八十七夜 熱田名物『葛足袋』(ランニングシューズ)
〔天文十九年 (一五五十年)9月〕
怪我の功名、刺客に襲われて影武者を手に入れた俺は祭の巡業を影武者に委託した事だ。
問題と言えば、母上が天王祭に行くと言って駄々を捏ねた事だ。
母上が同行しては警備が難しくなる。
加藤-三郎左衛門が率いる愚連隊が活躍し、刺客の危機が去るとその埋め合わせに、津島の秋祭に呼ばれた。
まぁ、俺が居なくとも回る事が証明できたのが光明だ。
しかも俺の名代であった養父中根-忠良、義兄上 中根-忠貞が春からずっと出陣したままであり、名代不在でも機能した。
残された譜代の武将や監督の教育が行き届いてきた証拠だ。
判断がつかない案件は書状で対処していたが、完璧とはいかなかった。
津島の秋祭を終えると、熱田神宮の所用を手早く済ませ、尾張中の現場を巡る事になった。
しかも帝の使者を迎える例祭に次ぐ、新嘗祭の準備に間に合うように終わらせなければならない。
倒れないように配慮しながら、過密日程を熟して中根南城に戻ってきた。
「若様、明日は休養日とします。ご緩りとしてください」
そんな優しい言葉を千代女から掛けて貰った。
朝練もなく、朝からゴロゴロ、昼を食べると昼寝を楽しんだ。
そして、例の如く、毎日ほど通ってきているお市が乱入してきた。
「魯兄じゃ。勝負なのじゃ」
「お市、何の勝負だ。ジェンガか?」
「じぇんがもよいが、今日は新しくなった遊戯道(アスレチック)で勝負なのじゃ」
「新しくなった?」
俺の脳裡に不安が過った。
先日、熱田神宮から帰った時も改造されていた。
別邸に移動して実物を見た。
元々のコースの内側に新しく二レーンが併設され、高難度の魔改造が為されていた。
「水に浮かせた丸太の上を走るとか無理だろう?」
「簡単じゃ。こんな感じで乗るのじゃ。里もできるぞ」
「兄上、私もできます」
お市と里が丸太の上に乗って実演してくれた。
俺には無理だ。
何度か試したが、侍女に支えられえ落水を免れた。
俺は新しいコースをスタートすらできない。
俺はリタイアだと告げると、お市が不満そうな顔をする。
リタイアはダメらしい。
そこで千代女が代案を出してくれた。
「では、こう致しましょう。若様は外回りの旧道を走り、お市様と里様は新道を走ります。一周では若様が簡単に勝てるでしょうから、五周勝負と致しましょう」
「わらわはそれでよいのじゃ」
「私も頑張ります」
こうして勝負が始まり、俺の勝利で競争は終わった。
かこ~ん。
用水路から注がれる水が『ししおどし』に注がれて、甲高い竹の音がどこから響いてくる。
俺はお茶をすすりながら勝利の余韻に浸る。
あぁ~、お茶が美味しい。
俺はすべてを忘れて壺中天に耽った。
(※ 壺中の天:人はどんな俗世の嫌な生活があっても、別世界を楽しむころができる)
中根の名物は風邪薬の『葛根湯』となってきた。
周辺の商人らも買ってくれる。
まさに薬九層倍、最大の儲け頭だ。
蔦は乾燥させて風呂を沸かす燃料としていたが、それだけでは勿体ない。
俺は試験的に繊維を取り出して、葛糸を作らせた。
麻が細長い繊維が取れるのに対して、葛に束になって少し太く丈夫そうだ。
編んだ葛布は光沢も美しく、麻より伸縮性に優れていた。
普段の下着と採用した。
そこから湿潤性に優れていると知れ、村人が蒸れやすい足袋の布に使いはじめた。
葛布足袋の特長は光沢があり、丈夫で痛み難い。
燃やすだけでは勿体ないと作らせた葛布だったが、密かに中根村の名物となっっていった。
葛布足袋が丈夫と言っても、やはり底の消耗が激しい。
それで繊維を束ねて太い糸を作り、さらに三つ編みを作り、三つ編みで靴の底の型を作る。
完成した葛糸の塊に膠の接着剤で固めて靴底を作った。
完成した靴底を足袋に貼り付けると『熱田足袋』の完成だ。
ゴムが手に入らないので、葛布で作った代用品だ。
草鞋は一日履くとダメになるが、足袋なら十日ほど持ち、靴底付きなら三ヵ月も持つ。
しかも靴底の交換が可能なのだ。
ここから派生して革を上に被せた革足袋も作っている。
革足袋はちょっとリッチな侍が戦で使用する。
我が中根家では葛足袋に一文銭に似た鉄銭を糸で編んで、魚の鱗のように貼り付けた。
忍び葛足袋には、足袋と靴底の間に薄い鉄板を挟ませて撒き菱に備え、甲の部分にも鉄板を挟み込んだ。
一通り皆に行き渡ると、熱田屋の系列の店で売り出した。
少し高いので、靴底がある足袋の需要は少ない。
珍しいもの好きの信長兄ぃが三百個ほどまとめて買ってくれた。
ありがたい。
俺も城では普段使いしている。しかし、外出時では履けない。
なぜならば、直垂に足袋はタブーであり、普段着の水干の姿でも足袋が履けず、外出時は浅沓を履いている。
俺は広告塔として役に立っていない。
見回り組や熱田商人は買ってくれて普段使いしてくれているが、正式に神社や城に出向く時は直垂姿であり、やはり足袋姿はタブーなのだ。
慣例をぶち破らないと普及は難しい。
俺の横で「若様、若様」と叫ぶ、楓が五月蠅い。
「楓、何のようだ?」
「先程からずっとぼっとしているので声を掛けました。お市様に負けそうになった事は気にしないで下さい」
「俺は勝った優越感に浸っているのだ」
「そうは見えません」
「お市と里はあの難度の障害を軽々と攻略できるのだ?」
「攻略できない障害を作っては意味がありません」
そう楓は言うが、どれも難度が高く、俺にはクリアーできそうもない。
速度はともかく、里がクリアーできている事に驚いた。
俺が走った旧遊戯道も難度が上がっていたが、以前と同じだったので何とかなった。
一周目、二周目とジワジワとお市を突き放して独走した。
そのまま終わるかと思ったが、三周目から足が重くなり、四周目から速度が落ちた。
一方、お市は速度が上がり、もう逆転は無理と思えた距離を詰めてきた。
最終の五周目は背中まで迫ってこられ、俺も焦った。
もう足が鉛のように重く感じているのに速度を上げないと追い付かれる。
必死に足を動かして僅差の勝利を捥ぎ取った。
滅茶苦茶悔しがるお市を見ながら、俺は勝った気分になれない。
なんとか兄の威厳を保てたかな?
そんな感想だった。
それより驚いたのは、二周遅れて里が完走して事だ。
里が五周を完走するまで、お市が激励を送っていた。
「お市はなんとなく運動神経が図抜けているのはわかる。だが、里は普通だ。どうして完走できるのだ?」
「もう一度申しますが、完走できない障害を作っても意味がありません。あれをご覧下さい」
楓が広場の脇で遊んでいるお市らを指差した。
「何をしている?」
「新しい障害物の制作です。次に加える障害は壁飛びと坂上がりですね」
壁飛び。
壁に棒を置き、それ足掛かりに壁を飛び越える。
坂上がり。
滑り易い常滑りの土も盛った坂を駆け上がる。
「まず、侍女がやり方を見せて、お市様と里様に会わせて難度を調整しています」
「作る前に試させていたのか?」
「お市様と里様が使える用に調整しています」
お市が壁に掛けた棒に足を置いて飛ぶと、体操の跳馬を飛ぶように一回転して反対側の網に落ちた。
お市が楽しそうに笑っている。
里も続けて飛ぼうとしたが、蹴る力が足りないのか、顔を壁にぶつけそうになると、すかさず侍女が手を添えて、補助を加えて一回転させて壁の向こう側の網に落とした。
「里様も恐れずに壁に向かっていますから、いずれは補助なして飛べるようになりますよ」
「お市は一度で成功したな」
「お市様は天性の勘を備えていますから」
次にお市は高い方に挑戦していたが、こちらは補助なして越えられない。
ちょっと悔しそうだ。
一通り壁越えの試験を終えると、次は坂道だ。
侍女は勢いを付けて坂を駆け上がったが、お市は上がり切れず、前方に転けてズルズルと落ちていった。
わずかに穴を掘っていくつかの足場を作る。
お市が勢いを付けて駆け上がるが足場が崩れ落下したが、里は難なく登り切れた。
お市は里に負けたのが悔しかった。
それが嬉しかったのか里が笑った。
もう一度、お市が試したが、やはり途中で足場が崩れてまた落ちた。
里も二度笑った。
作成者の従者がから助言を貰うとお市も登り切った。
勢いがあり過ぎて、足場が持たない。
足元をやんわりと勢いを消すと、足場がくずれずに登り着せるのか。
攻略方法を知れば、進める訳か。
丸太乗りの練習したのだろうか?
俺はすべての障害を攻略する気にならないので、旧道を残させる事に決めた。
そんな時間があればゴロゴロするぞ。
泥だらけになって戻ってきたお市と里に、俺は風呂場を指差した。
お市は少し不満そうだったが、風呂から上がってきた後にジェンガで勝負だと言えば、機嫌を直して風呂場に走ってゆく。
もう走るのは嫌だ。
ジェンガの後は、囲碁と将棋を教えてインドアで遊ぼう。
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休日はお市と里と遊んで消化された。
風呂上がりに紅葉が障害の元ネタが紅葉らを鍛える為に使った山の修行方法だと教えてくれた。
紅葉らがやった修行に安全性を考慮したものに変化させたようだ。
元ネタがそんな所にあるとは思わなかった。
そして、紅葉が「このままだと、いずれお市様に勝てなくなりそうです」とお茶目ぼかしに呟いた。
俺は「まさか」と答えていたが、後に思い出す日が来るとは思っていなかった。
今日はどうでも良い、戦国時代の履き物ネタを書いてみました。
■壺中の天
昔、汝南の役人をしていた費長房という男が。薬売りの老翁に頼みこんで壺のなかに入れさせてもらい、金殿玉桜がある別天地の楽しみをした。
六中観には、
「忙中閑あり、苦中楽あり、死中活あり、壺中天あり、意中人あり、腹中書あり」と書かれています。
どんな境遇に生まれても、内面にいかなる別世界を持てるかで人の風致が決ます。
素晴らしい別世界を持ちたいものですね。




