第一話 退屈な日常とヒッチハイカー
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
人生において、最も重要なものは何か。
愛、友情、夢、希望。
人によって答えは違うだろうが、俺の場合は少し違う。
金だ。
いや、別に金持ちになりたいわけではない。高級車に乗りたいわけでも、豪邸に住みたいわけでもない。
ただ、銀行口座の数字が増えていくのを見るのが好きなのだ。
毎月決まった日に給料が振り込まれ、生活費を差し引いた残額が貯金に加算される。
先月より増えた数字を見ると、それだけで少し嬉しくなる。
我ながら安上がりな趣味だと思う。
何しろ、貯金そのものが趣味なのだから、楽しむために金を使う必要がない。
完璧だ。
そんなことを考えながら、俺は今日も定時で仕事を終えた。
「お疲れ様でした」
「おう、お疲れ。今日も早いな」
「仕事は終わりましたから」
「たまには飲みにでも行かないか?」
「遠慮しておきます。お疲れ様でした」
上司の誘いを丁重に断り、会社を後にする。
別に上司が嫌いなわけではない。むしろ人間関係は良好な方だと思う。
ただ、仕事が終わったのなら帰ればいい。
飲みに行けば金もかかるし、それなら家でのんびり過ごした方がいい。
恋人もいなければ、休日に誰かと出かける予定もない。
特に欲しいものもないので、給料は自然と貯まっていく。
そんな生活を何年も続けていた。
つまらない人生だと言われれば、そうなのかもしれない。
だが、本人が満足しているのだから問題ないだろう。
◇
七月上旬。
梅雨明け前だというのに、今日は随分と暑かった。
会社の駐車場に停めていた車に乗り込み、エンジンをかける。
車内にこもった熱気を逃がすため、窓を開けた。
「暑いな……」
エアコンが効き始めるまでの数分間が、夏場の運転では一番つらい。
俺が暮らしているのは、愛知県北部の郊外だ。
名古屋まで電車で出られる距離ではあるが、自宅の周辺には田畑も多い。
会社までは車で四十分ほど。
駅までの移動や乗り換えを考えると、自家用車で通勤した方が便利だった。
帰りにスーパーへ寄れるのもありがたい。
いつもの道を走り、住宅地を抜ける。
道路の両側には田畑が広がり、その先には工場や倉庫が点在している。
都市部と田舎の中間。
そんな見慣れた景色の中で、普段は見かけないものが目に入った。
「……ん?」
道路脇に、一人の女性が立っていた。
大きなリュックサックを背負い、段ボールを掲げている。
そこには、大きな文字でこう書かれていた。
『駅までお願いします!』
「……ヒッチハイク?」
テレビでは見たことがあるが、実物を見るのは初めてだった。
しかも、こんな場所で。
近くに駅はなく、路線バスの本数も多くない。
女性は通り過ぎる車に向かって元気よく頭を下げているが、どの車も止まる様子はなかった。
まあ、当然だろう。
見知らぬ人間を車に乗せるなど、普通は考えない。
俺もそのまま通り過ぎようとした。
だが、ふと女性を見る。
額の汗を拭いながら、それでも笑顔で段ボールを掲げている。
次の駅なら、俺の帰宅経路からそれほど外れない。
「……まあ、駅までなら」
少し先にある駐車可能な場所へ車を寄せ、ハザードランプを点灯させた。
すると、女性がこちらに気づいた。
ぱっと表情を明るくし、駆け寄ってくる。
「すみません! もしかして、乗せていただけるんですか!?」
「駅まででよければ」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げる女性。
随分と元気な人だ。
「とりあえず、荷物を後ろに置いてください」
「はい!」
女性はリュックサックを後部座席に置くと、助手席へ乗り込んだ。
シートベルトを締めたことを確認し、車を発進させる。
「いやあ、助かりました! もう何台見送ったかわからなくて!」
「でしょうね」
「あはは、ですよね!」
こちらの返答を気にした様子もなく、女性は楽しそうに笑った。
「ところで、どこの駅までですか?」
「あっ、一番近い駅で大丈夫です!」
「わかりました。十分もあれば着きますよ」
「ありがとうございます!」
どうやら、よほど困っていたらしい。
「ちなみに、どうしてこんなところでヒッチハイクを?」
「ああ、それがですね!」
女性は少し困ったように笑った。
「近くを散策していたんですけど、帰りのバスを逃しちゃいまして!」
「……時刻表は確認しなかったんですか?」
「確認したつもりだったんですけど、時間を勘違いしてました!」
「それは困りましたね」
「そうなんですよ! 次のバスまで随分と時間があったので、駅まで乗せてもらえないかなって!」
「歩くという選択肢は?」
「暑いじゃないですか!」
「……確かに」
あまりにも堂々とした返答に、思わず納得してしまった。
いや、納得していいのだろうか。
確かに駅まで歩くには距離があるが、だからといってヒッチハイクを選ぶというのも大胆な判断だ。
「随分と行動力があるんですね」
「そうですか?」
「普通は、あまりヒッチハイクをしないと思いますけど」
「それもそうですね!」
……大丈夫なのだろうか、この人は。
◇
「それにしても、車って便利ですよねえ」
しばらく走ると、女性が窓の外を眺めながら口を開いた。
「私も免許は持ってるんですけど、普段は電車ばっかりで」
「車は持っていないんですか?」
「はい! 旅行に行くときは電車やバスを使うことが多いので!」
「旅行?」
「そうです! 旅行!」
途端に声が弾む。
「私、旅行が趣味なんですよ! 三連休があれば、だいたいどこかへ出かけてます!」
「毎回ですか?」
「毎回です!」
「……金がかかりませんか?」
思わず聞いてしまった。
女性は一瞬きょとんとした顔になり、それから笑い出した。
「あはは! そこですか!」
「いや、交通費も宿泊費も必要でしょう?」
「そうですねえ。まあ、安く済ませることもありますよ?」
「それでも結構な出費になりそうですが」
「でも、行きたいところには行きたいじゃないですか!」
どうやら、お金の使い方については意見が合わなさそうだ。
「ちなみに、今までどこへ行ったんですか?」
「いろいろですよ! 北海道も行きましたし、九州も行きましたし!」
「随分と遠くまで」
「遠いところほど、行ったときの感動が大きいんですよ!」
女性は嬉しそうに話し始めた。
北海道で食べた海鮮丼が美味しかったこと。
九州の温泉で、つい長湯をしてしまったこと。
山の上から眺めた景色が、あまりにも綺麗だったこと。
次から次へと話題が出てくる。
しかも、どの話をしているときも楽しそうだ。
普段なら他人の旅行話など適当に相槌を打って終わらせるところだが、彼女の話は不思議と退屈しなかった。
「お兄さんは、旅行とか行かないんですか?」
「行きませんね」
「えっ、全然ですか?」
「仕事で出張することはありますけど、観光目的ではほとんど」
「もったいない!」
即答だった。
「日本って、すっごく面白いところがたくさんあるんですよ!?」
「そうなんでしょうね」
「そうなんでしょうね、じゃなくて!」
女性が身を乗り出しかけたので、思わず注意する。
「シートベルトをしていても危ないので、ちゃんと座ってください」
「あっ、すみません!」
素直に座り直したかと思えば、すぐに質問を続けてきた。
「お兄さん、温泉とか好きですか?」
「嫌いではないですよ」
「じゃあ、美味しいものは?」
「好きですね」
「綺麗な景色は?」
「まあ、綺麗なものは綺麗だと思いますけど」
「ほら! 旅行向いてますよ!」
「……その理屈だと、大抵の人が旅行に向いていませんか?」
「あはは! 確かに!」
何がそんなに楽しいのだろう。
この人は、さっきからずっと笑っている。
しかし、その明るさは不思議と嫌ではなかった。
◇
「この先が駅です」
「あっ、もう着いちゃいましたか!」
女性が残念そうな声を上げる。
駅前のロータリーに入り、一般車の乗降場所へ車を停めた。
「短い間でしたけど、ありがとうございました!」
「いえ、お気をつけて」
「はい!」
女性は後部座席からリュックサックを取り出し、車を降りようとした。
ところが、突然動きを止めた。
「あっ、そうだ!」
「はい?」
「お兄さん、次の三連休って空いてます?」
「……三連休?」
「はい! 海の日の三連休です!」
言われて、頭の中で予定を確認する。
七月十七日から十九日。
土曜日、日曜日、そして月曜日が海の日。
確かに三連休だ。
仕事は休み。
特に予定もない。
「空いてますけど」
「じゃあ、一緒に旅行に行きませんか!?」
「…………はい?」
今、何と言った?
「旅行です! 旅行!」
「いや、それは聞こえましたけど」
「私、次の三連休も旅行に行く予定なんですよ! なので、一緒にどうかなって!」
「……どうしてですか?」
純粋な疑問だった。
初対面の男。
たまたま車で駅まで送ってもらっただけの相手。
そんな人間を旅行に誘う理由がわからない。
女性は少し考えるように首を傾げた。
「だって、お兄さん、旅行に行かないんでしょう?」
「ええ」
「だったら、一度くらい行ってみてもいいじゃないですか!」
「……そういうものですか?」
「それに、せっかく知り合ったんですし!」
「知り合ったというほどの関係でもない気がしますが」
「細かいことは気にしない!」
気にした方がいいと思う。
特に、見知らぬ男と旅行に行くという話なら。
「でも、危なくないですか?」
「何がです?」
「俺みたいな知らない男と旅行に行くのは」
女性は目をぱちくりさせた。
そして、また笑った。
「あはは! それ、お兄さんが言うんですか?」
「いや、普通に考えたらそうでしょう」
「そうですねえ。でも、今のところ悪い人には見えませんし!」
「見た目だけで判断するのは危険ですよ」
「じゃあ、旅行までにもう少し仲良くなりましょう!」
「……そういう問題ですかね」
どうにも調子が狂う。
そもそも、行き先すら聞いていない。
「ちなみに、どこへ行く予定なんですか?」
「まだ考えているところなんですよ!」
「……それで誘ったんですか?」
「はい!」
迷いのない返事だった。
「行き先とホテルが決まったら、費用も含めて連絡しますね!」
「そうしてもらえると助かります」
どうやら、本気で誘っているらしい。
「……まあ、予定が合えば考えてみます」
「本当ですか!?」
「ええ。考えるだけなら」
「やった!」
女性は嬉しそうに両手を合わせた。
まだ行くとは言っていないのだが。
「じゃあ、連絡先交換しましょう!」
「ああ、そうですね」
スマートフォンを取り出し、連絡先を交換する。
女性は早速、確認用のメッセージを送ってきた。
「それじゃあ、また連絡しますね!」
「はい。お気をつけて」
「本当にありがとうございました!」
女性は大きく頭を下げると、リュックサックを背負い直し、駅へ向かって歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
「……変わった人だったな」
世の中には、いろいろな人間がいるものだ。
たまたまヒッチハイクをしていた女性を車に乗せただけなのに、なぜか旅行に誘われてしまった。
まあ、社交辞令のようなものだろう。
実際に旅行へ行くことになるとは思えない。
「さて、帰るか」
車を発進させ、いつもの帰宅経路へ戻る。
今日の夕飯は何にしようか。
冷蔵庫には昨日買った豚肉が残っていたはずだ。
野菜もまだある。
なら、野菜炒めでいいだろう。
そんなことを考えながら、自宅へ向かう。
気がつけば、旅行の話は頭から消えていた。
俺にとって旅行とは、時間と金に余裕のある人間が楽しむもの。
自分には縁のない趣味。
そう思っていたからだ。
だから、このときの俺は知らなかった。
たった十分ほど車に乗せた女性との出会いが、これからの休日を大きく変えてしまうことを。
そして、貯金通帳の数字が増えることだけを楽しみにしていた俺が、いつか日本全国を旅するようになることなど。
想像すらしていなかった。
お読み頂き、ありがとうございます。




