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八十四夜 尾州錯乱

〔天文十九年 (一五五十年)8月はじめ〕

織田弾正忠家が割とヤバい。

 春先の三月に大原が率いる今川勢八千人が侵攻し、海岸部に近い重原城と奥に久保城を襲ったが、巧く行かずに兵を一度下げた。

 三河衆の一部を田植えに為に下げ、駿河・遠江衆が乱取りで三河織田方の領地を荒らした。

 これが丹羽家を寝返らせる伏線だった。

五月になると三河衆を再度動員して福谷城を襲い、六月に久保城の丹羽氏征が援軍で福谷城に入ると今川方に寝返って城の城門を開城した。

今川勢が流れ込んだ。

 そして、福谷城城主の近藤-右京亮も降伏し、雪斎の説得に応じて今川方へ転じた。

 こうして織田家の防衛線が瓦解した。


 同六月、今川義元の正室が死去し、定恵院(じょうけいいん)と名付けられたと情報が入ってきた。

 武田晴信(後の信玄)との関係を危惧して、兵を一度引くかと思うと、逆に五千人を増援して、今川勢は一万三千人に膨れ、寝返った者も含めると三河衆は五千人となった。

今川方は総勢一万八千人だ。

 瀬戸にある定光寺は「駿州義元が五万騎を出してきた」と騒ぎ、同じ瀬戸の雲興寺は公方様に願って「ご制札」を貰った。

 今川家は足利一門なので雲興寺の寺領を襲い憎くなった訳だ。

 雪斎が信光叔父上が籠もっている重原城を睨み、別働隊が福谷城を拠点にして、東尾張の沓懸(くつがけ)高大根(たかおおね)部田(へた)を襲った。

 しかし、沓掛城などの城を襲わず、主に乱取りで暴れている。

 こちらの指揮を取っているのが、遠江二俣城主の松井(まつい)-左衛門佐(さえもんのすけ)-宗信(むねのぶ)だ。

 久保城を寝返らせたのも奴だ。

 小豆坂の戦いでも義元から感状を貰うほどの将である。

雪斎を抑えておけば何とかなると思っていた信光叔父上の計略を瓦解させた張本人だ。

今川は将の層も厚いようだ。

 俺は望月衆から沓懸、高大根、部田の被害報告を聞いた後に、俺は千代に声を掛けた。


「千代、平針の関所の建設はどこまで進んでいる?」

「天白川から分かれた分流の川の拡張工事が終わった所です」

「土手は出来たが、土手の上の護岸壁はまだ着手していないのだな」

「そうなります」

 

 土手は進軍の足枷になるが、その上に直角に立つ護岸壁がないと壁として役立たない。

 植野川も土手も途中までだ。

 猪高山の麓に貯水ダムの建設を優先しており、ダムに貯水している間に堤防を一気に仕上げる予定だ。加えて、天白川に合流する手前で稲葉山との間に貯水兼砂防ダムを建て、八事の農業用水も確保する。 

 同時に天白川にもダムを作っており、中根や平針の農業用水を確保する。

 ダムと言っても黒部ダムのような見上げる巨大な建造物ではなく、高さ二、三メートルのこじんまりしたダムだ。 

 それでもダムが完成していれば、辺りに水が張られて侵攻ルートが限定できる。

しかし、ダム完成は二年後だ。

 今の勢いでは、永禄三年の『桶狭間の戦い』までのんびりと出来そうない。

 完全に想定外だ。


「義元はここまで慎重に進めている。その傾向を考えれば、重原城に織田家の主力を残したままで尾張に侵攻はあり得ない。俺はそう思うが、千代はどう思う?」

「私も重原城を陥落させる事を考えると思います」

「だが、命惜しさに寝返った三河衆が真剣に城攻めをする訳がない。城を落としたいならば、駿河・遠江衆を動員せねばならない」

「無理と考えます。重原城は天然の要害であります」

「しかも信光叔父上と織田家の主力が駐留し、猿渡川を利用して物資の搬入も可能だ」

「重原城を攻めてくれえば、今川勢は甚大な被害を出す事になるでしょう」


 重原城の東に猿渡川が流れており、小川が城の周りをぐるりと回って、堀の役割を為している。

しかも入り江に近く、海上は水野水軍が抑えている。

 今川方は兵糧攻めもできない。

 さらに水軍を使った遊撃隊が背後を襲うので後方を手薄にもできない。

 総勢一万八千人の兵であっても、重原城を包囲する兵を残し、補給路の確保にも兵を残すと、別働隊は八千人近くまで目減りする。

 今川勢は沓懸、高大根、部田を襲っているが、平針方面には今のところ来ない。

 福谷城から平針まで二里半 (10km)だが、平針から末森まで二里 (8km)しかない。

末森に駐留させている織田本隊に挟撃されるのを恐れている。

逆に沓掛なら末森まで三里 (12km)もあり、織田本隊の動きを見てから再結集させて、逃げる事も、決戦に挑む事も判断する時間的な猶予が生まれる。

双方が誘い出して、挟撃による殲滅戦を望んでおり、睨み合いが続いていた。

  

「だから、沓懸、高大根、部田を襲って、親父に城から出て来いと煽っている」

「お味方も尾張の国境を越えられて大混乱しております」

「混乱していても下手に動けない」

「はい。ここで織田家の本隊が負ければ、大勢が決してしまいます」

「親父は今川勢が調子に乗って、鳴海や平針まで遠征するのを待っているのだ。また、今川勢も親父が沓掛まで討って出てくるのを待っている」

「勘の良い大殿 (織田信秀)は討って出ないでしょう」

「だから、停滞している」

 

 親父はそれで良いが、山口(やまぐち)-教継(のりつぐ)水野(みずの)-信元(のぶもと)は違う。

 ジワジワと圧力が掛かる。

 沓懸、高大根、部田の次は山口-教継のいる鳴海城だ。

今川勢に侵食されて乱取りの餌食にされなくない。

 だが、教継では『尾張の虎』である親父が怖いので動くに動けない。

緒川城の水野信元も同じだ。

 部田の次は水野領の村木、緒川へと続く。

 しかし、信元は厄介な武将と思っていても、教継のように親父を恐れていない。

 弱腰になれば、簡単に寝返る。


「千代。水野信元を見張らせておけ」

「水野信元ですか?」

「丹羽氏勝と同様に、秘密理に今川へ従属する可能性がある」

「水野信元が寝返るのですか?」

「寝返るのはなく、どちらかと言えば両属だろう」

「今川との脅威を薄れさせる為ですね」

「今川は村木より南で乱取りをしないと約束し、代わりに海上の通行権を求める密約を求めると思う」

「海の通行権ですか?」

「渥美半島から伊勢に渡る今川の船を襲わないという協定だ」

「確かに、今川にとって価値があります。それと重原城を落とす為に、刈谷の水野信近の寝返りを要求するだろう」

「刈谷を、信元が納得するでしょうか?」

「俺の勘だが、飲むと思う」

 

 そうだ、『桶狭間の戦い』で不思議な一戦があった。

 桶狭間の後、水野信近が今川の岡部元信に城を攻められて討死している。

 信長と和睦をした後の帰り道だ。

 織田勢を襲えば、和議破棄で信長に後背から攻められる。

 だが、刈谷を襲っても信長は動かなかった。

 刈谷の水野信近は織田方ではなかったのではないかという疑念だ。

 水野信近は今川を裏切った者として討たれた。

 そう仮定すれば、水野信元は信近を今川方としていた。

 これはよくある生き残りの方法だ。

 対立する二つの勢力に挟まれた小勢力は、一族を二つに割って生き残りを計る。

 小勢力が戦国時代を生き延びる策だ。

 水野家や丹羽家は小勢力というほど小さくないが、今川家や織田家という勢力に比べると小勢力だ。

 生き残る為になりふり構えない。

 状況によっては平針まで今川が攻めてくるかも知れない。

 どんなに悩んでも俺にできる事は少ない。

 警戒を怠らず、今川勢が押し寄せてきたら天白川の工事に従事する作業員を兵として戦う。

 そんな事にはならないと思うが覚悟はしておく。

 そんな事を思っていると、紅葉が廊下から入ってきた。


「若様。今日もお市様がお越しになりました」

「もう、そんな時間か」

「里様の部屋に行かれましたが、すぐにこちらに来ると思われます」

「紅葉。今日の教材を出しておいてくれ」

「畏まりました」

 

 一月半ほど前からお市がよく来るようになった。

 お市は少々強引だが、控えめな里を焚き付けて俺の部屋に遊びにくる。

 大切な昼食後のゴロゴロ時間を奪われるのは痛いが、里とお市の頼みは断れない。

 俺の体力を付けるのにちょうど良いと千代女らも止めない。

 二人に付き合っていると、俺の体力が持たない。

持たないので勉強も組み込んだ。

 勉強してから遊びに付き合う。

 これで遊ぶ時間が半分だ。

 すると、お市の守役が母上の所に感謝の手紙を届けてきた。

 城で行儀作法や勉強から逃げていたお市が、里に負けられないと逃げなくなったらしい。

 母上からも二人の教育を頼まれた。

 里とお市が母上の許可を貰って、俺の部屋に遊びにくる。

 可愛い妹の為だ。

 今日も頑張って教えてやるか。


■尾州錯乱

『定光寺年代記』に

「天文十九年 尾州錯乱

八月 駿州義元五万騎ナリ 

智多郡へ出陣、同雪月昄陣 

八月二日 大雨洪水」

という記述が残る。


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