六十三夜 天文十八年 安祥城の合戦 その2
〔天文十八年 (一五四九年)三月中旬〕
安祥城が攻められた翌日、俺は三河と関係なく熱田神宮に行った。
三河の境界を越えて今川方が尾張領に侵入することがないと、熱田神宮の行事に変更はない。
一日には市が立ち、お参り客も多くなる。
当然、お祓いを希望するのが一番多い日だ。
次に多いのが、泰安(大安)だ。
特に多いのが嫡子の三歳髪置き、五歳袴着、七歳帯解という『七五三』を終えた子供の成長を祝ってお祓いを依頼してくる。
本人が来る場合もあるが、名代がやってきて祈祷を見届けることが多い。
因みに、俺は去年の正月に千秋季忠が髪置きをやってくれた。
髪置きとは、数え三歳まで髪を短くすると、その後美しい髪に恵まれるという言い伝えからはじまったとされ、儀式が終わると髪を剃らないようになる。
それまで見事な坊主頭だったが、一年掛けてやっと肩に掛かるまで伸びてきた。
今はおかっぱ頭のようなヘアースタイルだ。
元服すると、また頭のてっぺんを剃るようになるんだよな。
この日も祈祷の依頼を受けて、千秋季忠が祝詞を詠み始めた。
かしこみ、かしこみ・・・・・・・・・。
俺が“ちゃらん、ちゃらん”と鈴音を鳴らす。
霊験あらたかな熱田神宮のお祈りだ。
祝詞が終わると、神楽鈴を前に翳し、依頼者の札に、あるいは、参拝者の頭に向かって鈴を鳴らして邪を払う。
俺が元の位置に戻ると、季忠が振り返って、お祓いが終わったことを告げた。
時給一貫文 (12万円)以上の高額バイトだ。
バーのホストのように、参拝者が俺を指名すると献金の一部が手取りとなる。
加藤家や牧家のような金持ちのご指名なら時給十貫文 (120万円)を超えることもある。
貴重なお小遣いだ。
俺は大金を扱える権利を持っているが、それは小遣いではない。
米、南蛮品、唐物などの売り買いする資金は、大喜五郎丸の熱田屋が預かっている。
熱田屋とは、土佐一条家の当主房基から琉球交易『御免状』を買った商家だ。
この御免状があるので、一条家の被官である島津家が協力してくれて琉球交易が可能となった。
一条家は領地拡大で忙しく、銭を落としてくれる織田家の御用商人を重宝してくれた。
琉球交易の見返りが大きいと言っても、船を出すにも銭がいる。
だが、織田家がその銭を出し、船が戻ってくると上納金が手に入る。
織田家は『ハイリスク、ハイリターン』、一条家は『ローリスク、ローリターン』で定期的に銭が入るのでウインウインな関係が築けた。
年に一度の琉球交易が、熱田商人の融資で年に四回と増えた。
船は琉球で購入したジャンク船だ。
積載量は450トン。(一石=150kg、450トン=三千石)
最近のジャンク船は500トンから1000トンが主流になってきたので中古品だ。
次は、津島商人、堺商人の融資を加えて、六隻のジャンク船購入を計画している。
船長、船員は現地で雇って、水夫を熱田から派遣して教育してもらう。
もちろん、自前の帆船が完成すれば、船はそちらに切り替える。
もう一度言うが、熱田屋の銭は自由にできるが、俺の小遣いではない。
そもそも中根家の奉行方で資産管理させておらず、熱田屋は取引している商人の一つでしかない。
誰もが知っているが、『公然の秘密』として知らないことになっている。
だから、熱田屋の銭を俺の小遣いとして使えない。
堂々と使える小遣いが祈祷に付き合うだけでもらえる。
最大の収入元だ。
だから、季忠の要求を無下にできない。
今日は五回ほど鈴を振って荒稼ぎした。
夕刻から誓願寺の善光上人(日秀妙光)尼との会見があった。
誓願寺は、平安末に源-義朝の正室となった藤原-季範の娘である由良御前が身ごもって熱田の実家に帰り、この別邸で室町初代公方様の頼朝を生んだと伝わる藤原別邸の跡地に、善光上人(日秀妙光)尼が願って親父の支援で創建された浄土宗の寺である。
善光上人は佐久間家の配下であった吉野城主吉野-右馬允の妻である。
武衛屋敷の再建を命じられた俺は、資材置き場に知恩院の北の空き地に目を付けた。
三条大橋を渡れば、武衛屋敷にかなり近い。
美濃や近江で木材を調達し、淡海(琵琶湖)を使って運べば、労力の節約ができると考えた。
仮置き場として最適だ。
知恩院も浄土宗であり、同じ浄土宗の誓願寺に頼むと、善光上人尼が引き受けてくれた。
「京より戻りました」
「それで返事は如何に?」
「知恩院二五世住持の存牛様が快く引き受けて頂けました」
「助かった」
「いいえ、こちらこそありがとうございます。知恩院も度重なる戦果の被害を受けており、壁などの補修も間に合っていられないご様子でした。しかも別館を築造するというお申し出を喜んでおられました」
「別館は父上が上洛した折に使う宿舎となります。壁を補修するのは万が一に備えてのことです。善意だけではございません」
「承知しております。しかし、ありがたいお申し出に喜んでおられました」
これで武衛屋敷の再建準備のそのまた準備が整った。
俺は横の季忠に聞いた。
「宮大工の派遣の用意はできておりますか?」
「滞りなく終わっております。しかし、実際に大工を多く出すのは再来年となりましょう」
「そうだな。様々な資材や小物を取り寄せてくれる京商人との顔見せ、職人の手配、資材置き場の整地、寝泊まりができる宿舎の建設などとやることが山積みだ。全部、任せるので頼めるか」
「承知致しました。やり手の親方を数人ほど京に派遣致します」
「頼む」
それと知恩院別館の縄張りは俺の趣味で進める。
武衛屋敷を建てた責任者として親父に連れられて、おそらく俺も京に行くことになる。
居心地の悪い屋敷は嫌だ。
風呂を完備するには水回りも調べる必要がり、別途に測量班を京に送って手配をしよう。
プレハブ造りで建設し、宮大工の装飾を張った屋敷だ。
プレハブと宮大工の融合建築テストとして、予算を捻出するか。
そんな感じで一日が終わった。
寝る前に三河を探っていた望月衆が戻ってきて、現地の状況を説明してくれた。
まず、三河では親父の救援が到着して盛り返したという。
敵方の主力は三河岡崎衆であり、矢作川を渡河して北側から攻めた。
一方、今川軍一万は安祥城の東の島坂辺りで陣を張り、主力を残して一部が安祥城の南東側から攻めたようだ。
しかし、それは安祥城の兵を南東側に引き付けるのが目的のように見えたという。
総攻めはなかった。
親父の援軍がくるまでに攻めないと、信広兄上を捕らえるのは難しいのではないか?
親父は鎌倉街道から尾張と三河の国境の境川を渡河して、重原城のある知立方面から侵入し、安祥城の南に配置されていた三河衆は兵を半分に割いて、援軍の足止めを行った。
「今川方はどうした?」
「今川方も兵を半分に割き、東の大手門方面に配置して安祥城を完全包囲しました」
「小豆坂の戦いと違って動きが温いな」
「某も今川方の動きが緩慢のように思えました」
小豆坂の戦いでは、坂を先に取り、陣を配置すると、伏兵を出して横槍を入れる準備をしていた。
そのあと坂まで押される振りをして、横槍と同時に反撃に転じた。
まるで親父と信広兄上の連携を見定めている・・・・・・・・・そうか。
「若様。何かお気づきになったのでしょうか?」
「雪斎の狙いは、岡崎衆を削ることだ」
「岡崎衆を?」
「今川軍がいるので兵力は互角だ。しかし、信広兄上を人質にしたい岡崎衆は必死に戦う。援軍を安祥城に入れない為に抵抗もする。今川方は付き合っているだけだ」
「確かに、無理攻めはしないでしょう」
「今川方の本陣は動かしていないので、親父も余力を残す。安祥城の兵は援軍が到着したことで士気が上がり、抵抗が激しくなれば、摩耗するのは岡崎衆のみだ」
「信広様を捕らえる気はないと?」
「捕らえられれば幸い。失敗しても疲弊した岡崎衆を守る為に、岡崎城に後詰めの兵を残す。これで岡崎衆が織田方に寝返れない」
「それは時間稼ぎでしかありません」
「そうだ。だから、今回は様子見だ。親父と信広兄上の連携を確認し、安祥城の防備を見定めた。次が本命だ。もちろん、岡崎衆の頑張りで信広兄上を捕らえれば、上の上と考えているのだろう」
「なるほど」
翌日は酒造所の視察に赴き、そこでもう一泊してから中根南城に戻ると、その日の昼に今川方が撤退したという報告が届いた。
本多-忠高と大久保-忠俊の活躍で安祥城が陥落寸前まで追い詰められた。
親父は岡崎衆が疲れるのを待っており、安祥城へ侵入を試みる部隊を何度も出した。
その度に岡崎衆が撃退に兵を出した。
昼夜を問わずに戦い続けた岡崎衆の疲弊は限界を超え、撃退した織田兵を深追いした忠高が矢を受けて討ち取られた。
夜半過ぎの事だった。
その報を聞いた親父は全軍に掃討戦を命じた。
限界を超えていた岡崎衆は瓦解した。
「今川本隊はどうなった」
「余力を残していた本隊は、一度だけ織田方に反撃を加えると反転して矢作川を渡河しました」
「追撃を岡崎衆に押し付けたのだな」
「その通りです」
今川方は矢作川の渡河地点である渡城方面に北上して撤退した。
南の渡河地点ではなく、敢えて北の渡河地点を選んだ。
そうなると岡崎衆は、さらに北の本郷東の渡河地点を通って岡崎城に戻る必要があるが、その途中に織田方の高木城がある。
親父が高木城の城主に岡崎衆を「見逃せ」など言う訳もなく、討って出てきた高木の兵を躱しながらの撤退戦となる。
岡崎衆という壁を生み出し、今川方は易々と撤退を完了したそうだ。
そして、今川方は織田方に対抗する為に、岡崎城に後詰めの仮城代が置かれ、今川方の兵が岡崎に残った。
被害が甚大な岡崎衆が今川方を追い出す余力はない。
岡崎城を今川義元に奪われたのだ。
雪斎という坊さんはやることがエグいな。
まぁ、俺には関係ない。
久しぶりに城でゴロゴロする時間を得て、俺は至福のときを得ていた。




