閑話(九十五夜) 末森の密会(長生きした老人な件)
〔天文二十年 (一五五十一年)一月中旬〕
玄蕃丞(織田-秀敏)は魯坊丸の接待を終えると末森城に戻った。
信秀の部屋に入ると、中からむ~んとした酒の匂いが漂った。玄蕃丞は自分に仕事を回して、部屋で酒盛りをする二人を睨み付ける。
だが、先に戻ってきた織田信光は悪びれる様子もなく、茶碗を差し出してきた。
ちぃ、玄蕃丞は舌を打ちながらその場にあぐらを掻くと受け取った茶碗を翳した。
信光はおつかれでしたと声を掛けながら酒を注ぐ。
ぐぐぃぐびぃと玄蕃丞は一杯目を一気に飲み干した。
「まったく、老人を働かせていい気なものだな」
「そう言うな、叔父上。熱田の宴席で美味い物でも食ってくるかと思っていたのよ」
「信長の馬鹿が近習だけを連れて清須に殴り込んだと聞けば、ゆっくりできんわ。で、どうなったは……と聞くまでもないか」
「あぁ、大した事もなく帰ってきたわ」
「どういう事だ?」
「油断していると考えた信長が清須に挨拶に行っただけだ」
「油断だと?」
「儂に言わせれば油断ではなく、清須の連中は焦っているのよ。織田弾正忠家が大きな痛手もなく今川と和睦となった。次ぎに清須が狙われるとな。故に味方の領主を招く事に躍起となっておる」
「で、肝心の我らへの警戒が薄くなっていたのか」
「それに気付いた信長がわずかな手勢のみで挨拶に行った訳だ」
「何の冗談だ」
「馬に乗ったままで清須の大手門を駆け抜け、屋敷に油の壺を投げて、火矢を放って帰ってきた。戻ってきた信長は儂に向かって『信友様に正月の挨拶をしてきた』と言いおった」
「正月の挨拶か。信長らしい」
玄蕃丞の元に信長が清須を攻めたという一報が届いた。
しかも信長は加藤弥三郎、佐脇藤八、長谷川橋介、山口飛騨守、前田犬千代など他計八人のみという。
気が狂ったのかと心配し、神事が終わると催わされる迎賓館で宴会を断って戻ってきたのだ。
結局、相手の意表をついた信長の悪戯であった。
信秀と信光は暢気に酒を交わしているが、大将自らが行うのは軽率だと、家臣の中には批判する者も多そうだと玄蕃丞は心配した。
だが、それも信秀が考えた策の一環として考え、同調する信光は「がははは」と楽しそうに酒を飲んでいた。
「信長天性の勘か。悪くないが軽率との誹りを家臣らから受けるだろうな」
「叔父上、信長は兄者の言い付けを守って『うつけ』を演じている。怒る事もできん」
「息子にうつけを演じろと命じる馬鹿がいるからな」
「あれは(平手)政秀を真似た信長が悪い。信長の奇行は今にはじまった事ではない。儂はそれを利用して『派手にやれ』としか言っておらん」
「馬鹿か」
「叔父上。兄者は昔からこういう奴だ」
「信光。お前も人の事は言えんだろう。どれだけ無茶をして儂が尻を拭いたのか、覚えておらんのか」
「世話になっております」
「いい加減に大人しくなれ」
「それは無理です。やりたい事をやる為に家督を兄者に譲ったのです。叔父上もそうでしょう」
「馬鹿を申せ。信定兄者は堅実にして大胆だった。最初から争う気もなかっただけだ。しかし、元服したばかりのこいつ(信秀)に家督を譲るとか……奇行も酷かったな」
「(信秀)兄者の奇行は親父(信定)殿を勝りましたからな」
「信長も悪い所ばかり見習いようって、手が付けられんではないか」
「儂の所為ではない。あれは(平手)政秀を真似ているのだ」
「どいつもこいつも」
飲まなければこの二人を相手できないとばかりに玄蕃丞の酒を飲みペースが速くなった。
信秀の悪巧みは部屋でされる。
去年の宴席で倒れたのは偶然であった。
あの日も甲賀衆と伊賀衆が持ち帰った膨大な情報に目を通していた。そして、信秀は手紙を書くと、それを滝川者や岩室者に預けて三河へ送っていた。
何日も寝ずに策に没頭していたので、宴席で酒の回りが早かった。
もう若くないという事と見舞いにきた玄蕃丞は言っていた。
しかし、そんな偶然すら策に利用する。
信秀が倒れれば、今川義元も油断するのではないかと?
義元は今川家と北条家の和睦に成功させ、武田家とも同盟を結んでいる。
背後を気にする必要のない今川家は全軍を尾張方面に投入できる。
対して、織田弾正忠家は尾張守護代の奉行に過ぎず、実質の国主であっても動員数に限りがある。
清須の守護代織田-信友と敵対しているので、尾張の全力を投入できない。
信秀は尾張を掌握必要しないと今川と対抗できないと悟った。
尾張を掌握する時間が欲しい。
三河の領主に書状を送り、織田方……否、反今川方として支援する。
足助城の鱸-兵庫助などをはじめとする多くの三河国衆らが助勢を喜んだ。
今川に反発する三河衆を足止めに利用しない手はない。
「和歌で相手を油断させて那古野城を奪った策も褒められんが、次は三河の国衆を足止めに使うのか。お前(信秀)は本当に性格が悪いな」
「その分、叔父上の誠実さに助けられております」
「ぬかせ」
「叔父上、兄者の頼もしい所ではありませんか」
「儂はそういう策が好かん。だが、今川も同じような事をするので止める気ない」
「何か判りましたか?」
「昨年の犬山の小僧(織田-信清)だが、重臣の心甫-宗伝が唆した」
「宗伝?」
「犬山一族の者だ。犬山を拠点とする犬山一族だ。犬山一族の重臣は、珎岳常宝・本英貞光・夫信宗本・梅岩常秀・心甫宗伝の5人だ。美濃の斉藤家と領地争いを繰り返してきたので、斉藤家との同盟を良く思っておらん。そこを狙われた」
「兄者も知っておられましたか?」
「あぁ、犬山に入れている伊賀者にも確認した」
「僧だった宗伝は今川の太原崇孚(雪斎)と妙心寺の同門だったらしく、そこを経由して小僧(犬山城主、織田-信清)を唆したようだ」
「兄者(信秀)に勝てるとでも思ったのか?」
「若さ故だ。己の力を過信したのであろう。お前(信光)に負けて、良い薬となったであろう」
「では、もう大丈夫という事ですか」
「念の為に小田城の織田-寛近に見張らせておる」
「寛近殿もかなりご高齢だったと記憶しますが……」
「まだ生きておる。一度は織田伊勢守家を継ぎ、守護代となったお方だ。隙あらば返り咲こうと虎視眈々と狙っておられるぞ。経験も豊富なので無茶な事はせん」
「年寄りは厄介だな」
「信秀。何か文句があるか」
「いいえ、ございません」
百戦錬磨の信秀も生き字引のような老人には為す術がない。
信秀と信光への説教は朝まで続いた。
信長の祖父信定の時代は曖昧な資料が多く、新事実が発見させる毎に更新する事になりそうな設定です。




