44. それじゃあ
「朔埜〜、三芳さんのところでずっと待ってたのよ〜」
「……そうやったな、悪かった」
後ろ髪引かれるように何度も振り返り遠ざかる史織を横目に。乃々夏は風に靡く髪を指先で抑えながらふわりと笑った。
「──で、決まったの?」
柔らかい微笑みと真っ直ぐに向けられる瞳が朔埜を射抜く。ぐ、と喉を鳴らして朔埜は頭を下げた。
「今迄悪かった」
お互いの家とか、事情とか。
似た物同士で仲も悪くない二人なら、上手くやれると思っていた。
けれど史織に会って心が揺らぎ、義務と期待で葛藤が始まった。乃々夏を待たせてまで……仲良くやっていこうと思っていたのに。
史織を忘れる事も出来ず、ただ好きなだけでも駄目なんだと思い知った。
傍にいて守りたい。誰にも渡したくない。
ふ〜んと呟き、乃々夏は首を傾げた。
「朔埜に振られたら、あたしは父の信頼を失っていたもの。それであの家でどうやって生きていけば良かったのかしら〜?」
にこりと、笑顔が攻めてくる。
それに朔埜は罰の悪い顔で目を逸らす。
──絶対的な存在の、あの父の家で……
「だからあたしには、大旦那様の恩を突き離せなかったあなたの気持ちが良く分かるの。あたしたちはきっと上手くやれるんだ、とも思ったの……だから、」
「努力したんやろ……ぜーんぶ丸く納める為に。……よく分かるわ」
「そうよ努力。努力したの。あなたと一緒になるためには、その強迫観念が必要だったの」
「……」
お互いがしがみついていた未来の展望。
けれど今はそこに価値を見出せなくなってしまった。
努力が実を結んでも、達成感は得られないまま、そこからの始まりに足が竦んだ。
違う希望を見出してしまったから……
乃々夏は一つ、溜息を吐いた。
「──それでも……あたしを受け入れて……って言うつもりだったわ……本当は」
「無理や」
即答に彼女の仮面が剥がれた。
歪に歪む顔は傷ついた心の表れだろうか。
いつも穏やかな笑みを心掛け、何故そう思ったのか朔埜が好きだと思った頭の弱そうな女を装って。
それで苦悩を綺麗に隠していた事を知っていた。
自分の弱音一つで変わる関係性を懸念して。
……そんなところも自分と良く似てるけれど。
それを慰る心は湧いてきても、愛しいとは思えない。
きっとそれも、お互いそうなのだろう。
「……すまん」
断れば立場が悪くなるのは乃々夏の方。
そうと知っていても。
譲れないから。
「いいわ、無理だもの……分かるわ……」
そう言って乃々夏は無理に笑ってみせた。
「それにあたしだってもう、警部補なのよ? 順調にキャリアを積んでいる。あなたがいないと生きていけないなんて言わないわ」
「……お前は優秀やったもんな。ずっと勿体無いと思ってた」
「それを言ったら史織さんはどうなのかしら? 自立志向を持ってるみたいだから傷つくかもよ?」
「お前と史織は違うやろ」
「そうね……」
その言葉に少しだけ、乃々夏は哀愁を思わせる笑みを溢した。
ふと息を吐けば、乃々夏の手がするりと上がるのが見えた。それに合わせて自分も手を伸ばす。
最後まで笑顔の仮面を貼り付ける彼女。
けれど、その手は朔埜の手を通り抜け頬を張った。
乾いた音が空気を震わせ、朔埜はツンと痛む頬に手を添えた。
「決めるのが遅いのよ、馬鹿」
ぽかんと呆ける朔埜に背を向け、乃々夏は後手を振る。
「じゃあこれで、バイバイ」




