全世界へ、こちらハローアース
「話は十年前まで遡る」
薄暗い、トンネルのような廊下。壁も床も銀色で、等間隔に左右に並ぶ扉も銀、その横に同じく等間隔で置かれたベンチも銀。
まるで宇宙船のようだった。
「十年前、ですか」
先導する戸倉さんに続いて歩く僕は、きょろきょろと周囲を見回しながら相槌を打つ。
どんな素材かわからないが、足元に感じる床の感触はとても硬いのに、足音がまったく聞こえなかった。
「十年前に何があったか、基礎はあるかね」
戸倉さんはゆっくりと歩いているように見えるのに、その歩みはとても速い。
「何が…? あの、世界連合とかの話なら、授業レベルには」
置いて行かれないよう、速足で続きながら言う。
十年前、世界元年とも呼ばれるその年に起きた人類史上の事柄といえば。
「有人宇宙探査船ハローアース、主要六か国から女性ばかり一人ずつ派遣された国家間プロジェクト。衛星軌道上での科学的実験を名目とした、主要国の繋がりと技術力を誇示するためのプロパガンダクエスト」
「はい、その中で、衛星軌道上からの演説が…世界を変えたと」
日本代表、鈴川穂乃果が全世界へ向け行った演説は、背後に流れていた彼女の好きな日本のバンドの名曲とともに、歴史に残る名言と歌となった。
「全世界へ、こちらハローアース、私の名は鈴川穂乃果。
私の名前は忘れてくださって構いません。この先の言葉だけが皆さんの心に届くなら。
この事実が皆さんの心にとどまるのならば。
他に私は望みません。
地球が見えます、青くきれいな私たちの星です。
大陸が見えます。明かりが見えます。皆さんの生きている証が見えます。
けれど、私には見えません。
地面に引かれた線は、一本も見えません。
皆さんの生きている証は見えますが、皆さんの顔は見えません。
皆さんの肌の色も眼の色も、見えません。
皆さんの話している言葉は聞こえません。
けれど、皆さんがそこで生きていることは、こんなにも遠くから見えます。
涙が出るくらい、皆さんが生きていることがわかります。
戦地の皆さん、聞いていますか?
戦火が見えます、人が死んでいるのですね。
戦地の皆さん、ひどい事を言います。私には、見えませんよ?
その光の下で散っているであろう命を嘆く神様は、どこにも見えません。
天使も見えません。
悪魔も、何も、見えません。
皆さんが仰ぐ天に、いま私たちはいます。
いませんよ、何も。
ただ皆さんがそこで生きていることしか、ここからは見えません。
地球を離れると、こんなにも寂しいのですね。
私は今、ただただ、皆さんに会いたくてたまりません。
全てのあなたに。
地球人である全てのあなたに。
もうすぐ会いに行きます。抱きしめて、笑って、一緒に歌いましょう。
ね? いい歌だと思いません?」
戸倉さんは振り向かず、一度も詰まらず、その演説を朗々と口にした。
「…あ、はい、それです」
その演説で、世界が変わった。
国の名前は残しながら、世界中のほぼ全ての国が賛同して一つの連合となった。国際連合より更に制度や仕組みを一体化させた、世界連合という組織に。
そしてその永世首長国に、日本が就任した。
「その先の歴史は、さすがに説明はいらないかね」
「…はい、そうですね」
「たった一年足らずで、満場一致で、小さな島国が世界の頂点に立った」
「はい」
足音のない通路に、その声は、冷たく響いた。
「おかしな話だと、思ったことはないかね」
「え?」
戸倉さんは歩みを止めない。
「小便臭い綺麗事で世界統一? そんなお花畑がまかり通ると?」
当時七歳、詳細は分からずとも凄い事が起こったということは周りの大人の興奮でなんとなく感じていた。
鈴川穂乃果さんを、国を、全てを褒めたたえる連日の報道に、異常なまでの好景気に、次々と日本から世界へ発信される革命的な技術に、国が沸いていた。
「世界がそんなに優しいわけがないだろう? 杉本隆一君」
「何を…だって、現実に」
「そう、現実をこそ見なければならない。事実、日本は世界の頂点に立った。事実、世界はほぼ統一された」
「じゃあ」
「その事実には、それ相応の理由があるのだと、そう考えてみてはどうかね」
「何を、言っているんですか」
怖い。
この場で、こんな場所でこんな状況で、今から僕が聞く話が冗談なわけがない。
陰謀論なんて安っぽいものじゃない。
「鈴川穂乃果は今どこにいる?」
「えっ?」
何を、違う。
ダメだ、足を止めろ、聞くな。
これは、ダメなやつだ。
「鈴川穂乃果は今どこにいる? 何をしている? 世界を変えた偉人は今どうしている?」
「どこって…その、確か…技術の、研究をするとか、なんとか」
溜めもなく。
こともなげにさらりと。
戸倉さんは世界の裏側を僕へ晒した。
「鈴川穂乃果は宇宙で死んだ」
「な…」
「くだんの演説の二時間後、ハローアースは衛星軌道上で爆散し、衝撃で船体は宇宙のはるか彼方へ消えた。六人全員、死んだのだよ」
言葉を理解できず、ただ足だけが機械のように動き続ける。
戸倉さんは振り向きすらしない。
「だって…だって…僕、見てますよ。帰還の」
「CGだ。当時の技術ではその先が無理だったため、会見はなかったろう?」
「…」
「疲労のため、として数日稼いだ。そして大きな花火で世界の目を逸らした」
「は?」
「帰還の五日後、戦争が始まったろう? 協議に要した時間は二か月。今後の方針が定まったと同時に、用済みになった戦争はあっさりと休戦協定を締結した」
「何を」
「その時点で日本が世界の頂点に立つことは決まっていた。あとはそれを受け入れる空気を作るだけ。そこから八か月、それは綿密な設計図のあった話なのだよ」
何を、言っているんだ。
「なぜ日本か」
「…」
怖い。
「なぜこの国なのか」
「…」
「さて、ハローアースはなぜ爆散したと思う?」
「え…」
「ぶつかったのだよ。自動車事故のように、軽自動車が大型トラックに突っ込んだようなものだ」
「トラック…? 人工衛星とか、そういう…?」
ぴた、と戸倉さんが足を止めた。ぶつかりそうになり、僕はたたらを踏む。
体制を崩した僕へ、振り向いた戸倉さんが微笑む。
「この廊下、どうだね。君が小説家なら、なにに例えるかね?」
大げさに手を広げ、薄暗い通路を指す。
「なにって…」
銀色の壁、銀色の床、電灯が見えなくてガラスでもなくてのっぺりと銀色の天井が柔らかく発行していて、無機質というか、それはまるでSF映画に出てくる――
「―――」
震えた僕に、戸倉さんが笑った。
「勘がいい子だ。そう、ふふふ、まるで宇宙船のようだろう?」
バカバカしい。
そんな馬鹿な話があるわけが。
笑ってしまえ。
嫌だなあ、からかわないでくださいよ、とでも。
そういえばきっと、目の前の女性だって――
「ハローアースは突然現れた宇宙船に衝突し、爆散し、六人は死んだ。
そして、その宇宙船は地球へ落ちた。
偶然にも、日本へ。
人類が地球上で何世代かけようと得られぬ技術を満載した宇宙船は。
ただの偶然で、日本に堕ちた。
日本が、それを手に入れた。
世界全てを敵にまわしても、勝ててしまえるほどの技術を。
たまたま日本が手に入れた。
地球と敵対すらできる技術を、手に入れたのだ。
日本が世界の頂点に立ったという事実の、その理由は、単純なのだよ。
世界の頂点に立つ力を、偶然、手に入れただけだ」
戸倉さんは肩をすくめた。
「過ぎた力だが、一度手に入れた物は手放せんもんでね、人というのは」
「ちょっとあの…いや、あの…いやぁ…」
「星すら壊すその力、黙ってそれを見ていると思うかね?」
「ほ、他の国、とか、がですか?」
黒い軍服に身を包んだ戸倉さんは、にやりと笑った。
世界全部を敵に回して、なお楽しんでいるかのような――いや、なんなら、それは―
「そんな小さな話ではない」
それは――
「私たち人類は――戦争をしている」
それは――星すら敵に回した、人の笑み。
「相手は、この星だ」
笑う戸倉さんの横、音もなく扉が開いた。
「さあ、ご対面といこう」
そこにいたのは――
そこにあったのは――
「今から三日後、空から絶望が降る。
それは、星から人類への、明確な攻撃だ。
君たちが――それを止めてくれ」
だだっぴろい部屋。
その中央にあったのは―
(先輩…せんぱああああい! よかったーっ! 無事だったんですね!)
声が響いた。
ずっと聞きたかった声だった。
けれど、彼女の姿は見えない。
そのだだっ広い部屋にあったのは、ただ一つ
(よかった…よかった…先輩が無事でほんとに…うぇぇぇぇぇん)
「奈々…ちゃん…」
バスケットボールくらいの、真っ白い光の玉が浮いているだけだった。




