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玄関の扉が閉まる音がして、目が覚める。早朝四時。春になって夜明けはずいぶんと早くなった。――とはいえ、あたりはまだ薄暗い。ベッドから窓の外を覗くと、空には星が光っている。
耳を澄ませたところで、物音一つ聞こえないはずの夜明けに、外の砂利道を歩く、がしゃがしゃとした足音が聞こえ、しばらくすると、ブオン、というエンジン音が聞こえて、かすかに振動が伝わってくる。
俺は眉をしかめ、再び頭まで布団に潜り込んだ。しかし、もう一度眠る気にもなれず、気怠い体を強引に起こす。
今日は……月曜だっけ……。
子どもの頃から、この音でこの時間に必ず起きてしまうのだ。ベッドから起き上がって、窓の外を見ると、夜が明けたばかりの広い沼沿いの道を、四トンの鉄の塊がガタガタ走り出して、だんだんと遠くなっていくのが見えた。今日も父は仕入れに出かけたようだ。
俺はトラックの背中を見送ってから、一階へ下り、台所の火をつけ、コーヒー用のケトルで湯を沸かす。
「あー……疲れたぁ……」
毎日、毎日。俺は朝だろうが昼だろうが、夜だろうが、必ずこの言葉を口にしている。睡眠をとったばかりなのに、頭も体も重く、まったく疲れがとれているような気がしない。「春眠、暁を覚えず」という言葉があるが、俺は春夏秋冬、暁を覚えられないでいる。
湯が沸くまでの間、俺は台所に立ったまま、何度かあくびをしながら、ぼんやりとスマホで天気予報を確認した。それから、湯が沸くと、習慣のようにコーヒーを入れる。だが、それに口をつける瞬間。なにげなく壁にかけられたカレンダーが視界に入り、その手が止まった。同時に面倒を思い出し、顔を歪める。
「げえ……今日からじゃん。中途の人くんの……」
カレンダーの印は、父がつけたものだ。そこには「伊吹くん、初出勤」とある。たしか、年齢は三十五歳。俺とは、ひと回りも違う、かなり歳上の男性だ。詳しいことは知らないが、父の知人の息子らしい。つまり、コネ入社の中途採用、というやつだ。
「はぁ、めんどくさぁ……」
ため息を吐き、コーヒーを口にする。今朝はいつもよりも少しだけ、苦みが強いような気がした。コーヒー粉を入れ過ぎただろうか。
俺――花野井紫苑は、花野井家の次男として生まれた。兄弟は年の離れた兄がひとり。兄は、自由奔放な男で、ずいぶん前に家を出ていったきり、ほとんど実家には顔を出さない。理由はわかりきっている。自由人である兄は、きっと父の仕事を継ぎたくないのだろう。
父、柑治は園芸専門店を営んでいる。この家から車で五分ほどの場所にある「花野井園芸」は、地元だけではなく、遠方からも足を伸ばして訪れる人がいるほどの人気店だ。
地元住民には「ちばらぎ」と呼ばれる、千葉県東葛地区にある手賀沼のそば。自然が多く、のどかな町――といえば聞こえはいいが、ハッキリ言って、ここはド田舎だった。
最寄り駅まで、徒歩では30分以上かかるうえに、バスだって、都内のように数分ごとにダイヤが組まれているわけではない。通りを歩いても、下手をすれば、人の数より渡り鳥の数の方が多く見られるのだって珍しくない。
俺はそこで、高校生の頃から店を手伝ってきた。大学では園芸学部に入り、植物の栽培や育種学などを学び、卒業して、すぐに家業である柑治の店、花野井園芸に就職して、もう1年ほどになる。だが、特段、植物や切り花にさほど興味があるわけでもない。――というより、今ではこの仕事があまり好きではなかった。
園芸の仕事をしていると、「華やかな仕事」だと羨ましがられることが多いが、その仕事内容は本当に過酷なのだ。その証拠に、この業界に入りたいと熱く語って入ってくる新人も、そのほとんどが夢半ばで心が折れ、退職していく。特に近年では、災害級の悪天候や酷暑が、余計なストレスを増やし、それに拍車をかけていた。
ただし、幸いなことに、俺はずっとアルバイトだったということもあり、過酷な労働や酷暑は大して気にならなかった。どうせシフトに入れるのは、部活の休みが入る月曜だけだったし、時間外労働はほとんどない。父はちゃんとお小遣いとは別に、アルバイト代を払ってくれる。土日祝日は、時給も上げてくれる。
場所だって、駅前のコンビニやスーパーへ行くよりも、園芸店のほうが家からは近い。所詮はただのアルバイト。マネーワーク。だから、ちょっとくらいキツい仕事でも、高校時代はそれで満足していた。
だが、高校三年に進級した春。父に「将来、店を継いでくれるか」と訊かれてから、ずっと。俺には呪いがかかっている。
花野井園芸を継ぐ。可能性はあるかもしれない、と頭の片隅で思っていたが、さほどやる気はなかった。それに、父はこれまで、一度も俺に、成績や進路のことで口うるさいことは言わなかったし、どちらかというと放任主義だったから、俺は完全に油断していたのだ。
正直な話、園芸店なんか継ぎたくない。自分の意志で「やりたい」と思うのならまだしも、ただ、なんとなく気楽だったから、というだけの理由で続けていた、家業の手伝いを生業にするにはあまりに重すぎるのだ。
さらに、なによりも俺が絶望したのは、自分の人生の選択肢が、ほかに見つからなかったということだった。
部活も中途半端。勉強もそこそこ。特段、なりたいものがあるわけではない。ただ、効率がいいとか、便がいいとか、そんなことを考えて、アルバイトとしての作業をこなしていただけだった。
もちろん、嫌なら断ればいい。父もそこまで無理強いはしないだろう。だが、俺は断れなかった。これまで「店を手伝ってくれ」なんて、ひと言も言わなかった父が「店を継いでくれるか」と、静かに言ったことの重みが、なんとなく伝わってきてしまったからだ。
さらに、父の申し出を突っぱねるほど、ほかの選択肢も、俺は持ち合わせていなかった。ほかに、なにかしら夢や目標があれば、難なくそれを理由に断れたはずだが、当時の俺にそんなものはなかった。いや、今もそれは変わらない。俺にはなにもないのだ。特別好きなことも、こだわっていることも、夢や目標も、なにも。
――なぁ、紫苑。お前、店を継いでくれるか。
あのとき、断っていたら――。
それを考えることもある。けれど、いくらタラレバを考えてみても、俺にはほかにやりたいことも、夢もない。だから、ろくな未来は思い浮かばないまま、返事をしてしまった。父の申し出を断ってしまったら、俺には本当になにも残らないような気がして、怖くなったのだ。
皮肉なことに、父の申し出によって、俺はつまらない自分自身に気付いてしまった。
通学するのに楽な大学を出て、なんとなくどこかの企業に就職して、赤日休みのサラリーマンになるのだろう――と、気楽な想像をしていただけに、その気付きはショックだったけれど、父にはそんなことを話せるはずもなく、現実は戸惑う俺を待っていてくれるほど優しくない。
そうして、俺は、家業「花野井園芸店」を継ぐ予定の息子――という選択肢を選びとり、今に至るわけだ。




