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だから理由はありません

 一年二組、合唱部、小柄で細身、名前は岬奈々。性格は大人しくて控えめ、友達に囲まれ、輪の中心になることはあまりないけれど、いつもにこにこと楽しそうに相槌をうっている。

 派手ではなく、どちらかといえば地味な子。髪も染めず、スカートも長め、カバンも高校指定の物で、アクセサリーは小さな人形が一つついているだけ。一番小さなサイズの制服でも大きいのか、いつも袖が余り気味。おにぎりよりパンが好き。

 夏の学園祭、合唱部の出し物で彼女の事を初めて知った。小さな彼女は最前列で、とても楽しそうな、でも少し恥ずかしそうな、眩しいくらいの笑顔で歌っていた。

 ああ、楽しそうに歌う子だな、と。

 それから、気が付けば目で追っていて、なんとなく周囲に聞いてみて、気が付けばそれなりにその子の事を知っていた。話したことは、なかったけれど。

「付き合ってください」

 1月の終わり、なんでもない平日。

 いつもの高校。

 新幹線が停まるくらいしか取り柄のない地方都市の、中の中な普通の高校。

 人気のない校舎裏、使われていない焼却炉、金網の向こうで流れる川。

「杉本先輩、好きです。付き合ってください」

 放課後、薄暗い空、吹く風は震えるほど冷たい。

 黙って突っ立つ僕に、目の前の小柄な少女はそう繰り返して、頭を下げた。

 肩口で切りそろえられたサラサラの髪が揺れ、顔をあげた少女は大きな目で僕を見て、少し恥ずかしそうに微笑んで、首を傾げた。

「お返事、もらえます? 杉本先輩」

 岬奈々は、そう言って、僕へと一歩近づいた。

「えっと…」

 僕は、後ろへ下がろうとし、なんとか踏みとどまった。

「えっと?」

「えっと…あの、初めまして。杉本…杉本隆一です」

 まだ挨拶すらしていない。とりあえずそこから、混乱する頭でなんとかそう絞り出した僕に、岬奈々は一瞬だけ驚いたように口を開けて、すぐに笑った。

「えへへ、そういえば、そうでしたね。初めまして杉本先輩、岬奈々です」

 うん、知ってる。そう返したかったが我慢して、小さく会釈した。

 この状況は、なんだろう。夢だと思いたいが、頬をなでる風は生々しいほど冷たい。

「あの、えっと…その、あれかな」

「ん? なにかな? なにですか?」

 間近で見ると、遠目で見るよりずっとかわいい。愛らしい。密かにファンがいっぱいいると聞いてはいたが、それも頷ける。間違いなく、モテる子だ。

「罰ゲーム?」

 くらいしか、思いつかなかった。

 しかし、彼女は笑顔のままで首を振った。

「いいえ、私は先輩が好きだから、告白しました。好きです!」

 思い当たらない。接点も、理由も、何も思い当たらない。

「いやぁ…ねぇ…そりゃあ」

「なにきょろきょろしてるんですか?」

 柱の陰から友達が見ているのではと思ったが、人の気配はない。ならば二階か屋上か、そっとこっちを見下ろしているのではと顔を向けずに眼だけで伺うが、誰もいない。

「視力いくつ?」

「2.0です!」

 ぐっ、と得意げに親指を立てウィンクされた。思ったよりフランクな子だった。

 可愛い。

「人間違いでなくて?」

「にんげんちがい?」

「ひとまちがい、僕ちゃんと「ひとまちがい」って言ったよね?」

「字面だとわかんないですよね?」

「字面?」

「私は杉本隆一先輩が好きです、杉本隆一先輩に告白しました。好きです!」

 ぐいっと岬奈々が顔を近づける。手を伸ばせば触れられる距離、たじろぐ僕を笑うように、彼女はまったく動じていなかった。

 両手を伸ばし、頬を押さえ、少し引き寄せればキスすら可能な、そんな距離で。

 彼女は笑顔で繰り返す。

「好きです!」

「僕は杉本隆一といいます」

「…うん、知ってます」

 息がかかるような距離で、僕より随分と背の低い彼女は小さくうなずく。

「二年三組、帰宅部、友人は数名、どいつもこいつも帰宅部か文化部で似たり寄ったりの一山幾ら。目立つでもなく浮くでもなく、至極普通に毎日過ごして、きっとこのまま卒業していく」

「はぁ、なるほど」

「僕の事を知っているのは、顔と名前が出てくるのは、クラスメイトか同じ中学のやつくらい。普通の中の普通を地でいく、天下無敵のノーマル君、それが僕です」

「知ってます!」

 岬奈々は失礼なほどしっかりと肯定してくれた。

「そんな僕に、1年生の中でも評判の可愛い子が、いきなり告白」

「可愛いなんて先輩そんなー、やだー」

「そりゃあ、悪戯か罰ゲームだよね。そんなわけないじゃん? ねえ―ンガッ!」

 ばちん、と衝撃、一瞬の痺れの後、柔らかさと温かさが頬を包む。

 両手で頬を包まれた、とわかった時にはぐいっと顔を引き寄せられていた。

「先輩」

 僕が首を少し前に出せば、唇すら触れそうな距離。岬奈々は口をへの字にし、僕を強くにらみつける。

 声すら出せない僕に向け、ぷっくりした唇は強い言葉を吐き出した。

「どう答えるかは先輩の自由です。でも、やめてくれませんか」

「…」

「私の気持ちを勝手に決めないでください。私の気持ちは私の物です」

「…」

「先輩の事が好きっていう私の気持ちは、私の物です!」

 ぱ、と手を放し、数歩下がった彼女は、真剣な顔で手を出した。

「好きです! 付き合ってください!」

 惚れた。

 心底、とろけるくらいに、どうしようもないくらいに、この驚くべき短期間に心を根こそぎ持っていかれた。

 言葉が、動作が、全てが無敵すぎる。

 こんな存在が僕なんかを。

「なんで?」

 今すぐ手に触れたい。舞い降りた規格外の幸運に飛びつきたい。

 けれど、規格外すぎて信じられない。そんなわけ、ないじゃんよ。こんな無敵ガールが僕の事、好きになるわけないじゃん。

 漫画や小説じゃないんだから。

「人を好きだという気持ちに、理由なんかありません!」

「えー…」

「ちょっと気になるかも、少し好きかも、好きになるかも、あっちも気にしてるかも、あっちも好きかも、かもかもかもかも」

「…どしたの」

 岬奈々は頭を下げ、手を差し出したまま、元気な声でしゃべり続ける。

 その口調は自信に溢れ、楽しくて楽しくてしょうがないというように、弾んだ声は幸せでしょうがないとでも言いたげに。

「そんな時なら、理由は必要かもしれません! 顔が好き! 声が好き! 仕草が好き! 面白いから好き! 優しいから好き! 足が速いから好き! そんな感じの」

「うん…そう、ね。そうだよね。人を好きになるっていうのはそういうことで」

「違います!」

 びしりと彼女は言い切る。その言い切りが気持ちよすぎて、思わず頬がほころぶ。

 ああ、なんて気持ちの良い子なんだ。

「理由は、好きになるための理由です! けれど、私の気持ちに理由はいりません! 私の気持ちに「かも」はない! 好き! だから理由はありません! 好きです!」

 完敗だった。


「好きです杉本先輩! 私と付き合ってください!」


 断れる男なんか、この世にいるのか。

「…あの、僕なんかでいいなら…その、えっと…お、お願いします」

 握った手は小さくて華奢で、柔らかくて温かかった。

「うぅぅぅ…」

 唸り声が聞こえ、ぱっと手が離れた。というか彼女がその場に崩れ落ちた。

「ちょ…」

「うぅぅぅ、うぅぅぅ、うぅぅぅ」

 俯いたまま岬奈々は何度も唸る。

「お腹痛い?」

「…腰が抜けました」

 唖然とする僕に、彼女が顔をあげて笑う。

「凄い緊張して、へへ、凄い頑張ってたんです、実は、ここだけの話ですが」

「…」

 笑顔のまま、彼女は手を伸ばす。

「でも、頑張って良かった。えへへ、先輩」

「うん」

 握った手はさっきと同じで、華奢で柔らかくて温かい。その手が今度は、ぎゅっと強く握り返してきた。

 その手の向こう、岬奈々はとろけるような笑顔で言った。

「幸せです」

 人生で初めて彼女ができた。寒さの事も忘れていた。手のぬくもりと目に映る笑顔が世界の全てになっていた。


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