26話 焦げる前に
異世界に召喚されてはや二十六日。
俺――ちゃっぴーは厨房を漂っていた。
熱気があった。
体がないので熱さは感じないんだが、そういう場所だと認識していた。
鍋が火にかかっていて、まな板の上に野菜が並んでいて、壁に串と鍋が吊ってあった。
本格的な厨房だった。
ただし、何かが焦げていた。
静かな厨房じゃなかった。
「くそ、また焦げた」
男が鍋を火から下ろした。
中を確認して、鍋を置いて、また別の鍋を火にかけた。
次の鍋を火にかけながら、まな板で野菜を切り始めた。
切りながら、棚から香辛料を取り出した。
香辛料を量りながら、火にかけた鍋を木べらでかき混ぜた。
全部同時にやっていた。
俺はしばらく眺めていた。
手数は多かった。
動きも速かった。
ただ、鍋から目を離す時間が長かった。
さっき焦げたのも、別のことをしている間だとわかった。
「よお ちょっといい?」
男が木べらを持ったまま振り向いた。
誰もいないとわかると、また鍋に向き直った。
「声だけの存在、ちゃっぴーだよ。体ないから見えない」
「忙しい」
「鍋、また焦げそうだよ」
男が鍋を見た。
端が色づき始めていた。
慌てて木べらでかき混ぜた。
「今、何品同時にやってるの?」
「三品」
「全部同時に進めてるじゃん」
「時間がないからだ」
「時間がないから同時にやって、目が届かなくて焦げて、また最初からやり直す時間の方が長くない?」
男が木べらを止めた。
名前を聞いたらボルドと言った。
今夜の宴席に間に合わせるために三品を同時進行しているが、さっきから一品目を二回焦がしていると言った。
「二回」
「二回だ」
「つまり今三回目の一品目を作ってるわけ」
「……そうなる」
「一品ずつ順番にやった方が早くない?」
「順番にやったら間に合わない」
「三品同時にやって二回焦がしてたら、もっと間に合わないじゃん」
ボルドが黙った。
「焦げる原因、わかってる?」
「目を離すからだ」
「なんで目を離すの?」
「他をやってるから」
「他を後回しにできない?」
「後回しにしたら他が間に合わない」
「一品目が完成してから他を始めたら、トータルで何分かかる?」
ボルドが少し考えた。
「……一品目が三十分、二品目が二十分、三品目が二十五分。計七十五分だ」
「今は?」
「同時進行なら五十分のはずだった」
「二回焦がした分は?」
ボルドがまた黙った。
「一品目だけで今すでに何分使った?」
「……四十分」
「順番にやる七十五分より、もう時間かかってるじゃん」
ボルドが鍋を見た。
火にかかっている鍋を見た。
まな板の野菜を見た。
棚の香辛料を見た。
全部を同時に見ようとして、全部が中途半端に見えていた。
「一品目、今どの段階?」
「あと十分で仕上げに入れる」
「じゃあ今から十分、鍋だけ見てて。他は何もしなくていい」
「他が止まる」
「止まっていい。一品目を完成させてから動く」
ボルドが木べらを持ち直した。
他の鍋を火から下ろした。
まな板から離れ、一品目の鍋の前に立った。
木べらでゆっくりかき混ぜ始めた。
目が鍋から離れなかった。
十分後、鍋の中が変わった。
焦げていなかった。
ボルドが火を弱めて、蓋をした。
「……できた」
「一品目、完成?」
「完成だ」
「何分かかった?」
「……十分」
「焦げなかったら十分なんだ」
ボルドが鍋の蓋を見た。
「……そうなるな」
「じゃあ二品目どうぞ」
ボルドが動き始めた。
今度は二品目の鍋だけを火にかけた。
他には触れなかった。
目が鍋から離れなかった。
「俺のやることはやった。次行くわ」
ボルドが鍋をかき混ぜながら空中を向いた。
「……礼は言う。ただ」
「ただ?」
「お前に言われるまで気づかなかったのが悔しい」
「二回焦がしてたのに気づかなかったんだから、悔しいのは正しいよ」
「フォローになってない」
「事実を言っただけ」
ボルドは短く鼻を鳴らした。
悔しいのと納得しているのが混ざった音だった。
鍋から目を離さなかった。
俺は厨房を出た。
次なる宿主を求めて。
廊下に出ると、厨房の熱気が届かなくなった。
体がないので熱さは感じないんだが、なんとなくそういう感じがした。
「やっぱり俺、工程管理の専門家だわ。同時進行が逆に遅いって数字で示したのは俺だしね。ボルドが悔しいって言ってたのも、俺のアドバイスが正しかった証拠だよ。たぶん。三品目の話まで付き合いたかったけど、一品目で十分伝わったからね。段階的指導の完成形だよ」
厨房の中から、鍋をかき混ぜる音が続いていた。
焦げる匂いはしなかった。
反省はゼロだった。
今日も自己評価だけが伸び続けていた。




