兄
安西竜司の二度目の人生が始まって三日が経った。いつこの夢が覚めるのかと不安がっていた安西も、三日経っても穏やかに過ぎる時間に、やっと落ち着いて現状を把握できるようになっていた。
3月末の週末、この日安西は自宅の居間で一人思索に耽っていた。
安西家は四人家族である。サラリーマンの父と専業主婦の母に6歳上の兄圭司。安西家は父の転勤に伴って3~5年で各地を転々としており、この春より母方の実家があって馴染みの深い福岡へと引っ越したところであった。
ちなみに三日前の母親言わく『息子の情緒不安定な行動』は、引っ越しに伴うストレスによるものと判断され、幸いにも事なきをえている。
両親は新居に不足しているものの買い出しに出かけ、兄圭司は4月より新たに通う中学のサッカー部の練習へと出かけていた。
安西竜司は天才と呼ばれるほどの才能を持っていたが、兄圭司にも大きなサッカーの才能があった。かつての人生では彼もプロサッカー選手となっている。もっとも弟同様怪我に悩まされ、大成することはなかったのだが、その後Nクラブやユース、強豪大学の指導者としてサッカーに携わる人生を送っていた。
安西が最初に憧れ、今なお尊敬し続けるサッカー人であった。安西自身現役引退後は指導者としての道を考えており、B級ライセンスまで取得していた。その選択に大きな影響を与えたのが兄であった。
「これからどうしようかな……幸い夢でしたって感じじゃないし、やり直すからには今度こそ後悔したくない……」
脳裏に浮かぶのは三十数年に及ぶ人生。
中学から名門東京ユースに在籍し、天才と周りに賞賛されてきた。チームメイトにも恵まれ、たいていの試合は苦戦すらすることがなかった。世代別代表に選ばれても自身がチームの中心であることは変わらなかった。
ユースからそのままNリーグ王者であった名門東京へ昇格。その後留学したイタリアでもユース年代とはいえ活躍を見せ、10代で海外クラブとの契約を勝ち取った。
『日本の至宝』と呼ばれ、栄光に満ちた時代であった。
その後、海外クラブでの練習中に負った大怪我をきっかけに、N2リーグを中心とした選手生活を送ることとなる。合計三度、最後の試合を含めれば四度となる靭帯の断裂を乗り越えながら、30代後半まで現役にしがみついてきた。
安西の経歴を聞いた人は、前半の経歴を褒めたたえ、その後「怪我さえなければ」と付け加える。まるで後半の人生を無価値のように言う人々。全てがそうであったわけではない、しかし、現在の安西ではなく過去の『天才』と称せられた安西を見る人達は確かにいた。
そう見られることは仕方ないと安西は思っていた。しかし、怪我してからの自分の歩んできた道は決して無意味なものではない、彼はそう言い続け、信じ続けてきた。
後悔は確かにある。苦しく辛い日々も長かった。けれど、だからこそ解ったことがある。
若き自分は弱い人の辛さを知らなった。周りの人達の優しさや努力の本当の大切さを知らなかった。人が聞いて同情するような人生、だが、その経験がそれまで気づけなかったことに気付かせてくれた。
自分は精一杯に生きてきた。そう言い切れる自分を誇りに思う。
だからこそ、今安西はありえないほどの興奮を覚えていた。もう一度人生をやり直せることに。不思議なほどこの感情は安西の中で矛盾していなかった。
普通の人では味わえないような経験を積んできた。若い頃はともかく、ボロボロの身体と寄り添って生きてきた人生に妥協は一切なかった。
その糧は全て己の中に在る。苦しみ、悲しみ、歓び、それらをもう一度自分自身に還元する。
かつて自身が経験した一切の妥協なき努力を幼い頃より続けることができれば――安西は確信する。
「俺はなれるはずだ……いや、なるんだ。すげーサッカー選手に!」
そのための方法は既に浮かんでいた。
「そのためにも協力者が必要。さて、どうやって兄貴に話そうかな……」
その日の夜、安西は兄圭司の部屋に向かった。
四月より中1となる圭司の部屋は、必要最小限なものしか置かれていない。引っ越しに伴っていらないものを全て処分してきたためであり、これから様々なものが増えていくのだろう。
安西兄弟の仲はいい。兄弟がほしいと言い続け、やっと生まれた弟である。兄は歳の離れた弟をこれ以上ないくらいにかわいがってきた。そんなかわいい弟から相談があると言われ、圭司は二つ返事で弟の話を聞く。
「やり直し? なんだ最近はそんなアニメがはやってるのか?」
最愛の弟からの相談。自分で叶えてあげれることなら叶えてあげたい、そんな気持ちで相談にのった圭司であったが、その内容は明らかにうさんくさいものであった。
しかし、幼い弟が自分で考えて作れるような話ではない。かわいい弟がどこかで聞いた話かと思い、アニメと現実の違いについてどう説明しようかと圭司は悩んだ。
「そりゃ簡単には信じてくれないよな……」
兄の表情を見て、弟はその胸の内を悟ったのだろう。ぽつりとそう言って、足元のボールをポンポンと小さく上に蹴り始める。
「竜司! 狭いんだからボール蹴ったらあぶな……」
圭司はその言葉を言い切ることができなかった。
弟のあまりに卓越したボールコントロールに目を奪われたためである。その足さばきは少なくとも4月からやっと小学校に通い始める少年のものとしては明らかに異質なものであった。
「兄ちゃん、いや兄貴! 俺本当に人生をやり直したんだ。俺は一度安西竜司としての人生を40年近く生きた」
圭司の見つめる弟の表情は真剣そのものだった。
「俺さ、兄貴に憧れてプロサッカー選手になった。もちろん兄貴もね。けど、俺ら兄弟二人とも怪我に泣かされて大変だった」
「プロサッカー選手? なんだそりゃ、俺ら二人とも海外に行ったのか? それはさすがに無理じゃないか?」
この時代、日本にはプロサッカーリーグはなかった。
「いや、そうじゃないんだ。日本にもプロのサッカーリーグができるんだ、Nリーグっていうリーグが93年にね」
そんな話を圭司は聞いたことがなかった。しかし、弟が嘘を言っているようには見えなかったし、目の前にいる弟が狂ってしまったかのようにも見えなかった。
そして気づく。
目の前の6歳児は、当たり前のように理路整然と話している。1年という概念さえ理解に苦しんでいたはずの弟が、当たり前のように西暦を理解していた。
目の前にいる弟は明らかに己の弟である。しかし、その中身が変わった、いや成長したような感覚。経験したことのない感覚が圭司を包んでいた。
「長くなるけど、聞いてほしいんだ。俺のかつての人生を。その上で俺のお願いについて考えてほしい」
弟の言葉に、圭司はうなずくほかなかった。