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五十二夜 河和の戸田氏〔渥美の戸田滅亡の件〕

 〔天文十七年 (一五四八年)十月〕

 どうして渥美半島田原城の戸田(とだ)-康光(やすみつ)が竹千代を一千貫文とか、百貫文で織田家に売ったなどという伝承が生まれたのだろうか?

 天文15年 (1546年)に牛窪城主の牧野(まきの)-保成(やすしげ)の要請を受けて今川軍が戸田(とだ)-宣成(のぶなり)のいる今橋城を攻めている。

停戦こそなったが、康光は今橋城を奪い返したい。

そんな戸田氏と今川氏は犬猿の仲であり、そんな関係な康光に今川家の人質に送る竹千代を預けるだろうか?

否、あり得ない。

後世に書かれた『三河物語』は、織田家に臣従して竹千代を人質に出したけど、父の松平(まつだいら)-広忠(ひろただ)が竹千代を見捨てて今川に寝返ったという事実を隠したいのだろうか?

どうして、そんなことを考えているのかと言えば、渥美半島の田原城が朝比奈(あさひな)-元智(もととも)の今川軍に攻められて田原城が陥落し、康光が討死したという知らせが届いたからだ。

去年も田原城を捨てて逃げ出し、今川軍が引いたところに城代であった天野(あまの)-藤秀(ふじひで)を強襲して、今川の兵を追い出した。

余りの鮮やかさに田原城は陥落しなかったという情報が錯綜したが、正しくは一度陥落して取り戻したが正しい。

前回以上の大軍だったので早々に城から退却しようとしたところを襲われたらしい。

 知多の河和城城代である戸田(とだ)-繁光(しげみつ)が織田家を通じて、水野(みずの)-信元(のぶもと)への同盟を打診してきた。

 河和城に隣接する須佐の千賀の忍びが知らせてくれた。


「同盟か」

「はい、当主の康光が討死し、二連木城(にれんぎじょう)で嫡子宜光(よしみつ)が今川に降っており、反今川の旗頭に繁光は康光の幼子を跡継ぎと主張しております。しかし、嫡子の宜光がいるので求心力の低下は否めず、臣従に近い同盟になると思われます」

「戸田氏が二つに割れたのか」

「はい、二連木城と河和城に分かれました。渥美半島の武士は宜光に従うと思います」

 

織田家は岡崎松平家が寝返った後も、敵の敵は味方として食料などの支援を行っていた。

しかし、戸田家と織田家は同盟を結んでおらず、援軍を送るようなことはなかった。

同じ三河湾を支配する水野家は嫌な顔をしているだろう。


「水野はどうする気か?」

「しばらくは静観するようです。三河湾のみ支配できればよいと考えているようです」

「対立していた戸田家が弱体化してよしとしたか」

「そのようです」

「水野だから仕方ない」

 

尾張から東海への物資の運搬を考えれば、水野家は今川家と対立ばかりしていられない。

 一方、渥美半島を経由して伊勢へ物資を運ぶ今川家からしても、水野家が海上封鎖をすれば、死活問題となる。

 そのあたりは匙加減を互いに考えていそうだ。


「魯坊丸様、よろしいでしょうか」

「なんだ?」

「水野信元を余り信用なさいませんように」

「何かあったか?」

「不確かな情報ですが、駿河の今川義元、美濃の斎藤利政とも連絡を取り合っていると聞き及びます」

「そうだろうな」

「ご存じでしたか。差し出がましいことを申しました」

「いや、特に報告はない。しかし、信元は一癖も二癖もある男と聞いている。それくらいのことをするだろう」

「流石でございます」

 

 褒められるような発言をしたか?

 まぁ、いいか。

 それより渥美半島を終えた次のターゲットだ。


「定季、次に狙われるのはどこか?」

「西条の吉良(きら)-義安(よしやす)ですな。義安は三河を統治したいと考えております。分家の今川義元に乗っ取られるのを良しとしておりません。対して、東条の吉良(きら)-義昭(よしあき)は東条の主を主張しておりますが、義安は自らが東条の主であり、義昭は城代に過ぎないと認めておりません」

「義昭の支援で今川義元が動くのか」

「大殿は、幕府に対して義安を三河守護に推薦すると言っております。三河守護になりたい義元にはできない提案です」

「義安が三河守護になってからでは面倒だろうな」

「ですから、今の内に排除したいのかと」

 

 怖い、怖い、戦国の世は怖いところだ。

 親父がそういう話をしているだけで、義安の三河守護が実現するかはわからない。

 だが、そんな噂があるだけ倒してしまう。

 取りあえず、義昭からの支援要請があるので兵が動かせる訳か。


「今川の兵が東条まで近付くが矢作川を渡れば、安祥城は目と鼻の先だ。襲ってくるぞ」

「大殿もお気づきと思いますが、信光様を通じて忠言しておきましょう」

 

 定季の口ぶりでは、親父らも警戒しているようだ。

史実では、安祥城が落とされて竹千代との人質交換がなされる。

 今年か、来年か、そう遠くない内だ。

 援軍が間に合わないほどの強襲だったのだろう。

 そうなると、東条攻めで兵を集め、急に安祥城を襲ったという可能性が一番高い。

 そう言っても、これ以上は対処できることもない。


「千代。伊賀者の準備はどうか?」

「忍びの里の増築は完了しました。総勢三百人が暮らせる村となっております。いつ到着しても大丈夫です。甲賀の方も私の部下を送ると言ってきました」

「甲賀の追加もくるのか?」

「はい、合計で23名と大所帯となります。最初は6名の増員の予定でしたが、周辺の者も織田家と縁も持ちたいと要望し、斯くなる事態となりました。ですが、すべて望月家と縁故の者なので裏切る心配はありません」

「そんな心配はしていない。母上がその話を聞いて張り切っている」

「お手柔らかにお願いします」

 

 千代女の額に汗が流れた気がした。

 母上が熱田神宮の舞姫になりたかったという話を覚えているだろうか?

 熱田神宮には、菊田家、鏡味家、若山家の3つの神楽を担当する社家が存在しており、神宮での儀式に奉仕していた。

 中でも、天の岩戸に入った天照大神(あまてらすおおみかみ)を呼び出す為に舞ったのが天鈿女命(あまのうずめのみこと)である。

その子孫の巫女である熱田を守護する者を金田女(かねため)と呼ばれる。

 その金田女を輩出する金田家に養女として入ることになっていたが、母上は親父の目に止まってお手つきとなり、その夢はなくなった。

 本人はミーハーで尾張の英雄である織田-信秀の妾になったことを喜んでいるので問題ない。

 今回、侍女が一気に増えるので千秋季忠に相談すると、教育係に金田家の前妻の富子を派遣してもらえた。

 歴史が古い金田家は礼儀・作法に熟知しており、これ以上の教育係はいない。

 すでに、千代女らも厳しい再教育を受けている途中だ。

 津島神社の一件もあるから、今度は簡単な舞でも教えてもらっておこうか?


■渥美の戸田氏とその後


ウィキペディア(Wikipedia)などでは、田原城の戸田(とだ)-康光(やすみつ)は 天文16年 (15471年)に亡くなったと書かれています。

また、初名は宗光で、松平清康の偏諱を受けて康光と改めるとあります。

清康から偏諱を受けたとすると、割と高齢者と考えられます。

子は戸田尭光、戸田宣光、戸田重真です。

居城は、渥美半島の田原城です。

この田原城の城主一覧を見ると、

田原城 城主

1526年 - 1542年戸田宗光(康光)

1542年 - 1547年戸田堯光

1547年天野景貫

1548年朝比奈元智

1561年岡部輝忠

となっており、天文16年に一度陥落し、天文19年まで知多半島の河和城を拠点として抵抗を続けていたと考えられます。


戸田とだ 康光やすみつ? - 天文16年(1547年))は、戦国時代の三河国の武将。渥美半島・三河湾一帯に勢力を振るった。初名は宗光で、松平清康の偏諱を受けて康光と改める。弾正少弼を称する。子に尭光(たかみつ)宜光(よしみつ)重真(しげざね)がいました。


天文16年の田原城の戦いで、康光と尭光が共に討死した可能性も高く、第14代当主に宜光がなります。

宜光は弘治2年(1566年)に隠居して、二連木城(にれんぎじょう)を嫡男の重貞に譲ります。

ここから推測できることは、宜光は天文16年前後に今川に臣従したという可能性です。


さて、今川家に抵抗し続けた戸田氏は河和城の城主となった憲光です。

討死された方が城主となっています?

不思議です。

憲光の次が繁光(しげみつ)守光(もりみつ)と続いています。

どうやら堯光と一緒に討死したと思っていましたが、憲光は生き延びていたようです。


この河和城は初代戸田宗光が築城し、拠点を田原城に移したのちお、家督を二代目の憲光に譲ると、河和城で隠居したことから河和殿と呼ばれました。

その後、急成長する水野氏との戦いが続きますが、守光の代で信元の娘を嫁に迎え河和水野氏として再出発します。

孫八郎守光の代になると天正時代(1573~1592)でしょうか?


作中では、繁光は憲光の子とせず、宗光の息子、憲光の弟としております。

天文16年に一度田原城を落城したのですが、河和城に逃げ込み、再度出陣して取り戻し、天文17年に再び攻められて討死したことにしております。

と言う訳は、逃げてきた14代当主憲光に河和城の城主であった繁光が城主を返上し、憲光に戻ったことにしました。

そして、出陣して田原城を取り戻し、再び今川に襲われて討死する。

(※ 天文16年の田原城主は天野景貫から天文17年に朝比奈元智に変わっていることから、一度奪い返されたとしております)

その後、憲光の幼子である守光を新当主と移っていったとしております。

(憲光の嫡子である宜光が二連木城で今川に降伏した為に、守光を次期当主するしかなかったとしました)

繁光は守光の後見人となり、水野家と戦っている場合ではなくたったので、天文16年の和睦に続き、天文17年に信元の娘と婚約して同盟(臣従)を結んだとしました。

婚姻は、守光が元服した後ということにすることで、天正18年(1590年)、守光は秀吉の小田原攻めに従軍して討死するという年齢の齟齬を解消しています。

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