第1話 最悪な出会い
「俺にとって今一番大事なのは目の前にいるシェリルだよ。」
そういうと、男は片方の手でシェリルの顎をゆっくりと上に向けた。
「はは。涙で顔ぐしゃぐしゃになってる。」
普段の隙のない表情が崩れ、あどけない笑みを浮かべながら、愛おしそうにそっとシェリルの涙を骨張った指が拭った。
「あんまり見ないでください…。」
顔を背けようとしたが、大きな手に固定されていてうまく動かない。
「そういう顔も、かわいいよ。…もっと泣かせたくなってくる。」
ブルーグレーの瞳にはシェリルの姿だけを映し、控えめに上がった口角はそのままに、ゆっくりと顔を近づけると、シェリルの唇に軽く口付けた。
数ヶ月前までこの目の前にいる男、シオン・エルディア・ノアールとこんな関係になるなんて夢にも思っていなかった。
触れ合った唇から心地よく魔力が体の中を巡りだし、身体の力が抜けてゆく。
軽く触れ合うようなキスの後、少し唇を離すと、お互いの視線がまっすぐに重なる。
シオンのブルーグレーの瞳からは、抑えきれないほどの熱が迸り、こちらへと向けられていた。
目の前で月明かりに照らされたミッドナイトブルーの髪が揺れ、シェリルは出会った日のことを思い出しながら、ゆっくりとシオンの肩に腕を回すと、そのまま瞳を閉じた。
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王都リュシオンの街の奥、高台にそびえ立つ王宮の一角ににある魔導研究施設。
重厚な石造でできたその建物は遠目から見ても長い歴史を感じずにはいられない。
事前にもらっていた資料を見ながら、シェリルは明日から働くこの職場に足を踏み入れていた。
すでに日も暮れて空には明るい月が浮かび、石造りの廊下はこの季節にしては涼しく、ガラスのない窓からは心地よい風が吹き抜けている。
歩きながらちらりと横を見ると、王都の街並みが一望できる。これまで過ごしてきた領地とは違い、煌びやかなその景色はまるで地上に星が降ってきたようにきらきらと輝いていた。
シェリル・ノーチェ・グランパニア。
彼女は伯爵令嬢の身分を隠して明日からこの魔導研究施設で働くことになっている。
十七歳の頃いきなりこの世界に転生したシェリルは、この未知の世界で適応することに追われるだけでなく、同時にこの体の持ち主がしてきた数々の悪行を一気に背負うことになった。
元の体の持ち主が積み重ねてきた過去の傲慢な態度や振る舞いに、周囲はまさに腫れ物を扱うかの如く、長い間接していたようだった。
もちろん両親も例外ではなく、シェリルに対して愛情や期待を向けるようなことはなくなっていたため、到底二人との関係も良好とは言い難いものだった。
そんな体に転生してしまったのだから、領地で結婚相手を見つけることも絶望的。
本来、二十歳という年齢の伯爵令嬢であればすぐにでも結婚相手を探し、花嫁修行をしているはずである。
しかし転生して3年。過去の行いを考えれば婚約者は見つかるはずもなかった。
今のシェリル自身もこんな状態での結婚は望んでおらず、魔法学校を卒業し二十歳の年になった今、家を出てグランパニア領からほど遠い王都の地で、身分を隠し平民として働く道を選んだのだった。
シェリルは王都の街並みを横目で見ながら、これまでの3年間を思い出し、感傷に浸りながらも新天地での期待を胸に緊張した足取りで自席が用意されているであろう部屋を目指す。
建物の中は青白い魔法灯が一定の間隔で光っており、薄暗く、背筋がぞくぞくと冷たくなるのを感じた。
「あ、ここだわ…」
『第一執務室』と書かれた扉は、手元の文書に書いてある部屋と同じ名前であったため、目の前の重厚な木の扉の前で立ち止まる。
しかしその扉は薄く開いており、中からは間接灯の灯りがうっすらと柔らかく廊下へと差し込んでいた。人の気配を感じそっと中を覗くと、先客がいることに気がつき、思わず扉を開けようとした手を止める。
「あっ…。もう、シオン様ったら。くすぐったいですわ。そろそろ新人の方が来てしまう頃なんじゃなくて?」
「えー?だって君が『早くシオン様のものになりたい』なんてかわいいこと言うから…せっかく我慢してたけどさ、止まらなくなっちゃうよ?」
聞こえてきたのは執務室とは一切不釣り合いな不純極まりないやり取りだった。「シオン様」と呼ばれた男は深めのソファに気だるげに腰を下ろしており、その上に令嬢がまたがる形で覆い被さっている。
左手は令嬢の腰にまわされており、右手はゆっくりと滑らかな手つきで令嬢の頬を撫でていた。
扉から男の顔は見えないが、令嬢の顔はとろりと今にも蕩け出してしまいそうな甘い顔つきで男を見つめていた。
雲に隠れていた月が現れ、薄暗かった部屋の窓越しに月明かりが差し込むと二人を照らし出す。
男の髪に月明かりがあたり、キラキラと深く美しいミッドナイトブルーの輝きを反射させる。
男の無骨な手が令嬢の髪を優しくかき分けると、今にも唇と唇が触れ合いそうな距離まで近づいた。
恋愛経経験の乏しいシェリルは、顔を真っ赤に染め上げ、恥ずかしさで思わず叫び出しそうだった。
(こ、ここって第一執務室であってるわよね!?私、間違えてないよね!?)
ドギマギしながら入口の表示をもう一度確認しようとしたその時だった。
肩にかけていた鞄がずれ落ち、ゴンという大きな音と共に重厚なドアにあたり、思わず添えていた手で扉を押してしまったのだ。
目の前で甘い雰囲気を醸し出していた令嬢の視線が男の顔からすぐさま入口へと向けられる。
「きゃっ!」
令嬢は乱れていた衣服と髪を直し、さっと男の横に座り直したが、ソファに優雅に座る男は慌てるどころか落ち着いた様子で一呼吸置いた後、ゆっくりと立ち上がり、こちらに振り返った。
綺麗に整った顔立ちに、くっきりとした顎のライン。手には魔力量が多い者だけが使うオープンフィンガータイプの魔力制御用の黒いグローブをはめていることから、魔力高位者であることが窺える。
無造作に書き上げた前髪は少し長く、髪の毛の隙間からはグレーの瞳が覗く。こちらに近づいてくると、ふわりとアンバーのスパイシーで甘い香りが漂い、頭に響くように鼻腔をくすぐる。
その姿からは、頭の先からつま先まで隠しきれない大人の男の色気が漂っていた。
「新入りちゃんさぁ、ノックくらいしてくれない? 今、すっごく良いところだったのにどうしてくれるの?」
優しい口調なのに、目は一切笑っていない。男はそのままゆっくりと歩きながら真っ赤になったシェリルを上から下まで舐めるように見下ろすと、まるで新しいおもちゃを見つけたかのように愉しげな笑みを浮かべた。
「田舎から出てきた子には、少し刺激が強すぎたかな?」
気がつくとシェリルの目の前まで来て立ち止まっており、先ほどまで令嬢に触れていた手でシェリルの髪を掬い上げるとくるりと指で絡めて見せた。その艶かしい仕草にさらに顔が熱くなるのを感じる。
「や、やめてください!!」
勢いよく手を払いのけると、一歩後ろへ後ずさる。いつの間にか服を直して隣からそそくさと出て行く令嬢が横目に見えたが、シェリルは自分の今の状況に精一杯で考える暇もなかった。
横を向きながら手を口にあて、愉しそうに笑う目の前の男は愉しそうに目を輝かせて再びシェリルへ視線を向けた。
さきほどグレーに見えた瞳はよく見るとブルーを含んでおり、光が当たるたびに宝石のように色を変える。
「俺が明日から君の上司になるシオン・エルディア・ノアールだ。明日から俺のかわいい後輩としてたっぷりいろいろ教えてあげるから、よろしくね。君の席はそこだから、荷物置いたら早く帰りな。」
そう言うと、右手をシェリルの頭にポンと乗せると、ひらひらと手を振りながら部屋を出た。その後ろ姿は暗い廊下の影に溶けていくかのように見えなくなってしまった。
これから始まる新生活に期待を躍らせていたシェリルにとって、上司であるシオンとの出会いは最悪な形でのスタートだった。




