崩壊
「失礼しましたー!」。
二人組が声をそろえた。
二人の足元には、説教使がうつぶせに横たわっていた。呼吸によって上下する背中の動きは、小刻みで早かった。すでに瀕死の状態であることが知れた。低い声が、荷物のように包まれた顔から、布越しに聞こえている。
床が、擦り付けられたような血液の染みで汚れていた。数日前に受けた腹部の銃創と、数時間前の背中の切り傷から流血している。いずれも一旦手当てされていたが、二人組の暴力によって再び傷口が開いていた。
兵士たちの快い喝采を受け、二人組は恭しげに一礼する。二人の間には、マリアアリスがうなだれて座っていた。男がマリアアリスの頭を小突く。
「なんや。おんどれも笑わんかい」
マリアアリスからは、全く反応が無かった。目の前で説教使が苦しむ姿を見せ付けられ、消耗しきっていた。目に映る光景がなんなのか把握することさえ困難だった。あまりに凝縮された緊張に耐え切れなくなった意識は、亡羊とした霧の中に半ば覆われつつあった。
男が、マリアアリスの顔に膝蹴りを叩き込んだ。マリアアリスの目の前に閃光が炸裂した。つんとした痛みが鼻の奥から広がってくる。反射的に体が動いた。がたがたと震える手のひらで、鼻を覆う。血が喉に流れ込んだ。弱々しく咳き込む。丸く膨れ上がった唇から、泡立つ鮮血が流れ出した。すでにマリアアリスの前歯は、上下共に失われていた。つかのま喪失していた感覚が鮮明によみがえってきた。全身を火のようにあぶる無数の痛みが、マリアアリスを責め苛んだ。
男は説教使の体を蹴り上げた。低いうなり声が上がり、体が波打つ。先ほどまでは、床で跳ね、転げまわっていたが、出血が激しくなるに連れ、反応は次第に薄れていた。今では、わずかな身じろぎしかしない程度にまで弱っていた。
兵士たちの数人から、小さく笑声が起こった。
男は低い声で、マリアアリスへ執拗に迫る。
「わしらがおもんないっちゅうんか! これでもちょっと前までは売れとったんじゃ、ボケェ! ましもと興業の社長が脱税で死刑にされんかったら、いまでもブイブイいわしとったはずなんじゃ! なめとんか! おぉん?」
「お前もわしらのセンスが高すぎて笑われへんのんか? 今笑うところなんじゃ! ほら、笑えや! もういっぺんどつきまわすど! コラぁ!」
マリアアリスは恐怖に打たれた。袋叩きにされた時の猛烈な苦痛がまざまざと脳裡に浮かび上がる。憔悴しきった精神は、圧倒的な恐怖と記憶の前に、完全に萎縮していた。
マリアアリスの口から、奇怪にねじくれた声が、断続的に漏れた。しゃくりあげるように、肩が上下した。
「うっ、うふっ……うっ……はあっ……」
「ほらぁ! しっかりせんかいやぁ!」
マリアアリスは呼吸困難に陥ったかのように、苦しげな呼吸を繰り返した。少しでも表情を動かすごとに、激痛が走る。
「あはっ……はは……ははは……」
己の口から、放たれる引きつった笑声が、マリアアリスの胸を熱した刃のように引き裂いた。
再び、二人組は説教使を交互に蹴りつける。説教使は小さいうなり声を漏らすだけで、ほとんど動かなかった。
マリアアリスは泣き笑いのような表情で、甲高い声をあげた。
「ははっははは……あは、あはははは……!」
「やっとわしらの前衛的な(とんがった)トークの面白さが理解できたみたいやな」
マリアアリスを見ながら、二人組はさらに説教使を足で踏みにじった。マリアアリスは哄笑した。
「あはははははははははは!」
マリアアリスは不意に脳を貫く異常な爽快感に痺れた。
心の底から好きな恩師が理不尽な暴力を受けて苦悶する光景に際して、恩師をあざ笑うという異常な状況であっても、笑うという肉体を使う行為が、意識をすりつぶすような凶悪な苦痛に包囲されているという恐怖による閉塞感から、わずかに解放される瞬間を作っていたのだった。
しかし、恐怖から解放されようとする心奥からの衝動に屈し、笑い声をあげるたびにマリアアリスの自我は深く損壊していった。その亀裂は深く、深海に横たわる、もはや永遠に閉ざされる見込みのない海溝であるかのようだった。
さきほどの威嚇的な言動とは打って変わって、二人組は相好を崩し、マリアアリスに楽しげに話しかける。
「そうか! おもろいんか!」
言いながら、説教使の腹部を探り、銃創を覆う布を引き裂いた。マリアアリスに布の切れ端を誇示する。
「こんなところに穴があるわ~。わし、男の子やから、何でも入れたい年頃やねん」
言いつつ、指を傷口に差し入れた。
「むうっ……!」
不吉なうめき声とともに、意識を失っている様子だった説教使の体がうごめいた。強烈な痛覚に、本能的に体が反応しているようだった。
指を根元まで挿入し、男は激しく手を揺する。
「どうや? ええ? ええのんんか? ええのんかい?」
説教使の肉体は、制御を失った機械のように緩慢に、そして単調にギクシャクとした動きを繰り返した。
やがて男の手の動きにつれ、傷口が広がり始めた。指と傷の隙間から、長い糸のように液体が噴出した。説教使の血液だった。
二人組はけたたましく叫ぶ。
「潮吹きよったー!」
「なんでやねん!」
声と同時に、男の手がマリアアリスの髪の毛を力まかせに引っ張った。はじかれたように体が床に倒れる。
その上から、男の怒声が雷のようにマリアアリスを蹂躙した。
「笑わんかい! 我慢せんでええんじゃ!」
ひくひくと首筋を痙攣させ、マリアアリスはのどを鳴らして空気を吸う。貧弱な声が笑みの形に曲がった唇から洩れる。
「うふ……うふうふうふふ、ふうっ!」
突然、笑い声が中断する。男の足がマリアアリスの顔を踏みつけていた。そのまま体重をかけ、床に押し付ける。
「もっとドッカンドッカンこんかい! 辛気臭いんじゃ」
マリアアリスの耳に頭骨のきしむ音が聞こえた。口が丸く開き、調子の狂ったサイレンのように音を絞り出した。
「うおおおおーーーーーーーーーーーーーおおおおーーーーーー!」
見開いた目が、明るすぎる異様な光を放つ。大きく開いた口から、白く泡立った唾液が糸を引いた。
「こいつはいちいち笑いどころを教えなあかんのかい。手間がかかるのう」
男はマリアアリスの額を靴のつま先で蹴りつけた。両目を閉じ、マリアアリスは床の上で背をそらせる。唇を一文字に結び、悲鳴をこらえた。目じりに透明な涙が膨れ上がった。
「手ぇたたいて、もっと楽しそうにせえや」
「ふぅあいぃ……あはぁははははははは! あはははは、はははは!」
マリアアリスの血まみれの両手が、空中でぱちぱちと音を立てる。
「よっしゃ……ええぞ、その調子や」
「あははっ! あははっ! あははっ! あははっ! あははっ!」
マリアアリスは機械的に手をたたきながら、苦悶に顔をゆがませて笑い声をほとばしらせている。
二人組は紅潮した顔を互いに見合わせた。満足げにうなずきあう。
兵士が二人組に話しかけた。兵士たちはそろそろ見世物に飽きている様子だった。
兵:『もう終わりにしろ。司令官からそいつは殺せと命令を受けている』
兵士から渡された鉄の鎖を、二人組はしおらしくおしいただく。
「あははっ! あははっ! あははっ! あははっ! あははっ! あははっ!」
破損した機械のように、同じ調子で笑い声を出すマリアアリスの腹部を、男は乱暴に踏みにじった。
「ごえっ!」
マリアアリスの声が濁り、せわしない呼吸が唾液を泡立たせる。
二人組は、鎖を説教使の首に巻きつけ、両端をマリアアリスの手に握らせた。
「おう、これ引っ張らんかい。 早う楽にしたるんやで?」
放心した様子のマリアアリスは唯々諾々と従った。二人組はマリアアリスの手をそれぞれ片方ずつ握り、鎖を引っ張った。
説教使の背筋がのけぞった。頭を覆った布から、くぐもった声が長々と漏れた。
やにわにマリアアリスが身もだえする。金切り声を上げた。
「やめて(やべで)! センセー(ぜんぜー)を殺さないで(れ)! 代わりに、あた(だ)しを殺して(ごろじで)よ!」
二人組はマリアアリスを押さえつけた。鎖が弛み、再び説教使は床に伸びる。
「何、逆切れしとんねん! アホ! せやったらおんどれを先に殺したるわ!」
男の腕がマリアアリスの首に巻きついた。容赦無く締め上げる。息がつまり、マリアアリスは窒息の苦しみに痙攣する。口の端から血の混じった唾液が流れ出た。
「ぶおっ……!」
真っ赤に染まった視界に、黒点が乱舞する。全身を砕き散らすかのごとき轟音が耳を聾し、体中を数センチ単位に引き裂くかのように隅々まで耐え難い苦痛の電流が全身を駆け巡る。
マリアアリスは白目をむいた。失神寸前に陥る。
男が腕を離し、説教使の体の上に倒れ込んだ。
強暴な力で圧迫されてひしゃげた気管から、死に瀕した説教使の饐えた体臭と床に露出している腐敗した土の匂いが多量に混入した淀んだ空気が、充血した肺に吹き込む。
今にも落としそうになった硬貨を拾い上げるかのように、わずかに得られた酸素を奪い合った無数の細胞は、死の暗い淵からからくも賦活していった。
意識を取り戻すと同時に、耐え難い嘔吐感にさいなまれ、マリアアリスは胃の内容物を吐き出した。悪臭を放つ粘液が、教師の背中を濡らす。
わずかに上下する説教使の動きが、マリアアリスに伝わってくる。男がマリアアリスの髪の毛を掴み、上体を持ち上げた。
「センセー(ぜんぜー)……あたし(あだじ)のせいで……」
「そうや。こいつを殺すんはお前やで」
男は、マリアアリスの耳元でほくそえみながらささやく。
「こいつを殺さんと、お前を殺すど!」
マリアアリスのおびえ切り、萎縮した瞳が、迷い児のように地を右往左往する。胃から放出された粘液が、凝固して黒変した血液の上から糸を引いて滴った。
つかの間垣間見た死の暗黒に、マリアアリスは震え上がった。
ふらつくマリアアリスの両手に鎖が巻きつけられる。
「ほら、これをちゃんと引っ張るんや。そうせんと、お前が死ぬんやど?」
鎖は説教使の首に巻きつけられていた。呆然と手元を見下ろす。呼吸が極限まで早まり、視界が明滅する。
揺れるマリアアリスの頬に、男の大きなこぶしがたたきつけられる。奥歯が口腔内の粘膜をそのとがった先端で引き裂いた。傷ついた肉の間から、重い鉄の味がわき出る。ぐらぐらと基礎のゆるんだ歯が、今更のように冷や汗の出るような骨まで食い込む痛みを脈動させた。
「それでもええんか、あぁん? 死にたいんか、おい!」
再び男の太い腕がマリアアリスの首を抑え込む。
その瞬間、マリアアリスの脳髄を恐怖が白熱化させ、砂のように頼りなかった腕に信じがたいほどの力がよみがえった。
背後から気が狂わんばかりの恐慌に追い立てられ、マリアアリスは鎖を渾身の力で引いた。鎖が説教使の首を締め上げる。体をねじり、獣じみたうなり声を出した。
「センセー(ぜんぜー)! ゴメンなさい(ごべんだざい)! ゴメンなさい(ごべんだざい)!」
マリアアリスは泣き声を上げる。二人組が怒鳴りつけた。
「ほら、笑顔笑顔! 笑う角には福来る、やでえ!」
マリアアリスは正気を失ったかのように咆えた。
「えへへ! えははははは! もういやだよぉ(ぼうびやじゃよぉ)! うあはははははぁ! もういやだ(ぼういじやじゃ)! もういやだ(ぼういじやじゃ)! あははぁ!」
握りしめた手に、説教使の肉体が起こす反射運動が刻々と伝わり、焼くような痛みがマリアアリスを責めさいなむ。すでに惑乱し切った頭には、常軌を逸した感覚が引き起こした幻覚が激しく瞬いている。マリアアリスが今絞め殺そうとしているのは、説教使であり、同時に彼女自身なのだった。そう錯覚したとき、マリアアリスの腕に己に対する憎しみによってあおられた業火が充満し、さらに仮借ない力で鎖を締め上げてゆく。
説教使の体がぐっと弓なりに引きつり、不明瞭に何かつぶやいた。
マリアアリスは体をこわばらせ、聞き耳をたてた。しかし、もはや説教使の口からは何も聞こえなかった。
説教使の全身が細かく震え、しおれるように力を失い、床に横たわった。
「あーあ、殺ってもうたわ。お前は大恩のある、しかも外次元の方を自分の手で殺したんやど。なんちゅう最低な人間なんや」
「しかも楽しそうに笑いながらなあ! お前はもう人間やない。悪魔や」
男の言葉を聞いたマリアアリスの背中に悪寒が走った。頭が割れるように痛む。あまりの苦痛に、マリアアリスの意識は急速に蒸発した。早鐘のように打ち続けている心臓が過熱し、不規則にがたつく。半ば意識を失ったマリアアリスは、説教使の死体に突っ伏した。
二人組はマリアアリスの体にのしかかる。
「あかん、わしもうガマンできひんわ。ちょっとこいつで抜いてええ? わし、しばくん前戯やから、流れで立ってもうてん」
「なんや! わしが先やど! 兄貴に譲らんかい!」
兵:『おいおい! こいつは司令官殿の持ち物だぞ! 勝手に交尾するな!』
もみ合う二人を、兵士が殴打した。二人組は壁に叩きつけられる。激痛に耐えかねたかのように、声も出せずに床に這った。
兵:『しょうがないな、下等人種は。ガマンできないのか』
「ぐうぅおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「ごるぁああああああああああああああああああああああ!」
苦悶から立ち直った二人は、猛然と怒号を上げた。突然、互いに飛び掛り、激しく殴りあう。飼い犬の集団が主人から暴力を受けた際に、主人に反抗することができず仲間の犬へ鬱憤を向け、噛み合うという行為に酷似していた。
あっけにとられていた兵士たちは、血相を変えて取っ組み合う二人組を見て、大爆笑した。
毒液が沸騰しているかのような周囲の喧騒に囲まれ、マリアアリスはただ一人で無感覚の泥濘へ沈み込んでいった。




