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閑話(八十・八十一夜) 福谷城の戦い (松下之綱(加兵衛)な件)

〔天文十九年 (一五五十年)2月から5月〕

天文十九年 (一五五十年)、加兵衛(松下(まつした)-之綱(ゆきつな))は十四歳となった。父の長則(ながのり)から元服を許され、同族の松下(まつした)-連昌(つらまさ)の娘との婚儀も決まった。

しかし、二月初め、密かに戦の準備をするように長則に言いつかった加兵衛は、兵士、兵糧、武具、薬などを集めるのに奮闘した。

三河での戦が初陣となる。

 居城の頭陀寺城(ずだじじょう)は戦仕度に大わらわであった。


「加兵衛様。先程、針売りの行商人が加兵衛様の命と言って、薬を売りにきました」

「そうか。間に合ったか。言い値で買ってやれ」

「畏まりました」

  

 二月末に側衆の活躍でなんとか準備が整った。

 だが、その直後に今川家より出陣のお達しが届いた。


「あはは、加兵衛、間に合ってよかったな」

「父上、笑い事ではございません。密かにと言われて、一月で準備するのに、どんな苦労をしたと思っておるのです」

「今川が無体な事を言うのは、今に始まった事ではない。慣れろ」

 

 今川家では、寄親・寄子を定めているので戦の準備は難しくない。

 しかし、寄親の今川家の話だ。

松下家の上司にあたる遠江二俣城主の松井(まつい)-宗信(むねのぶ)は「戦の準備を密かにしておけ」と言うだけで、実際に準備をさせられた加兵衛の苦労は考慮されない。

 毎年のように戦に駆り出されており、蓄えを失った家臣も多い。

 しかも今川義元は関所を廃止したので関税が入らない。

 加兵衛は商人から銭を借りて、戦仕度を始めなければならなかった。

 しかも一月で戦が終わるとは限らない。

 農兵を多く出すと、作付けが減って秋の収穫に影響する。

 借金が返せなくなるので、加兵衛は川賊を集めて兵に組み込んだ。

 集めるというと聞こえがいいが、武力で強引にかき集める。

つまり、川賊狩りに奮闘する事になったのだ。

 川賊に給金を払う事はないが、かき集めた奴らに食わせる米が必要であり、戦用の蓄えと、集めた奴らが消費する米の量の計算で、頭もフル回転させねばならない。

 誰か、帳簿ができる者が欲しかった。

 欲しかったがないものねだりして仕方ないと、加兵衛と側衆で切り盛りした。

 三月になると頭陀寺城を出陣した。

 

 三河の上野城に入ると、伊保川を遡って伊保城を攻めるように言いつかった。

 伊保城 (西伊保城)は西に伊保川が流れる西ノ山の山頂にある山城であった。

 北には山が聳え、攻め手は東と南に限られた。

 先陣は三河衆とされ、加兵衛ら松下衆は中堅とされた。

 伊保城は堅牢な城ではない。

 先行した一千五百人と合流したので総勢三千人で総攻めをすれば、落とせない城ではない。

 しかし、相応の被害が予想される。

 松井-宗信は小さな砦をコツコツと潰す事を重視し、兵の損耗を抑えた。


「父上、中々に落ちませんが、よろしいのでしょうか?」

「宗信様にお考えがあるのだろう」

「戦っているのは三河勢のみ、川賊の奴らが苛立ってきました。米十合は農兵なら腹一杯食べられて喜びますが、贅沢を知る川賊らはそれでは物足りません」

「仕方あるまい。持ってきた兵糧も尽きた。ここからは今川家の支給で賄うしかない」

 

 兵士は腰兵糧(こしひょうろう)という三日分の食料を持って出陣し、その日数を超えると、改めて米が支給される。

 大抵、米十合だ。

 腹一杯に飯が食えると、農兵は戦に行く事を喜ぶ者も多い。

 武将は領地から米を集め、戦の時に運び出す。

 各領主から出された米は、一度集められ、今川の差配で再分配されて支給される。

 今川は兵の数以上の米を支給する事はない。

 近場の鳥などを狩って、飯の足しにしているが、人数分を確保するならば、本格的な狩りをせねば手に入らない。

 だが、兵を勝手に動かす事は加兵衛らにはできなかった。

 

 伊保城を囲んで十日後に、福谷城方面から一千人の援軍が送られてきた。

 城の守りが五百人なので、織田方は総勢一千五百人となる。

 松井-宗信の判断は一度引いて、平場で決戦に及ぶという。

 伊保城から四分一里 (一km)ほど下がった貴船神社を本陣に置き、小川の後ろで兵を並べた。

 しかし、伊保城から討って出て来なかった。

 松井-宗信の思惑が外れたかと思うと、そうでもなかった。


「加兵衛。明日から乱取りが許された」

「此度の宗信様は消極的な策を取られると思っていたが、そうではなかった」

「父上、どういう事ですか」

「西三河でも西側は尾張に近く、織田方に与する土豪も多い。無理に伊保城を落としても土豪が叛旗を翻せば、統治も侭ならない」

「そうでございますな?」

「宗信様は周辺の村々に兵糧の供出を命じられた。それに従った村を襲わず、従わなかった村を襲い、伊保城の丹羽家、ひいては織田家が頼り無いと知らせる事が、此度の戦の本質だそうだ」

 

 村々を襲えば、伊保城に籠もる織田方の丹羽勢も黙っていられない。

 城から出て一戦せねば、面目を失う。

 しかし、今川三千人に対して、一千五百人の伊保城の織田勢で戦うのは不利だ。

 更なる援軍を要請しているだろう。

 その間に乱取りを許し、今川方の士気を上げておく。

 そして、まったく戦に関わっていなかった遠江衆から乱取りが許された。

 加兵衛が率いた川賊の奴らが意気揚々と乱暴狼藉を楽しんだ。

 五日後、尾張岩崎城から三千人の増援がやってきたが、今度は今川方が戦わずに兵を下げた。

 伊保城の織田方が追撃するかと思えば、追撃しなかった。


「父上、どうして織田方は追撃して来ないのですか?」

「織田方から見れば判る。伊保城の今川方は下がったが、福谷城、重原城の織田方は包囲された儘だ。追撃しても、他からの援軍が期待出来ない」

「なるほど。対して、我らは援軍が期待できる訳ですね」

「その通りだ。上野城まで下がれば、駐留兵と合流して数は我らの方が多くなる。しかし、北の西広瀬城から攻められ、挟撃される危険もある」

 

 我らが上野城に戻ると、駐留していた部隊が伊保城の北部を荒らしに出陣した。

 今川方に与しないと徹底敵に潰してゆくのが戦略らしい。

 そこから一月ほど膠着し、北を荒らしていた別道隊が戻ってくると、我らは福谷城の援軍に向かわされた。

 五月中旬に入っても膠着状態は解消されない。

 頭陀寺城から農兵を極力減らして出陣させたので田植えができない事はないが、西三河の西側では、田植えをする余裕もない。

 少なくとも今川方に与しない村は徹底的に潰された。

 秋の実りは最悪だろう。

 今川方の兵も五月に入る前に、田植えの為に兵を三割ほど減らした。

 主に三河衆だ。

 駿河と遠江の武将は長滞在を念頭に兵を集めているが、三河衆はそうではなかった。

 伊保城に入っていて東尾張の援軍も一度引いたと聞く。


「加兵衛、皆に気合いを入れ直せ」

「父上、どうなさいましたか?」

「互いに援軍の兵を減らし、膠着も長くなってきた。敵も油断しているだろう。ここらで本格的な城攻めを再開すると言われた」

「皆を鼓舞して、気合いを入れ直します」

 

 我ら松下勢は福谷城の周りにある砦の一つを任されて陥落させるのに成功した。

 宗信様の読み通り、敵は完全に油断していた。

 砦の一角が崩れると、砦を捨てて福谷城に撤退したのだ。

 

福谷城は境川が合流する狭間の山に建てられた山城であり、東、南、西の三方の境川が堀のように流れており、攻め難い地形となっていた。

 つまり、北側の砦を一つ一つ潰してゆくのが、城の攻略となる。

 もちろん、境川の東側にも多くの砦があったが、すでに対岸の砦はすべて潰され、境川に囲まれた福谷城がある部分だけが残っていた。

 今川の主力は南側に置き、境川の西側の沓掛方面と知立の重原方面を警戒している。

 援軍が駆け付けた時に迎え討つ準備が万端であった。

 そして、北側から攻略するのは、三河衆と遠江衆が主力であった。

 加兵衛は奪った砦から織田方の旗を見て叫んだ。


「敵だ。伊保城方面の谷間から織田方の旗だ」

 

 南から援軍を警戒し、北からの援軍に警戒を怠っていた。

 東北側、境川の分流の一つ。

 その谷間を抜けて、伊保の丹羽勢五百人が援軍に駆け付けてきたのだ。

 松下勢が落とした砦より南の砦に襲い掛かり、そのまま福谷城へ飛び込んでゆく。

 伊保城に新たな後詰めでも入ったのだろうか?

 加兵衛の脳裡にそんな予想が過った。

 西広瀬城の兵が伊保に圧力を掛けていたので、北からの援軍は無警戒だったのだ。

 そこに松井-宗信から全軍突撃の命が駆け込んできた。

 ???

 加兵衛には理解できなかった。

 今、目の前で奪った砦を奪い返されて、今川方の一角が崩れたのだ。

 勢いを吹き返した織田方と当たるのは危険だ。

 そう思った瞬間、福谷城の門に今川の旗が上がった。

 伊保の丹羽(にわ)-氏征(うじまさ)の寝返りである。

 織田方は混乱している。

 三河勢、遠江勢が雪崩込み、主郭を残してすべてを奪った。

 そして、城主の近藤(こんどう)-右京亮(うきょうのすけ)が降伏して福谷城の戦いは終わった。

 今川方は、伊保城と福谷城の二城を奪う事に成功したのだ。

 加兵衛は味方も騙す、今川の戦い方に圧倒された。

 


■天文19年、今川の侵攻

天文19年の攻勢の対象地 - 尾張・三河の国境地帯

雲興寺(瀬戸市)・永澤寺(豊田市)は今川義元の禁制が出された寺、福谷うきがい城(みよし市)は今川方が入り織田方と交戦した城です(村岡論文)。


天文18年、今川は安祥城を陥落させると、北の上野城を降伏させ、さらに北上して西広瀬城を攻略しました。

矢作川の西の城を奪い取った訳です。

〔西広瀬ー上野ー安祥〕ライン


翌天文19年、雲興寺に将軍足利義輝の『ご制札』が出されています。

誰が将軍に書かせたのでしょうか?

今川義元の侵攻に対して寺が備えたとしか考えられません。

同年(天文19年)10月19日の永澤寺の日覚書状に、「駿河・遠江・三河の軍勢が6万ばかりで弾正忠を攻めて来たが、尾張側はこれを国境で支えるために悉く出陣」と記載されております。

雲興寺は伊保城の北12kmの寺であり、瀬戸市となります。

永澤寺は伊保城の北東2kmの寺です。

因みに、伊保城から岩崎城は東に10kmほどの位置になります。

天文19年に東郷町、豊明市、大府市一帯の所領が今川方に転じた事が判ります。


天文19年12月1日付、波隼人佐あて今川義元判物によれば、義元は丹波隼人佐に対し、去る6月福谷在城以来別して馳走ありとして、尾張国愛智郡の沓掛・高大根(豊明市)・部田(へた・倍田)村(東郷町)を還付し、さらに同郡大脇(豊明市)・智多郡横根(大府市)を安堵するとあります。

これは12月までに刈谷の水野家が今川方へ寝返ったと読めます。

緒川城の水野信元は織田方なので、刈谷城は水野信近が今川方に付いたと考えるべきでしょう。


伊保城の丹羽家が降伏し、6月に福谷城も陥落しました。

福谷城の南西に当たる部田、沓掛、大脇、横根で今川勢が侵入し、乱暴。狼藉・放火などを行っています。

まだこの時期は重原城が陥落していません。

つまり、重原城へ兵を送り、今川方の猛攻を耐えているが、今川の別働隊が各所(部田、沓掛、大脇、横根)に暴れて、手が付けられない状況となっており、織田信秀は幕府に訴えて和睦を要求したと考えられます。

今川方は雲興寺から刈谷まで好き勝手に暴れていたのが窺えるのです。

〔雲興寺ー永澤寺ー福谷ー部田-沓掛-大脇-横根ー刈谷〕ライン


伊保城と福谷城が陥落した事で、次は東尾張の岩崎城が最前線となります。

また、部田、沓掛、大脇、横根で今川方が好き勝手に暴れていれば、西の鳴海、笠寺の山口家も平静ではなかったのでしょう。

丹羽氏勝と山口教継が今川方に寝返ったのは、今川義元の圧力が要因します。


織田信秀が病に掛かっていたという説は、この辺りに起因します。

天文20年3月に亡くっていたのではないか?

そんな風に言われますが、そんな好機を今川義元が見逃す訳もありません。

病に倒れたのが天文20年の夏以降、亡くなったのは天文21年3月で間違いないでしょう。

そうでないと、天文21年に生まれた子供はどこで種付けしたのかが謎となります。

天文20年と天文21年に多くの子供が生まれているのを考えると、正室や側室とやる事をやっております。

おそらく、尾張の支持層が薄くなり、今川方に対抗する兵力が集まらない状態となり、城に引き籠もっていたのではないでしょうか?


あるいは、小説内で書いているように、三河支配を見限り、尾張支配の強化の為に死んだ振りで、獅子身中の虫を炙り出そうと考えたのではないでしょうか?

実際、天文23年に伊勢の志摩まで水軍を送っている今川義元ですが、弘治元年(1555年)から同4年(1558年/永禄元年)にかけて、三河忩劇と呼ばれる三河国で発生した国衆による大規模な反乱で停滞しています。

信長が裏からこっそりと資金を提供し、反今川方を煽っていたように思えます。


私はこの仕掛けこそ、織田信秀が考えていた策なのではないかと考えております。

天文19年、織田信秀は三河支配を諦め、尾張の本土防衛に方針を大きく変え、兵の損耗を最小にして、幕府などを利用して戦を極力さけたのではないかと推測しております。


■福谷城

天文 19 年(1550)6月 福谷城、近藤右京亮(こんどう-うきょうのすけ)に返すとあり、福谷城が陥落したのでしょう。また、丹羽の地も丹羽隼人佐はやとのすけに認めると残っており、岩崎の丹羽家も今川家に屈したと取れます。


■雲興寺

至徳元年(1384年)曾洞宗の開祖道元禅師七代目天鷹和尚によって開山され、御本尊は釈迦牟尼如来、脇に性空威徳山神が祭られています。

天文19年(1550年)足利義輝の「ご制札」から始まって織田信長、同信雄、豊臣秀吉、そして徳川家代々に至る当時の官によって手厚く守られた由緒正しいお寺です。 宝暦10年、座禅をしていた二代天先和尚の前に、当時村里で人々を苦しめていた恐ろしい夜叉が現れましたが和尚の説法で悔い改め、盗難除けとして知られるこの寺の守り神「性空山神」になったということです。 毎年4月24日から25日には御性空祭りが行われ大変な賑わいをみせています。



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