後編
「先輩、手伝います。先輩だけじゃ、時間がかかり過ぎちゃいますから」
そういって、彼女は部屋の中へ入ってくると、机を挟んで、僕の前に座った。
「う、うん。それじゃあ、これだけやって」
僕は、残りのアンケートの中から、素早く三分の一ぐらいをつかんで、渡した。
「はい。帰るまでに、やってしまいますね」
彼女はそういうと、カバンの中から鉛筆をとりだして、仕事を始めた。
僕も、まあ、いいか、と思いながら、仕事に取りかかった。
ところが、この日、彼女はいつもと違って、無口だった。
ほとんど何も話さずに、黙々と、という感じで資料に向かっていた。
僕としても、話しかけられない方が、仕事はやりやすかったのだが、何かもの足りず、
しばし手を休めて、彼女に何か話しかけようか、などと考えたりした。
そして、そんなとき、ふと、あの一学期最後の日、帰りに中村がいった言葉を思い出したりした。
別に深い意味もなしに。
その日は、下校時間になっても、やはり彼女が何も言わないので、
「もう、やめようか」と声をかけようと思ったのだが、彼女が帰りまでに終わらせるといったこともあって、かけづらく、結局だいぶ帰るのが遅くなってしまった。
僕と彼女は、薄暗くなりかけた道を一緒に帰った。彼女はその時も無口だった。
「どうしたんだろう?何かあったのかな?」
と、僕が思っていたとき、彼女が、つと足を止めて、小さい声でいった。
「富先輩、好きな人、いるんですか?」
僕は、何と答えていいのか解らず、彼女の方を見た。
うつむいていたはずの彼女は、いつの間にか僕の方を見つめていた。
「西岡さん、どうして、そんな……」
そういいながら僕は、
なにいってるんだ。どうしてって、分かってるじゃないか。
という気持ちと、
いや、そんなことはない。
という気持ちが交差して、それ以上何も言えなくなった。
ふっと、彼女は顔を伏せて、そのまま走り出してしまった。
そして、夕暮れの中に消えていった。
僕は、追わなかった。それを考えられなかった。頭の中には、いろいろな想いが反響し合っていた。
彼女は僕のことを好いていてくれるのだろうか。
中村が言ったように。そうなのだろうか。こんな僕を。
もしそうだとしても、彼女は、あまりにも僕にとって良すぎる人だ。あまりにも……。
それに、僕の気持ちはどうなんだろう?僕の気持ちは?
好きだなんて考えたこともなかったし、思いもしなかった。
だけど、彼女といると自然と心が安まったのは、なぜなんだろう?
あの日、彼女を副委員長に指名したのは、なぜだったのだろう?
そしてあの時、彼女を見ていると胸がドキドキしたのは、
今日、彼女に話しかけたかったのは、なぜだったのだろう?
好きだったんじゃ……ずーと、そうだったんじゃないだろうか。
ずーと。
式は終わりに近づいていた。在校生達の歌声が響いていた。
僕は、ますます重く心の中でつぶやいていた。
持たなくてもいい劣等意識だったのに。もっと、勇気を出せば良かったのに。
なぜ、こんなに弱気だったんだろうか?
なぜ、一言いえなかったのだろうか?
それから僕は、図書室へ行きづらくなった。
彼女と顔を合わせたくないような気がした。恥ずかしかったのだ。
彼女も同じだったのだろうか?
時に一緒になっても、以前ほど気楽には話さなかった。
そんな中で、僕は、まだ迷っていた。
彼女が好いてくれているのだろうか?
そして、自分は本当に彼女のことが好きなのだろうか?
僕は、彼女にはつり合わないんじゃないだろうか?と。
そんな息詰まる思いに耐えかねて、僕は、中村に相談することにした。
「なんだい、相談って?」
校庭の隅の木にもたれながら、彼がいった。
「うん。あのな、中村」
「なんだい。早くいえよ。言いづらいことか?」
確かに言いづらかった。言葉が出てこなかった。
「あの〜、西岡さんのことなんだけど………」
彼がにやっとした。そうして、僕から目をそらし校庭の方を向いて、こういった。
「やっと、気がついたみたいだな、おまえ。彼女の気持ちが分かっただろう」
僕は、彼を見つめて頼むような気持ちでいった。
「本当にそう思うか?彼女が想ってくれていると。」
「ああ、思うよ。ずっと前からな。ずーと前から彼女は見ていたよ」
僕は信じられない気がしたが、しかし、また、こんな事を言ってしまった。
「それじゃあ、僕は彼女のことを好きなんだろうか?」
「なんだい、それ。自分の事じゃないか」
彼は、僕の方を向いていった。けれど、僕はうつむいてしまった。本当に、分からなかったから。
何も言わない僕を見て彼はいった。
「なあ、富。おまえ、特にこういうことには疎いのかも知れないが、俺が見ていた限りじゃ、おまえの方が、彼女をより好きなんだっていう気がする。彼女といるときのおまえは、生き生きしているよ」
そういわれたとき、僕は、胸の中が熱く火照って、締め付けられるような気になった。
ああ、好きなんだ。本当は、ずっと前から好きだったんだ。
そんな気持ちが、胸一杯に広がり、声が出なかった。うつむいたまま、肩が震えた。彼が言った。
「な、そうだろう、富」
「うん。ありがとう、中村」
僕はそういって、やっと彼を見上げた。
その様子を見ていた彼がしばらくして、また目を校庭に移して言った。
「富、これから、どうするんだ?」
「え?」
僕はまだ熱い胸で答えた。
「このまま卒業しちゃうつもりか?彼女が好きなら、一言うち明けろよ」
「う、うん」
僕はとまどった。そして、また、あの劣等感がよみがえってくるのを感じた。
「彼女はたぶん待っているんだ。おまえが気づいてくれるのを。そして、おまえの言葉を。今のままじゃ、いずれ別れてしまうぞ。卒業まで、もう半年もないんだ」
「う、うん……」
けれど、僕の心の中では、やはりあの劣等感が、急速に大きくなっていった。
彼女のことが好きだけど、本当に好きだけど、でも、彼女は僕にとって、あまりにもいい人なんだ。
僕なんかじゃつり合わない。僕なんかじゃ。
そうこうするうちに、やがて二学期が終わった。
言い出そうとしたこともあったのだが、やはりあの劣等感と、そして、僕の気の弱さのために、そうすることはできなかった。
彼女とも話しづらく、一緒にいると気まずくなってしまうこともあった。
三学期になると、もう、図書室へは足を運ぶ暇もなくなった。
入試勉強に追われ、夜も遅くなった。
そんな夜、もう薄らいできた空のあたりを見つめて、やはり、彼女のことを考えたりした。
そのたびに、自分の気の弱さと、決断力のなさに打ちひしがれるのだった。
式はすでに終わっていた。
僕たち卒業生は、在校生である二年生に見送られて、校舎から校門へと向かっていた。
雨は、やはり、しとしとと降り続き、僕たちは傘を差して歩いていた。
僕は、今日まで、やはり、なにも言うことはできなかった。
忙しさにまかせ、彼女を見ることすらなくなっていた。
心と同じように、重い足取りで僕はうつむいて歩いていた。
彼女を見たくなかった。
顔を合わせれば、また、何もいえない自己嫌悪が重くのしかかり、
僕の心を押しつぶしてしまいそうな気がした。
二年生が、思い思いに花束を手渡していた。
と、誰かが僕の傘の中へ飛び込んできた。
「富先輩、これ」
西岡さんだった。
彼女は手にした五本の赤いカーネーションを僕に差し出した。
僕は、彼女から目をそらそうとしたが、しかし、できなかった。
カーネーションを受け取ったとき、彼女が僕の目を見つめていった。
「先輩。わたし、好きだったんです。本当に、先輩が好きだったんです」
僕は、何か心から重い物がスーと抜けていくような気持ちで、こういった。
「僕も、好きだったんだ。君のことが…」
彼女は顔を赤らめて、スッと、傘の外へ出た。
「先輩、試験がんばってくださいね。元気でいてくださいね」
彼女は少し笑いながらそういうと、道の両側で見送っている多くの二年生の中に消えていった。
僕は、ふたたび歩き始めた。足取りは、びっくりするほど軽くなっていた。
心は、今まで占めていたものがすっかりなくなって、空虚に広がっているようだった。
そんな心で、僕は考えていた。
西岡さんとは、やっぱりこれで、お別れだろう。
だけど、彼女の姿は、僕の心の中で、光っていてくれる。
さっきまで重く沈んでいた記憶が、今は輝いている。
ありがとう、西岡さん。
僕は君にあこがれたまま、けれど、振り返らずに歩いていける。
さようなら……。
多くの卒業生とともに、僕は、手にした五本のカーネーションを握りしめ、校門を後にした。
おわり