第四章 抗争 (5)
【OFF】
頬に冷たいものが当たっている。手を伸ばそうとした矢先、それは離れた。けれども、また触れる……離れた。そしてまた、ぴとっと。
いったい、なんなのだろう。勘弁してほしいものである。せっかく人が気持ちよく眠っているのだというのに。
「んん……ん?」
呻き声を上げながら、ゆっくりとまぶたを開いた。すると、間近に顔のドアップがあり、私は手足をばたばたと動かしながら飛び起きた。
「あはは、あはは!」
呆然とする私を指差して、馬鹿笑いする男。それは紛れもなく、十一年も私がおつき合いさせていただいている、拓人だった。冷たいものの正体は、彼の右手に握られたコーラの五百ミリペットボトルらしい。
冬の朝ならではの、凍えそうな寒さはない。暖房がつけられており、すでに部屋全体の空気が暖められているようだ。いったいどのぐらいのあいだ、拓人は私の寝顔を眺めていたのだろうか。
改めてベッドに腰かけ、仏頂面で私は訊ねる。
「どうしたの? 今日はやけに早いじゃん」
「早い? そうでもないけど?」
化粧台の脇に置いたデジタル時計をちらっと見る。午後一時前。ほ、本当だ。ラジオ終わりの日曜日とはいえ、大抵は午前中に目が覚めるのに。
「お疲れなんじゃないの?」
そう言いながら、拓人はペットボトルを枕もとの台に置いた。
「あ、ちょっと……あは」
拓人が私の後ろに回り込んで、肩をもみもみし始めた。つい一、二年前までは肩もみなんて痛いだけだと思っていたけど、最近はそのありがたみが分かるようになってきた。私も年をとったなあ。
「ああん、気持ちいい。うふふ」
「そういえば」拓人は奉仕を続けながら言った。
「俺がきたとき、着信鳴ってたみたいだけど」
「え?」
部屋の隅の小さなデスクに、ケータイを置いていた。私はそちらを眺め、しばし逡巡する。
「どうせバイト先からでしょ。シフト交代してほしいとか。悪いけど、今日はパスだな。拓人もいるし」
私は立ち上がり、今度は拓人をベッドに座らせた。
「ありがとう。生き返ったよ。次は、私がマッサージする番」
「おお、それじゃあよろしく」
拓人が今の仕事を始めてから、本当に彼の身体はごつくなった。肩はかちんこちんで、私の握力じゃ手に余ってしまう。それでも一所懸命、私は肩をもんだ。
「俺ね。やっぱり、お酒やめることにした」
「そう。今、何日目」
「昨日宴会やったから、一日目かな」
「ふーん。上手くいくといいね」
抑揚の欠いた声でそれだけ言ったとき、不意にケータイの着信が鳴った。バイトのシフトの相談だと高をくくっているため、立ち上がる気にはなれない。
「けっこう粘るな」拓人が後ろを振り向いた。
「出るだけ出てみれば?」
「……うん」
よいこらしょと腰を上げ、私はデスクのもとまで歩いた。発信相手を確認してみると、予想外にも野波さんであった。彼が電話をかけてくるのは珍しく、日曜日なら尚更だった。いったい、どうしたのだろう。
私は通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「おお、やっと出たかあ。ひょっとして、昨日は朝まで彼氏と無制限一本勝負う?」
なんという……! なんという……!
「ど、どうしたんですか?」
「いやねえ」野波さんの声は、心なしか弾んでいるようだった。
「今日は朗報をお伝えしようと思ってねえ。実はあきちゃん、あきちゃんの新しいレギュラー番組が決まるかもしれないんだあ」
「え!?」私は驚きの声を上げた。
「どういうことですか? 詳しく聞かせてください」
「平日帯でやってる〈柿沼いさおのスーパースロウライフ〉って知ってるかなあ。僕のやってる番組じゃないんだけど、あれが春からリニューアルすることになってねえ。若い女性アシスタントを一人入れるそうなの。そんで、経験も豊富なあきちゃんを、僕が推しておいてやろうかなあと」
知っている。平日の午後に毎日三時間も生放送してはや二十年、うちの局の中でも看板といえるような番組だ。
「私なんかが……大丈夫なんですかね」
「うん。パーソナリティの柿沼さんは、アシスタント時代のあきちゃんを気に入ってるらしくて、『彼女さえ承諾してくれれば、僕はかまわない』って言ってくれてるよお。あとはもう、あきちゃん次第かなあ。どう? 柿沼さんは上手くリードしてくれるだろうしい、プロレス好きだから、あきちゃんとも話が合うと思うよお」
むむ。エレガントな私のイメージを保つために今まで内緒にしていたが、私は子供の頃から大のプロレスファンなのである。プロレスの話題が通じるのはお父さんだけしかいないので、それは非常にありがたい。
いや、そんな問題じゃない! アシスタントに逆戻りとはいえ、帯番組のレギュラーなんて、たいへんありがたいお話ではないか。
「返事はすぐにもらいたいなあ。ディレクターさんも、候補を探し回ってるそうだから」
「あ、はい。もちろん……」
「引き受けます」と口にしかけて、私はとどまった。
本当にいいのだろうか。
三時間の帯番組となると、今までと違って拘束時間も半端ないだろう。それに、私にとっては新しい職場なのだから、プライベートなことにうつつを抜かしてはいられない。だとしたら、結婚の話がまた先送りになってしまうのでは。
仕事は引き受けておいて、結婚は仕事が落ちついてからでも……
だが、落ちつくまでにいったい、どのぐらいの期間が必要となるのか。たとえ落ちついたとしても、スムーズに結婚の話へと移行するのだろうか。ああ、じれったい。結局、拓人がはっきりしてくれないのが悪いのだ。
拓人を盗み見ると、彼は煙草を片手に、ベッドに寝そべって漫画を読んでいた。
ようし――。
今日こそ、はっきりさせよう。そう私は決心する。
「あのう」私は再び口を開いた。
「返事は、三十分後じゃ駄目でしょうか。はっきりさせたいことがあって」
「三十分後? うーん。まあ、そんぐらいなら」
通話をきると、私は真剣な表情で、ベッドに歩み寄っていった。
さあ、馬場VS猪木に匹敵する、世紀の一戦が幕を上げるのだ。