第7話 如月はずるい
皇蓮司は、おそらく疲れていた。
夕食の途中で、一度だけ、食器を置いてから次の食器を持つまでの間が、三秒あった。
それだけだった。それだけを湊は見ていた。
「疲れたのか」と湊は聞いた。
「べつに」
「そうか」
「なんで」
「食器を置いてから次を持つまで、三秒あった」
蓮司が湊の顔を見た。何かを確認する顔だった。嘘かどうか確認している顔ではない。本当にそんなことを計測しているのか確認している顔だ。
「数えてたの」
「数えていない。入ってきた」
「……お前、変な癖があるな」
「よく言われる」
蓮司が軽く笑った。笑い終わってから、スープに視線を落とした。落とした速さが、いつもより少し早かった。
訓練が始まって二週間が経つ。蓮司の一日は、今や騎士団の訓練と、宰相との会議と、国王への報告で埋まっている。食堂で会うたびに誰かを連れてきて、食事中も誰かが横にいる。一人でいる蓮司を見たのは、廊下でばったり出くわしたときを除けば、今夜が初めてだった。
「レオンたちは」と湊は聞いた。
「先に食わせた」
「珍しい」
「そういう気分だった」
「訓練の調子はどうだ」
「いい」
「そうか」
「……いいよ、本当に」
蓮司がスープを一口飲んだ。それから少し窓の方を見た。夜の窓には何もない。石壁が暗くなっているだけだ。何秒か、そのままだった。
「如月はずるいよな」と蓮司が言った。
「俺が?」
「うん」
湊はパンをかじるのを一度止めた。ずるい、という言葉と蓮司の顔を確認した。怒っていない。棘もない。長いこと考えていてやっと出てきた言葉の顔だ。
「どのあたりが」
「期待されないじゃないか、お前は」
「それはずるいと言わない」
「でも楽だろ」
「楽か」
「失敗しても誰も見てない。成功しても誰も驚かない。そういうの、俺にはない」
「成功を驚かれたいか」と湊は聞いた。
「そりゃそうだろ」
「成功を驚かれると、次も驚かれる水準を維持しなければならない」
「そうなるな」
「それはずるくないのか」
蓮司が三秒黙った。
「……確かに」
「どうだ」
「でも」と蓮司が言った。「お前が楽しそうにしてると、腹が立つんだよ」
「楽しんでいるわけじゃない」
「でも楽しそうに見える」
「お前の視点の問題だ」
「そう?」
「そうだ」
蓮司が窓の方をもう一度見た。今度は少し長かった。
「この国、思ってたのと違う」と蓮司が言った。
「どう違う」
「もっとシンプルだと思ってた」
「魔王を倒せばいいんじゃないのか」
「そうなんだけど、そうじゃない部分が多くて」
「権力関係が複雑だ」
「うん。宰相と騎士団長で言うことが違うし、国王は両方の言うこと聞こうとするから話が二重になる。で、結局俺がどっちかの顔を立てなきゃいけないんだけど」
「どっちの顔を立てたんだ」
「今日は騎士団長」
「昨日は」
「宰相」
「明日は」
「国王」と蓮司が言って、少し間を置いた。スープを持った手が、テーブルの上に戻った。飲まなかった。
「難しいな」と湊は言った。
「そうなんだよ」
「同情する」
「本当に?」
「少し」
蓮司が笑った。自虐の笑い方だった。
「如月はそういうのないよな」
「俺は雑用だから」
「羨ましいな」
「雑用が羨ましいのか」
「雑用だからできることもあるだろ」
「まあ」
「俺には雑用ができない」
「できないのか、させてもらえないのか」
蓮司の視線が一瞬、宙に浮いた。
「……どっちだろうな」
今夜一番、静かな声だった。湊は何も言わなかった。
「宰相に呼ばれてさ」と蓮司がしばらくしてから言った。
「書庫のことを聞かれた。お前が出入りしてるって」
「整理の仕事をしている」
「そう言ったら、もうしなくていいって」
「宰相が」
「うん」
湊はスープを一口飲んだ。冷めかけていた。グラナードが何かを把握した。何をどこまで把握しているか。湊が把握していないことを、グラナードは把握している。その非対称が、静かに積み重なった。
「わかった」と湊は言った。
それきり、しばらく二人とも黙った。石造りの天井に蝋燭の光が揺れていた。どこかで風が鳴っている。石壁を通ってくる音だ。
蓮司が椅子を引いた。
立ち上がる気配があった。湊は顔を上げなかった。
「気をつけろよ」と蓮司が言った。
「何に」
「……わからないけど」
「根拠のない忠告は、かえって怖い」
「なんで」
「何かを見ているから言ってしまった、ということだ」
蓮司が三秒黙った。今夜の三秒は、いつもより少し重かった。「確かに」と言わなかった。
足音がした。
扉の方へ向かう足音だ。湊はスープの残りを見ていた。
「王女が、お前に興味を持ってるらしい」
足音は止まらなかった。
「おやすみ」
扉が閉まった。
食堂に一人残って、湊はスープを飲み終えた。
如月はずるい、という言葉と、最後の一言が、同じ夜に届いた。前者については少し考えた。楽と静かは違う。ただ、この違いを説明する相手はもういない。
後者については、しばらく考えなかった。
考える前に、保留の箱に入れた。箱が、今夜で一段、重くなった。
蝋燭が揺れた。
どうせろくなことにならない。
今度は早かった。習慣より、少しだけ早かった。




