45. 向き合う方向
「お嬢様」
乃々夏は木陰に隠れる辻口にふと笑みを返した。
「もうお前のお嬢様ではないわ。お前は四ノ宮に帰るのでしょう?」
つい、いつものように笑ってしまう。
乃々夏は視線を逸らし、辻口の前で立ち止まる。
「……はい」
「そう、迷惑を掛けたわ。結局ここに嫁がなかった女に仕わせてしまってごめんなさいね」
その言葉に辻口はぎゅっと眉間し皺を寄せた。
珍しい、彼はあまり感情を表さない。
「乃々夏……さん、は素晴らしい女性です」
「そ、ありがとう」
例え万人に褒められたところで、当人に認められなければその言葉は虚しいだけだ。
「……結婚、されるのですか?」
乃々夏は思わず顔を上げる。
「お母様を止める術は無くなったもの……きっと私の縁談を用意して待ってると思うけれど、誰でも一緒よ……」
心を通わす努力が必要な人。
また同じ事を最初からしなければならないのは億劫だけど。
「乃々夏さん」
辻口は膝をついて乃々夏の手を掬い上げた。
突然の事に驚いてしまう。
「俺があなたを迎えに行きます」
「お前……何を言ってるの」
真っ直ぐな眼差しに乃々夏は怯んだ。
「狡いのは分かっています。若旦那様があなたを放した今、捕まえようとしているのですから。ですが……」
口ごもる辻口に乃々夏は察してしまう。
辻口が本気で乃々夏を迎えに来たとして、攫うくらいしか思い浮かばない。
「それはきっと、上手く行かなかったでしょうね」
乃々夏もまた、朔埜のように家に囚われているのだから。本気で決別する事は出来ない。
……でも
「あなたをお守りする誓いは、今も変わりません。東郷家からも、例え四ノ宮家だろうと必ずあなたを幸せにします。だから、私を、選んでください」
その眼差しから確固たる意思が揺らぎ、切実なものが溢れ出す。
いつも見てきた顔。
時々滲ませた彼の本心。
ずっとそこから目を背けてきたけれど、気付かなかった訳ではない。お互いの立場をちゃんと理解して、使命を果たそうとしてきた。だから、彼の真面目な人柄はよく分かる。
同情で人に寄り添おうとできるような人ではないのだ。
「嬉しいわ」
辻口の言葉に偽りを感じない。
義務だとか、正義感だとか、もしそれが彼の中にあったとしても……彼はそれを愛として貫き、全うすると思った。
それなのに、彼の見せる誠意を信じられないのに、涙が零れる。
嬉しいと口にした言葉に、自身にも偽りは無いと痛感する。
「待ってるから、必ず迎えに来て頂戴」
頷いて、乃々夏は辻口の手に自らのものを重ねた。
◇
「それで、結局、どうするんです?」
目の前の威圧感に史織は平伏しそうになる。
自室に戻れば何故かそこには三芳がいた。
目を丸くする史織を他所に、三芳の圧力は変わらない。
彼女は史織が偽名を使って忍び込んだ事も、朔埜を好きな事も、……朔埜から交際を申し込まれた事も知っているようだ。ついでに昂良との見合い話も耳に入っているのかもしれない。
朔埜にとっては母親代わりの女性──
史織はごくりと喉を鳴らした。
「私は、朔埜さんが好きです。彼からも気持ちを返して頂きました。……し、真剣に交際したいと思っています」
ぎゅ、と膝の上で拳をつくり、史織は三芳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……本当に」
三芳は、はあと息を吐く。
……ここにきて、参っているような彼女は初めて見る。
やはり望まれないのだろうか。
どきどきと鳴る胸の音を聞きながら、史織はぐっと奥歯を噛んだ。
(それでも、引きたくない)
「も、申し訳ありません。納得いかないと思われます。でも、この気持ちに偽りはありません。朔埜さんに寄り添い、生きていきたいんです。どうか認めて下さい」
史織は手をついて頭を下げた。
「それは……私に言う事ではありまへんわ。私らはただの使用人ですさかいに……ここで認められるには、あなたがあなたの役割を果たす事しかありまへん」
「はい……その、出来ればそれを……教えて頂けますでしょうか……三芳さん……」
緊張の中答えを待てば、落ち着いた三芳の声が頭の上から聞こえてきた。
「……若旦那様がお認めになったのです。そうなった以上、誰がなんと言おうと、あなたが凛嶺旅館の次期女将ですよ。覚える事が沢山あります。今以上に精進して貰いますからね」
「あ、ありがとうございます! よろしくお願いします!」
厳しい口調は相変わらずだけれど。
受け入れて貰える一歩を、そのきっかけを掴み、史織はほっと息を吐いた。




