第8話 王女の観察
台帳の日付欄に、今日が何日かを書こうとして、湊はしばらく止まっていた。
この世界に来て何日が経ったかは数えている。しかし「この世界の暦での何日か」は、今もよく把握していない。把握しようとしてこなかった。誰かに報告する必要がなかったからだ。誰かに報告する必要がなければ、日付は重要ではない。重要でないものに注意を払わないのは、五年間で身につけた省エネの一種だった。
ただ。
台帳に日付を書きたいと思ったのは今日が初めてだった。
書きたい、という気持ちが先に来て、書けない、という事実が後から来た。その順番が、少し奇妙だった。何かを記録したいと思うのは、記録する価値があると判断したときだ。今日に記録する価値があると判断した何かが、湊の中にある。それが何かを、湊はまだ確認していなかった。
扉が開く音がした。
足音の重心を聞いた瞬間に、湊は台帳から顔を上げた。
エリシアだった。
先週も来た。その前の週にも来た。今日で三度目になる。三度目、と湊は今初めて数えた。数えていなかったわけではない。数えることに意味が生じたのが今日だった、という感覚に近い。
「邪魔でしたか」とエリシアが言った。
「いいえ」
「本当に?」
確認してみると、本当だった。邪魔、という感触がなかった。あるべき感触がない、ということ自体が少し奇妙だったが、あるべきかどうかの判断もまだついていなかった。
エリシアが部屋に入った。今日は棚に向かわなかった。前回も前々回も、まず棚に向かって本を引き抜いた。今日は違う。棚を素通りして、台帳を置いてある机の方へ来た。
湊から二歩分の距離で止まった。
その二歩が、前回より近かった。前回は棚の前に止まっていた。今日は机のそばに来た。距離が変わっていた。距離が変わることに、この女は気づいているだろうか。気づいていて変えたのか、気づかずに変わっていたのか。どちらかは、湊には判断できなかった。
「一つだけ聞いていいですか」とエリシアが言った。
「どうぞ」
「あなたは今、何を書いていましたか」
湊は台帳を見た。
「台帳です。薬草庫の在庫記録を転記していました」
「それの、どこで止まっていましたか」
湊は少し考えた。
「日付欄です」
「なぜ」
「この世界の暦での日付が、まだ正確にわからないので」
エリシアが少し間を置いた。
「三週間と四日です」とエリシアが言った。
「何が」
「あなたがこの王宮に来てから」
湊は、その一文を受け取った。三週間と四日。この女は数えていた。湊が把握していなかったことを、この女は正確に把握していた。把握していた、ということは、把握しようとした、ということだ。
「ありがとうございます」と湊は言った。
台帳の日付欄に、三週間と四日、と書いた。この世界の暦ではないが、記録としては正確だ。
エリシアが湊の手元を見ていた。
「もう一つ、聞いていいですか」
「一つだけ、と言っていましたが」
「そうでした」とエリシアが言った。
少し止まった。この女はほぼ止まらない。言葉を選ぶことはある。しかし止まるのは違う。止まったのは、次の言葉を選んでいたからではない、という判断が湊の中に立った。次の言葉が先に出かかった。出かかって、引き取った。
「構いません」と湊は言った。
エリシアが湊を見た。
「あなたは、この王宮で怖いと思ったことがありますか」
「今のところはない、と前回答えました」
「前回からまた一週間が経ちました」
湊は少し考えた。一週間が経った。その間に何があったか。リリアが南棟の廊下でまた水をこぼした。蓮司が食堂で一人で食べていた夜があった。グラナードが湊の名前を廊下で口にしているのを、遠くから聞いた。
「今のところはない」
「同じ答えですか」
「はい」
エリシアが机の端に指を触れた。触れて、少しだけ動かした。動かした方向が、台帳の方だった。台帳の方へ一センチ動いて、止まった。止まって、引いた。引く速度が、この女にしては少し早かった。速度が変わるとき、制御の優先順位が変わっている。湊はその一センチを覚えておくことにした。
「あなたを怖いと思わないのは」とエリシアが言った。
「怖がるには根拠が必要だからです。前回も言いました」
「根拠とは何ですか」
「観察した結果の積み重ねです」
「三週間と四日、観察してきた」
「そうです」
エリシアが少し間を置いた。今度は長い間だった。
「私も」と言った。
湊は何も言わなかった。
「私も、三週間と四日」とエリシアが続けた。
「観察してきました」
その言葉の重さを、湊はしばらく確認していた。観察、という言葉をエリシアが使った。この女が今まで使わなかった言葉だ。前回は「気になる」と言った。その前は「続きを聞きたかった」と言った。今日は「観察」と言った。言葉が変わった。言葉が変わるとき、言葉の下にあるものが変わっている。
「何を観察しましたか」と湊は聞いた。
「あなたが誰と話すか」とエリシアが言った。
「誰に何を言うか。誰に何を言わないか」
「誰に何を言わないか、というのは」
「言わない、ということも行動です」
そうだ、と湊は思った。言わないことを、観察している。この女は言わないことを、言うことと同じ精度で記録している。この三週間と四日の間、湊が何を言わなかったかを、この女は知っている。
「何がわかりましたか」と湊は聞いた。
エリシアが湊を見た。正面から見た。今日初めて、正面から。
「まだわかりません」とエリシアが言った。少し間があった。
「ただ」と続けた。
「わかりたいと思っています」
語尾が、前の一文より一段低かった。低くなったことに、この女は気づいているだろうか、と湊は思った。
そのとき、扉の外で音がした。
廊下を歩く足音だ。軽い、小走りに近い足音。湊には聞き覚えがあった。
エリシアの体が、ほんの一瞬、止まった。
止まった、というより、固まった。固まったのは一秒もなかった。しかしその一秒未満の間に、この女の中で何かの順番が変わった、という感触が湊にはあった。顔は変わっていない。姿勢も変わっていない。変わったのは、空気の使い方だ。息を、どこかで一度だけ、止めた。
足音が書庫の前を通り過ぎた。
遠ざかって、消えた。
エリシアの体から、固まりが溶けた。溶けた速度が、湊には少し気になった。溶けるのが早すぎた。固まったことに気づかれたくない、という意図があれば、もう少しゆっくり溶けるはずだ。早く溶けたのは、固まったこと自体に気づいていないからかもしれない。
湊はエリシアの顔を見た。
訓練された静けさが戻っていた。何も変わっていない顔だった。
しかし湊は今の一秒未満を見ていた。
あの足音はリリアだ、と湊は判断した。判断してから、エリシアが固まった理由を確認しようとした。確認しようとして、途中で止めた。止めたのは、答えが出かかったからだ。出かかった答えを、湊は今日は確認しなかった。確認する必要が、まだあるかどうかがわからなかった。
「そうですか」とエリシアが言った。
声のトーンが一段戻っていた。問いかけの前の、訓練された声に。
扉の方へ歩き始めた。
「一つ、聞いていいですか」と湊は言った。
エリシアが止まった。振り返った。今日二度目の、正面からの視線だった。
「あなたは先週、ここに来ましたか」
間があった。
「来ていません」
「そうですか」
「そうです」
視線が外れなかった。どちらも外さなかった。
この女は来た、と湊は思った。棚の羊皮紙の上の埃の跡。椅子の角度。それを証拠と呼ぶには根拠が薄い。しかし三つが同じ方向を向いている。三つが同じ方向を向くとき、それを偶然と呼ぶには湊の観察の積み重ねが邪魔をした。
「わかりました」と湊は言った。
エリシアが扉を開けた。閉める前に、一度だけ振り返った。振り返って、何も言わなかった。扉が閉まった。
書庫に静けさが戻った。
湊は台帳を見た。日付欄に「三週間と四日」と書いてある。
さっきの一秒未満が、まだ空気の中にあった。足音が通り過ぎた瞬間に、この女の中で何かの順番が変わった。その何かに、湊は名前をつけなかった。つけなかったのは、つけられなかったからではない。
名前をつけると、それは記録になる。
記録になると、湊が把握したことになる。
把握したことになると、次に何かをしなければならなくなる。
湊はペンを持った。薬草庫の在庫記録の続きが待っていた。
どうせろくなことにならない、と思った。思いながら、ペンを走らせた。走らせながら、一度だけ扉の方を見た。
見た理由は、今日も、わからなかった。




