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九十四夜 魯坊丸6歳 (知恩院からのお願いな件)

 〔天文二十年 (一五五十一年)一月〕

 俺は6月生まれで四歳7ヵ月だが、数えでは生まれた瞬間に一歳となり、正月を越える毎に一歳増える。つまり、六歳となった。

 しかし、七つ前は神の内と言われるように幼児が一番命を落とすといわれる魔の六歳だ。

 よく食べ、よく運動をする。

バランスのよい栄養と適度な運動が病気の予防に繋がる。

 熱田の民には、農作業の合間でもできる家庭菜園や土木作業や内職を斡旋し、食卓に米類、魚、野菜が並ぶように配慮した。

 半強制的に中根家とその家臣に食させれば、需要が生まれて農民が野菜を栽培し始める。

 当然、余りものを自分らで食する。

 村に鳥小屋を作らせて鶏の飼育を義務付け、神の使いの鶏が産む卵を薬と位置づけた。

 余った卵を目玉焼きなどで食べる事を奨励しているが、熱田の料亭などが買いにくるので余らない。

 そこで空亡(くうぼう)(仏滅)の日のみ、厄除けで食するように命じた。

 熱田の子供らの健康状態は良好になっていった。

 天文十七年(1548年)に人質だった竹千代(後の徳川家康)が疱瘡(ほうそう)天然痘(てんねんとう))に掛かって生死の境を彷徨った。

 俺は拙いと思って竹千代のかさぶたと膿を採取して、自然乾燥させて健康な人に受け付ける予防接種を強制した。

 人痘接種法(じんとうしゅとうほう)(人痘法)だ。

 子牛の腹部から痘苗(とうびょう)を採取する研究をはじめさせたが、予防ウイスルの完成など待っていられない。

 健康な成人と子供が対象だ。

寝込むのを前提として衛生的な宿舎と看護体制を整え、村をいくつかに分けて順番に接種させた。

 もちろん、最初の被験者は俺だ。

 微熱で三日ほど休んだが、すぐに回復した。

 次に俺の護衛、城の兵に接種させ、村の子供、青年、成人と年を上げていった。

中根村が終わると、長根村……八事方面と広げた。

領内での接種が終わると、領主らの協力は求め、熱田神宮の診療所から医者を村に派遣させた。

また、発熱した患者は熱田の外れに設けた隔離所に入院させた。

 中根家の領民は強制だが、熱田の民は自由意志だ。

 自由意志だが、熱田大宮司が『熱田明神様のお言い付けだ』と言えば、同調圧力があるので半強制に近いので申し訳ない。

 百人に一人の犠牲者を出して、死んだ者の家族には、「寿命であった。他の神々がその魂を欲してしまった。俺の力不足だ。申し訳ない」と謝った。

 内心はどう思っているか知らないが、俺が頭を下げれば、それ以上の苦情を上げる者はいない。

 熱田明神サマサマだ。

 最後は気候のよい秋に祈る気持ちで里にも施した。

 里は熱も出さすに元気だった。

 そして、去年(天文十九年)の春に俺が恐れていた疱瘡(天然痘)が流行ったが、熱田は平穏だった。

 今更そんな話をしているかと言えば、去年の春にお市も疱瘡に掛かっていたと告げたからだ。


「朝起きたら、変な斑点が一杯あったのじゃ」

「お市様は大丈夫だったのですか?」

「里の心配は無用じゃ。熱が少しあったがわらわは平気じゃ。面白い顔だったのでお栄に見せにいったのじゃ」

「あのときはびっくりしました。赤い斑点が顔中にありました」

「お栄は無事だったのか?」


 俺がそう聞くと里は首を横に振った。


「いいえ、お市姉上に移されました。少しして十日ほど熱に魘されて辛かったです」

「お市……」

「あははは、悪かったのじゃ。うつるとは知らなかったのじゃ」

「それでお市は最後まで何ともなかったのか?」

「母上らに叱られてずっと部屋に閉じ込められたのじゃ」

「当然だ」

「外に出るのも駄目と言われて退屈だったのじゃ。大変だったのじゃ」

 

 大変の意味が違う。

お市は超人か、顔に赤い斑点が出ているので疱瘡(天然痘)に掛かっているのは間違いない。

しかし、それで平気とか信じられない?

お市がやってきたのは去年の夏だったので、春の出来事はまったく知らなかった。

気にも掛けていなかった。

 確かに畿内で流行だし、京や堺と取引が盛んだったからか尾張まで広まっていた。

しかし、熱田では被害が0(ゼロ)件だったから完全に意識外だった。

すでに掛かったなら予防接種も必要ない。

 今も予防接種は田植えが終わった初夏から稲刈りが始まる秋まで熱田の離れに建てた隔離所の一角で予防接種を実行している。

 五歳になった子供を連れて、熱田離れの隔離所にやってきて接種し、子供は接種見舞いの餅十個を貰って喜んで持ち帰っている。

 牛痘法の研究も進めているが、まず牛を潰して食べる習慣がなく、安定した供給が難しい。

冷蔵庫があれば解決するが、それが一番難しい。

次に獣の一部を移植に拒絶する者が多いので、実用に至っていない。


さて、正月からお市とお栄が中根南城の別館にいたのか?

俺は今年も三が日を熱田神宮で過ごし、四日から城に戻って年始挨拶で大忙しだった。

 四日から七日は別館に足を運ぶ暇もない。

 信光叔父上、勝幡城の信実(のぶざね)叔父上、津島の重鎮等々の来訪で一杯一杯だったのだ。

 しかも熱田に来訪した公家様の希望で呼び出される事もあった。

去年は呼び出される事はなかった。

平手政秀の秘蔵っ子、尾張の麒麟児という噂が京で広まっているからだろうか?

先触れがあった限りで重要人物の来訪が終り、次は家臣や熱田の領主などがやってきている。

 俺とも会いたいのだろうが、対応を養父(中根(なかね)-忠良(ただよし))に押し付けた。

 朝から晩まで取り繕った顔をしていると、表情筋が痙攣を起こしそうだ。

別館に避難しようと足を運んだ。

すると、里と一緒に遊んでいるお市とお栄を見つけたのだ。

 お市とお栄が来訪したという報告を受けていなかったので驚いた。

 付き添いのさくらが「お市様とお栄様は来ていない事になっております」と告げた。

 お市とお栄は客ではない?

 詳しく聞くと、お市とお栄も末森から避難してきたのだ。

 去年の冬、親父が倒れてから末森の差配を信勝が預かり、正月の挨拶も信勝兄上が仕切っている。

 はじめての城主代理で信勝兄上も苛立っているようだ。

 しかし、親父は特定の者のみを部屋に招き、自室に籠もったままで出て来ない。

 信勝兄上は一杯一杯なのだろう。

 あっ……信光叔父上が面倒事を息子信成(おだ-のぶなり)に押し付けた理由が判った。

 末森に留まっていると忙しさが二倍になる。

 そこで中根南城や熱田などを回って息抜きをしていたのだ。

 養父も重要でない者は挨拶のみで終えて、細かな対応を城代や家老に押し付けている。

俺も定季(さだすえ)や千代女らに回している。

 要領を得ない信勝兄上は、すべてに対応しようとして疲労と鬱憤を貯めているようだ。

そのイライラをお市にぶつけた。

 お市が声を荒げて訴えた。


「勝兄ぃは酷いのじゃ。わらわが少ししゃべっただけで怒るのじゃ」

「苦労しているのだ。労ってやれ」

「嫌じゃ。遊んでくれんし、家臣と鍛錬していると女に鍛錬は要らんと怒るのじゃ。廊下を走るなと怒鳴るのじゃ。話しているだけでお淑やかにしろと怒鳴るのじゃ。とにかく、怒鳴るのじゃ」

「それで俺の所に来たのか」

「里もいるし、こっちの方が気楽なのじゃ」

 

 自由奔放なお市と生真面目な信勝兄上は水と油だ。

お市が何かをする度に信勝兄上が怒号を上げるらしい。

そして、お栄も目を付けられた。

 お市がお栄を連れ出して庭で遊んでいたからだそうだ。

 何となくわかる。

 自分が忙しく苦しい時に、外で楽しげにしている者を見るとイラっとするからな。

 俺もさくらや楓が楽しそうにしていると、急ぎでないのに用事を言い付けた記憶がある。

 信勝兄上は暴力だった。

末森では肩身が狭いので、侍女の配慮でお市とお栄をこちらに避難させた。

 お市とお栄の侍女らが俺に頭を下げた。

末森は一段落するまで泊めて欲しいと母上に頼み、俺の別館を使うようにと言われたらしい。

 だから、いない事にしていたのか。

 中根家に来た来客が本家の姫であるお市を見て、挨拶もせずに去ってゆく訳にもいかない。

 だが、お市が挨拶をできるとは思えない。

 一人や二人なら対応できるかも知れないが、次々とやってくれば、お市が癇癪を起こす。

 別館に押し込めるのが得策だ。

俺に否はない。

 だが、お市がいるとのんびりと休憩もできない。

 のんびりするのを諦めて、俺は適当に切り上げると本館に戻った。

 さくらが俺の前で膝まく。

 

「若様。板倉(いたくら)-忠政(ただまさ)がお越しになりました。お会いになられますか」

「忠政か。京から戻ってきたのか」

「知恩院の手紙を預かってお戻りなりました。まず、大宮司(千秋季忠)様とお会いになりました。そこで末森の大殿に会いにゆくと言われたそうですが、大宮司様から若様を通した方がよいと助言されたそうです」

 

 季忠経由か。会わない訳もいかんな。

 広間は養父と母上が占有しているので、予備の応接間に通させた。

 忠政が長々と武衛屋敷の進行状況を説明してくれる。

 すでに熱田の神官から聞いているので二度手間だ。

 忠政は足利一門の渋川を名乗っている一門であり、父の頼重と兄の好重は深溝松平氏に仕えている。

 若い頃、松平(まつだいら)-清康(きよやす)に仕え、守山攻めでは岩崎城の守備隊長に抜擢された。

 しかし、清康が家臣の弥七郎(阿部(あべ)-正豊(まさとよ))に誅殺される。すると、味方だった丹羽(にわ)-氏識(うじさと)に襲われて岩崎城を失った。そして、親しかった(まき)-長義(ながよし)を頼り、敵であった織田家の力を借りて岩崎城を取り戻そうとした。しかし、その丹羽-氏識が織田家に降ったので取り戻す機会を失い、牧家の家臣となっていた。

 朝廷と幕府の窓口は守護斯波(しば)-義統(よしむね)の甥である(まき)-長義(ながよし)と決まった。

 忠政は長義の名代として京に上がっており、長々と武衛屋敷の状況を説明してくれた。

 報告が上がっているので知っている事だった。

俺は退屈な目をして聞いていた。


「……という事でございます。また、大柱はまだ使えますので使用します。それ以外の本館と別館の解体が終わった所でございます」

「ご苦労であった」

「大した苦労ではございません。やりがいを感じております」

「して、知恩院の手紙とは何だ?」

「こちらにございます」

 

 知恩院には、武衛屋敷の改修に必要な資材置き場、および、作業員の宿舎を建てる土地を貸し出して貰っていた。

 俺は手紙を受け取ると封紙を開いて中身を読んだ。

 知恩院は本殿の横に別館を建てる予定で資材や大工などの職人を手配したが、資金が集まらずに中断していると書かれていた。


「知恩院も末社で酒を売って儲けているのではないか?」

「それは畿内に限られます。地方の寺も四苦八苦しており、裕福な大名も限られております」

「つまり、限られた大名として、織田家に白羽の矢が立ったのだな」

「その通りでございます」

「しかし、はいそうですかと言って出せる額ではない」

「誠にその通りでございます。某もそう答えましたが、住職は出して頂けるならば、部屋割りをはじめ、織田家の要望を何でも聞くと言ってくれました」

「本当か」

「大殿が上洛の折に、別館を宿泊所として自由に使ってよいとの事です。しかも兵の宿泊所を建てるのも許可すると言われました」

「上洛時の手間が一つ省けると言いたいのだな」

「その通りでございます」


 上洛では、どこで寝泊まりするのかが問題となる。

 数十人なら問題などないが、数百人、数千人の兵を引き連れて上洛すると寝床を確保するのが問題となる。

 手紙には貸している土地に織田家専用の宿泊施設を建設しても結構と書かれていた。

親父が上洛するのは、武衛屋敷の完成式だ。

親父から工事の責任者である俺も上洛しろと言われるかも知れない。

 公方様と三好が争っている京に上がりたくない。

 少しでも安全を確保するのに知恩院の魔改造はありだ。


「千代、京の地図を取ってくれ。さくら、源五郎が来ていた筈だ。呼んで来い」

 

 俺が京の地図を広げると、驚きながら忠政が食い入るように覗き込む。

 武衛屋敷に派遣した宮大工に同行させた者に目視で測らせた地図なので精度は今一つだが、全体の位置関係は一目で判る。

 知恩院は京の東に位置しており、鎌倉街道の終着地点に近い。

 白川を利用する為に白川に面した所に武衛屋敷の資材置き場を借りている。

知恩院の東は山が聳えているので攻め難い。

 俺は千代女に問う。


「西は白川を拡張して堀として利用すれば、防御力が上げられるな」

「問題ございません。さらに栗田神社まで堀を掘り、白川から水を引けば、北の防御も問題ございません」

「南は祇園社があるので現地で対応するしかないか」

「若様。知恩院は寺ですので、城のように固める訳にはゆきません」

「だから、源五郎を呼んだ」

 

 源五郎はグライダーに興味を持つ変わり者の宮大工だ。

 創意工夫の中根南城の増築にも関与している。

 寺の造営を任せても大丈夫だ。

 知恩院に建てる兵の宿泊所は熱田の迎賓館を真似て、外装の飾りを付けた安普請のプレハブ工法で建造すればいい。

 風呂と言えばサウナの事だが、俺は湯船に浸からねば、風呂に入った気がしない。

 別館に口出しできるなら風呂と台所には織田式を採用させよう。

 金山衆が竹のくみ取り式ポンプを改良し、鉄で作った『手押しポンプ』を完成させている。

 せっかくだから知恩院に持ち込ませよう。

 今の源五郎は、二十分の一スケールのグライダーの模型を打ち出すくらいしかヤル事もない。

 源五郎がやってくると、俺の要望をずらりと並べて知恩院の派遣を命じた。

 

「気分転換だ。京見物のついでに知恩院の縄張りを頼めるか?」

「銭の方は如何ほどに?」

「あまり余裕はない。其方の創意工夫が必要だ。無理を言っているが頼めるか」

「判りました。しかし、材料の輸送、職人を百人、信用できる作業員を三百人は用意して頂きたい」

「承知した」

 

 知恩院の別館に献金するので余裕はない。

 それなりのものが出来れば文句はなかったが、源五郎の腕は俺の予想を超えていた。

俺が上洛した後に驚かされる事になる。

知恩院を守る質素な土壁は、高さがないように見えて土台を盛ってある。

土を盛った分だけ、堀を深くできる。

イザぁ、攻めるとなると高低差が大きい壁となる。

もちろん、堀に隠し蓋を乗せ、その前には低木を植えて、遠くから見えると高くないように見せている。

土壁も中根南城と同じ二重の壁を採用していた。

その壁の土台の土を確保する為に極楽池を掘って調達していた。

極楽池は知恩院の西に掘られた大きな穴だ。

そこに武衛屋敷の廃材を再利用して知恩院道に大きなカラクリ大橋を建てていた。

 よく知恩院の住職が許可したと思ったが、平等院の前に大きな池がある。

 平等院の極楽絵図にも池が書かれている。

 あの世とこの世の間に池があるのは当然なのだ。

 知恩院を極楽と称し、極楽の前に池は必要と問えば、喜んで賛同してくれた。

 銭もすべて織田持ちなので喜んでいる。

 飯を宛がうだけで手伝ってくれる流民が多いのも幸いだった。

 そんな立派な城になっているとは、命じた俺も考えもしていなかった。


WEB版と小説版の知恩院地図の違い。

2つの大きな違いは鴨川の氾濫域に認識が大きく変わった事です。

WEB版では、三門から三条橋にまっすぐに引かれた斜め道を想定しましたが、氾濫域が想像以上に広い事が判ってきました。

挿絵(By みてみん)

しかも上京と下京の生活域も当初より小さく、府道32号線より西側だったと判ってきました。

実際、32号線を下ると東側に土手通りがあります。

逆に知恩院側は、建仁寺前の大和大路通り当りに土手があったようです。

思っていたより鴨川の河川敷が広かったのです。

挿絵(By みてみん)

しかし、地図を見ると八坂神社(祇園社)まで上流にくると、大和大路通りは川沿いになって行きます。二つの川が合流する地点は氾濫しやすい場所です。

横に広がらず狭まっているのは近年の河川工事の後にできた土手道と考えました。

花見小路が微妙にうねっているので中世の土手道と仮定しました。

そこで知恩院道を土手道(花見小路通り)までとし、知恩院の構想を大きく変更しました。

こうして書き直したのが、知恩院の地図となります。


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― 新着の感想 ―
この時期から知恩院を対三好要塞として改修してたのですね。 後世陰謀論が色々囁かれる事でしょう。 落語ネタになった廁評定の舞台でもあるし、歴史家の飯の種になりそうな記録がでてきそうだ。
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