九十一夜 試作艦の進水式(沈没な件)
〔天文十九年 (一五五十年)十一月十八日~十九日〕
親父は戦の初期から幕府に訴え、幕府の使者が今川家に停戦を呼び掛けて下向した。
幕府は両者に和睦して上洛を命じた。
しかし、今川義元はのらりくらりと躱し、態度とは裏腹にガン無視を続けているそうだ。
駿河から帰ってきた使者が「今川義元のどこが足利一門だ。誠意の『せ』の字もない。公方様を蔑ろにしおって……」と親父に愚痴ったそうだ。
侮られる幕府にも問題があった。
京から逃げた前公方様は今年初めから京に戻る為に攻勢に転じた。
細川晴元や六角定頼や朝倉義景らに参集を促し、近江の穴太まで進軍した。
対する三好長慶は前年の天文十八年に山城の荘園を押さえ、今年は摂津の平定を急いでいた。
そして、五月に前公方であった足利義晴は亡くなった。
公方様は淡海の海(琵琶湖)の中腹にある比叡辻の宝泉寺にあった為に葬儀には立ち会えなかったと聞いている。
公方様は敵討ちを宣言され、諸将を集めた。
親父(織田-信秀)の所にも参陣の使者が届いたが、今川勢が引かないと兵を出せないと和睦の仲介を再度お願いした。
公方様に和睦をお願いした手前、親父は今川へ反転攻勢に出られない。
そんな態度を家臣らに貫いた。
七月になると、細川と六角の兵が集まり、幕府軍は京の北東に当たる北白川の中尾城まで進出し、京に駐留していた三好勢と小競り合いを起こした。
しかし、細川勢の士気は低く、細川晴元は一度も戦う事もなく撤退する。
朝倉義景の越前勢も出陣してきたが、敦賀郡疋壇国境で兵を止めてしまったのが原因であり、晴元は義景の説得の為に一度兵を引き上げたらしい。
戦線は硬直し、十月になると三好長慶から幕府へ和睦の使者がきた。
公方様が和睦を蹴った。
そして、朝倉義景に南下を促し、美濃にも使者を送り、親父の元に再び上洛を促す使者が送られた。
当然、三河にいる今川義元にも使者が赴いた。
そして、親父と和睦の後に今川義元も上洛するように命じたが、相も変わらず、のらりくらりと返事を渋った。
和睦と上洛の条件が奪われた那古野を返還するとか?
さすがに親父も承諾できない条件だ。
三好勢四万人の大軍が山城国に入れると、不利と感じた公方様は中尾城に自ら火を放って坂本まで兵を引いた。
三好勢が大津まで兵を前に進めると、公方様は堅田まで兵を下げ、六角定頼も観音寺城を手薄にできないようで兵の半分を城に戻し、朝倉勢が動かないので大勢が決まった。
幕府の使者は堅田からの報告を聞いて肩を下ろした。
どうやら秘密裡に三好家と六角家で停戦の話が進んでいる。
六角定頼は公方様を追い詰めて自害に追い込むと、三好長慶は公方殺しの悪名を持つ事になると脅したのではないだろうか?
下剋上は最悪の風聞だ。
三好方は幕府の兵を下げて、公方様が朽木に隠遁する条件を出したらしい。
十月末なると、上洛の条件が無くなったので今川と織田で停戦がなった。
今も和睦の交渉が続いている。
和睦を為して、織田家と今川家から上納金を出させるつもりだ。
上納金と言えば、美濃も同じだ。
美濃の斎藤利政にもこれまでの所業を許すので参陣せよと幕府から命じられた。
好機を逃さず、利政もわずかな兵と幕府の戦費を送った。
六角定頼と朝倉義景に嫌われているので大軍が出せないと訴え、利政は幕府に仲介を願った。
幕府の仲介は入ると慌てたのは美濃守護の土岐頼芸である。
頼芸の側近らは根こそぎ潰され、孤立無援の状況に利政が幕府に許され、さらに利政が六角定頼、朝倉義景と和睦すると頼芸を擁護する者が居なくなる。
まことしやかに「斎藤利政は新たな美濃守護を公方様の弟君になって頂きたいと願った」、「土岐家は呪われている。従兄弟の土岐-頼純も不慮の死が訪れ、戦に出陣すれば、土岐殿に何かあっても不思議ではない」という噂が流れた。
誰が流したのかは察しがつく。
少し遅れて美濃勢が上洛する道となる北近江の京極-高広と浅井-久政との和睦がなり、美濃勢の道が開けたと頼芸の耳に入る。
利政は頼芸を総大将に上洛を願った。
戦場で不慮の死が起こるのはよくある事であり、頼芸は道中で殺されると恐怖した。
耐えきれなく頼芸は妻の実家である六角家を頼って亡命した。
これで国内が落ち着くまで上洛できないと、利政は上洛を引き延ばす口実を得た。
相も変わらず、利政の腹黒さが際立っている。
幕府は親父に資金提供を求め、親父も和睦がなれば礼をすると答えている。
千代女を通じて京の情勢を調べさせると、公方足利-義藤は懐がかなり厳しい事が判った。
内情を知らせる為に望月家の名代としてきた望月-吉棟の報告を聞きながら、俺は千代女に尋ねた。
「千代、義元はどう動くと思う」
「和睦には応じると思います。そろそろ今川の兵を休ませたいと考えます」
「だろうな。だが、義元は公方様への畏敬の念がまったくないな」
「仕方ありません」
「公方様の権威も地に落ちたな」
「京の者が公方様への地子銭を拒絶しております。三好勢を追い返す力が幕府にないと侮られた証拠です。金銭に乏しい幕府方は織田と今川から銭だけでも絞り取ろうと考えたと思われます」
「公方様は兵を望まれているが、家臣らは今日の糧を集めるのに必死か」
「そのようでございます」
「世知辛い世の中だな。だが、和睦は悪くない」
今川家も公方様の仲介を承諾した和睦を簡単に破れない。
口の根も乾かぬうちに破ったので、諸将から不興を買う。
京での権威は地に落ちたが、尾張や三河では公方様を『武家の棟梁』と仰ぐ者は多い。
公方様の権威を無視すれば、足利一門を自負する今川家に傷が付く。
それに一年近く戦い続けた兵を休ませる必要もある。
金山を開発して富みがある今川だが、今回の戦でかなり多くの支出をした。
兵の不満、財政的にも和睦は必須だ。
そのうちに難癖を付けて和睦を破るのは目に見えているが猶予が生まれる。
戦はここまでか。
「吉棟、明日は試作船の『船開き』だ。新嘗祭があったので延期していた。神官らは二十五日にしたいと言ったが、加藤順盛が待てんと押し通した」
「帆船の完成ですか?」
「違う。その前段階の小型船だ。俺も祓詞の奏上を担当する。一緒に参加するか」
「お供致します」
翌朝は早くから熱田湊を出港し、昼から『船開き』が始まった。
順盛が騒いで五月蠅い。
工事を始める前の「地鎮祭」、船の型枠が完成した時に行った「上棟式」、今回は完成を感謝する「竣工式」だ。
この竣工式で清祓いが終わると木で作った大きな滑車を引いて船を海に入れ落とす。
船開きと呼ばれる『進水式』となる。
坂を転がり、船が大きな水しぶきを上げて着水した。
「順盛は乗ると騒いでいたのに乗らないのか?」
「乗りたいが家臣らに止められた。船と同じほどの帆柱を立てた船は初めてだから、運航を試してからだと拒絶された」
「妥当だな」
「魯坊丸様が考えられ、祈祷された船が沈む訳がない」
「無茶を言うな」
試作船は中型ヨットサイズだ。
しかし、全長と帆柱の高さが同じであり、他の船に比べると少し帆柱が長い。
喫水を深くし、船底の重り(バラスト)でバランスは取れている。
しかし、平底の船しか造った事のない船大工が、試行錯誤で竜骨を組んで組み立てた。
強度計算なんて滅茶苦茶だ。
実際に浮かべて確かめてゆくしかない。
日が傾きかけた頃にやっと準備が整って帆を張って進み出した。
北西から吹き付ける風を問題せずに切り上がっているのを見て、順盛が興奮していた。
「魯坊丸様、ご覧下さい。風に向かって走っておりますぞ」
「さすがだな。初めてでも巧く動かしている」
「当然でございます」
「成功か……⁉?」
何度も何度もターンを繰り返し、船体を大きく反転させた瞬間、船が大きく横に揺れて倒れていった。
俺は目を凝らしたが、小さくてよく見えなかった。
「千代、見えたか?」
「倒れる瞬間に帆柱が腹を突き破ったような気がしました」
「反転する応力に耐えきれなかったのか?」
「そこまでは判りません」
「とにかく、船員の救出を急がせよ」
こんなものか。
全員が無事だったと報告が上がった。
死者がいなかったのが幸いか。
吉棟には、ありのまま報告しても構わないと言っておいた。
順盛が号泣しながら船員の無事を喜び、原因の究明を急げと指示を出している。
試行錯誤を繰り返すのは織り込み済みだ。
まったく問題はない。
■船の大きさ
・戦国時代、船の大きさ
小早:全長8.4m、幅2m、長さ6.6m。積載量(推定3~6石、500~1000kg)
300石船:全長約36.7尺(約11.3メートル)積載量45トン(300石)
関船(小型)全長約112尺(約34メートル)積載量75トン(500石)
キャラック船(1本マスト、四角帆)積載量150トン
キャラック船(3本マスト、三角帆)積載量50~200トン
キャラック船(3本マスト、三角帆)全長30~60m、排水量200~1,500トン
帆船『みらい』3本マスト 全長52.16メートル 全幅8.6メートル 総トン数230トン
ベルベットムーン(ベルベット ムーン)全長16m 総トン数23トン
咸臨丸(3本マスト、バーク)全長59.34m 総トン数390トン
海王丸(4本マスト・バーク) 全長110.09m マスト高約45m 総トン数:2,556トン
日本丸(4本マスト・バーク)全長110.09m マスト高約45m 総トン数2,570トン
・ヨット大きさ
小型艇:全長約8メートル(24フィート)程度のヨット、排水量5トン(33石)
中型艇:全長約10メートル(30フィート)程度のヨット、排水量7.50トン(50石)
大型艇:全長約13メートル(40フィート)程度のヨット、排水量13トン(87石)
■地鎮祭の流れ
修祓で参列者とお供え物を清める
降神で氏神様を迎える
献饌で氏神様にお供え物を奉納する
祝詞奏上で工事の安全と家の繁栄を祈願する
四方祓い(しほうはらい)で土地の四隅と中央を清める
鍬入れ(くわいれ)で施主が砂山に三度掘る仕草をする
玉串奉奠で氏神様に玉串を捧げる
撤饌でお供え物を下げる
昇神で氏神様を送り返す
神酒拝戴で参加者全員でお神酒を飲む
神官退下で終了する。




