーナの素性を調べ始めた。
だが、今の私たちにギルドカードのような立派な身分証はない。
「いいえ。ソレル家の紋章をお見せしても、即座に判断は難しいでしょう。準男爵家は掃いて捨てる程ございますから」
ソレル準男爵家は実在している。私たちを宰相に紹介してくれた、ナダル子爵の遠縁にあたるそうだ。
もちろん、ソレル準男爵家にルディやアナという娘はいない。
とはいえ、調べがつく頃にはすべてが終わっているはずなので、ソレル家の名を出してもさして問題はない。
「確かにそうですね……」
「ほかに何か証明できるものがあればよいのですが……」
わざとらしくない程度に眉間に皺を寄せ、困ったように微笑んで見せる。
協力をする気はあるのだという、ささやかな意思表示だ。
「あるのは子爵の手紙のみ、ですか」
「それだけでは難しいでしょうか?」
おずおずと宰相に問う。
「こういう時は上目遣いがいいわよ」と、ユリアーナに指導されていたが、さすがに実行する勇気はない。
第一、宰相がそんな浅はかな手に引っかかるとは思えない。私にとってもこれが精一杯だ。
だがその精一杯でも多少の効果はあったらしく、暫く黙っていた宰相が小さく頷いた。
「いいでしょう。子爵の頼みを断って中立派との関係が悪化するのも困りますからね。城に上がることを許可します。リオンとやらも、将軍にかけあってみましょう」
思っていたよりもすんなりと話が通った。
拍子抜けしたのと同時に、疑念が湧き上がる。
子爵は中立派筆頭だ。子爵が束ねる中立派を、宰相が取り込みたいと思うのは自然な流れと言える。
しかしそれにしては、子爵への配慮がありすぎる気がする。信頼が異様な程厚いと言ってもいい。
一方で、子爵から紹介された私たちに対する態度はぞんざいだった。それは何故?
答えを知りたい、とは思う。
けれど、現在私は他国にいる。手足となって情報を集めてくれる者もいなければ、集めるだけの時間もない。
それに、この飄々とした宰相を相手にするのはいささか骨が折れる。
面倒事は極力避けたいので、浮かんだ疑問をさっさと奥底に沈めて、言葉を返した。
「ありがとうございます。このご恩に報いることができるよう、懸命に励みたいと思います」
「恩といっても、そうたいしたことではありませんよ。あなた方が就くのはメイドと見習いです。それ以上の便宜は図りません」
「お給金をいただけるのなら構いません」
あくまで私たちは、『困窮して働くことになった』と思わせなければならない。
第二皇子派の宰相に、私たちの目的を知られたら、間違いなく阻止されるから。
「では早速ですが、これから城に上がります。ついてきなさい。詳細は移動の際に話しましょう」
宰相の言葉に短く返事をすると、三人同時に立ち上がり、軽くお辞儀をする。
それから、宰相が乗る馬車に同乗させてもらい、皇城に向かった。