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回心

暗中に、せわしない呼吸音が聞こえる。

ざくざくと砂をえぐっていた足音が止まった。いっそう激しくなった呼吸音が、夜闇の中に消えてゆく。

青い月が静かに砂漠を照らしていた。時間が止まったかのように静まり返った広大な砂漠にたった一人、フィオナナンシーは冷たい砂の上に座り込んでいる。

肩を上下させ、必死に呼吸を繰り返す。外気に触れた息が白く凍った。膝を着いた地面に生じつつあった霜が音を立てた。

川辺で兵士たちに捕縛されそうになってから、着の身着のままで逃げ、身につけているのは制服のみだった。全身から噴出した汗がが蒸気となって立ち上っていた。湿った制服から、体温が急速に奪われ、フィオナナンシーはがたがたと体を震わせた。夜間は急激に温度が下がるため、唐突に体を苛む震えが寒気によるものだということがつかの間わからなかった。震えを止めようと両手で体を抱く。

金色の瞳を大きく見開き、青い月を見上げる。冷厳と光を放つ衛星は、内臓が透けて見えているかような、不気味な影を円形の光の中に浮かび上がらせている。呆然と空を仰ぐ双眸に、涙が盛り上がった。ひび割れた唇を噛む。巨大で醜怪なミジンコのように浮かぶ月から、目をそむけた。

「お姉ちゃん……」

フィオナナンシーの頭の中には、焦燥と疑問が渦巻いていた。なぜ自分の命が危険にさらされねばならないのか。自分は幸福に生きると決め、常に自分を第一に考え、行動してきたはずだったのに、なぜ抜き差しならない窮地に陥っているのか。なぜ異郷の荒野でたった一人、寒さに震え、暗闇に脅えなければならないのか。なぜ姉は今の自分を救ってくれないのか。

川底を埋めていた無数の骨片が想起された。透明な流水の下にただうずもれる白いカケラ。切っ先さえ丸く磨耗し、踏みつける者に対してわずかな痛みを与える術も無い。薄っぺらい小さな物体は砕けて砂へと還元される。

強烈な太陽の光をいっぱいに浮かべた川面に、ゆっくりと漂う身体。丸々と太っているかのように膨れ上がり、判で押したように似たり寄ったりの奇妙なポーズで、まるで群れ集うように広い河の、決まった場所にいくつも集まっている。そして――ああ、許して欲しい――全身を使って、驚きという気持ちを渾身でもって表現してみましたとでも言うような、姿……醜悪で、そしてなにより、滑稽そのものの格好で、オモチャのようにどうしてそんなに無邪気に揺れているのか。

背中を槍に貫かれ、前のめりに砂の上を転がる現地人。全身に粉をまぶしたような有様は、バラエティ番組でおおげさにはしゃぐタレントの罰ゲームのようだった。違うのは、現地人は大量の血液を垂れ流しているところだった。あんなに血がいっぱい出てるのに、致命傷でなければ結構動けるんだね、感心するよ、ほんとに。ごろごろのたうちまわった挙句、少し弱まって、ぺたぺたと手足で地面を叩いて……食いしばった歯が赤くなって、真っ赤な血が口からたらたらと流れる。苦悶の表情を貼り付けて横たわっていた死体が、しばらくしてみると、不思議なことにまるで無心で眠っているような穏やかな顔になっていた。いくつもいくつも、傷の場所でしか区別がつかない同じような現地人の死体が累々並ぶ。

起きたら、何も覚えていない。覚えていたら、あまりにも怖すぎるから。普通に息もできなくなるから。ひっそり呼吸を潜めて目を覚ます。夢の中で追いかけられていたから。夢の中に、XXXXという名前のオヤジが仕返しにやってきてるから。奴は殺されたことを恨みに思っていまだに夢の中で追いかけてくるから。腕力ではかなわないから、必死に逃げる。時々捕まりそうになる。そのたび、カラダをエサにして首を絞めたり、ナイフで刺したりして、結局オヤジをまた殺す。でも奴は何度も立ち上がる。そして目がさめたら、逃げ切ったことになる。でも起きた瞬間、夢の内容は全部忘れる。ただ、まるでヘドロでも飲み込んだような、嫌な気分になってる。

ホテルの部屋から出たとき、人が集まっているドアから見えた数人の首つりは足が六本見えてた。二人靴下で、一人がストッキングだった。知り合いが高層ビルから飛び降りた後、落ちたらしい場所のアスファルトにちょっとだけ黒っぽいのが残ってたのは、血のシミと思う。甲高いブレーキ音といっしょに、どっすん、という鈍い音がして、道路をずずーって滑ってるの見たけど、カーリングのストーンっぽかった。

ベッドがぎぎって音を出して、飛び上がるように驚いたあの夜。心臓がものすごい勢いでどきどきどきどき鳴って、頭が火を吹きそうにかっかしていた。でもクールな部分もちょっとだけ残ってて、きっちりと死んでるかどうかチェックした。息なし。脈なし。鼓動なし。床とかお風呂から髪の毛とかをきちんと掃除して、ついでにサイフからお金を抜いて……あっはっはっはっはっは! やってやった! やってやったよ! よかった、これで終わったよ、お姉ちゃん、終わったからね、安心してね、もう大丈夫だよ、わたしも忘れるよ、XXXXって名前は、だからもう戻ってきてもいいんだよ……。

すごく背の高いおっさんが連れてきた部屋は真っ白だった。おなかが痛かったけど、誰も言う人がいない。ガマンして平気そうにした。ベッドに寝ている人がお姉ちゃんかどうか見てくれって言われた。おっさんは布をどけて、シーツを半分くらいどけた。寝ている人のおっぱいが見えて恥ずかしかった。顔の下半分とか、首とかがすごい真っ黒の模様みたいになってて、気持ち悪かった。口がちょっと開いてて、歯が見えてた。寝てる人は、お姉ちゃんじゃなかった。お姉ちゃんよりオバサンだし、髪型も全然違う。おっさんは笑いながらじろじろおっぱいを見てる。バカだな、このジジイ。違うって言うと、お姉ちゃんのケータイとカードケースを見せてきた。それはお姉ちゃんのだった。何日か前、お姉ちゃんは出かける時に、今月はもうお金がないから、XXXXっていうカレシと会うって言ってたのを思い出した。おっさんに教えてやった。たぶんそいつだろ、みたいなことを言った。それから、お姉ちゃんはもう帰ってこなくて、寂しかった。お姉ちゃんの置いていった化粧とか使って、お姉ちゃんそっくりにしてみた。そしたら、お姉ちゃんが自分と一緒にいるみたいだった……。

フィオナナンシーは額に鋭い痛みを感じた。

正座するような体勢で、地面に突っ伏していた。両手を地面につこうとする。驚いたことに、体がなかなか自由に動かなかった。のろのろと氷のように冷え切った砂に手のひらを押し当て、数十倍にも増えたかのような重い体を起こす。

フィオナナンシーは唐突に気がついた。

かつて目にした屍の一つ一つが、死の一回一回が、寒さにおののく自分自身と全く変わらない存在なのだった。まるでドラマを見るようにどこかから現れ、どこかへ消えてゆく一人一人が、それぞれに過去を持ち、さまざまな感情や思考を抱えながら生きてきた同じ存在だと思い至った。

自分の手の届く範囲が世界の全てだという認識が崩壊した。実際は、自分の存在する世の中は、とうてい把握しきれないほど広大で、無数の人間が自分自身の考えで闇雲に蠢く混沌の渦だった。厖大な不可知の領域が存在するという認識が、本能的な恐れを呼び覚ました。周囲の闇が押し潰そうと迫ってくるかのような錯覚に脅える。

同時に、充分注意したつもりで苦境におちいった自分自身への信頼も霧散した。この先、どのようにして生きていけばいいのか、全くわからなくなった。

海原の真っ只中に投げ出されて必死にもがくかのようだったフィオナナンシーは、命綱を探り当てた。

――そうだ! 守だ! センセーがこの世界は守さまが全て創ったって言ってた、全て守さまの思い通りに動いてるって言ってた、守さまにすがればきっと救ってくれるって言ってた!

希望を得たフィオナナンシーの肉体の深奥に、生命の全身の感覚を鈍磨させる倦怠を振り払い、フィオナナンシーは立ち上がった。


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