前編
雨は静かに降りそそぎ、式は厳かに進んでいた。その中で僕は、
これでいいのだろうか?
このまま卒業していいのだろうか?
とくり返し問い続けていた。
静寂の中で、焦りと自己嫌悪が目に見えない糸に引かれて、僕を縛り付け、
目の前の出来事は、自分とは関係のない世界のように動いていく。
意識は、あの日へ、あの時へ戻っていた。
春だった。そう、ちょうど一年前の春だった。
図書館では、前期の委員長と、副委員長の選出会議をしていた。
「それじゃあ、僕でいいんですね、委員長は?」
昨年の後期から委員長をやらされていた僕は、またもや推薦で、委員長にあげられていた。
しかし、僕としては、辞めたかった。
昨年は行きがかり上、前任の委員長の推薦で嫌々引き受けたのだが、
引っ込み思案で、内気な僕にとって、こういった仕事は苦痛だった。
「富君。じゃあ、君、委員長決定だね」
係の先生が言った。
「あ、はい。じゃあ、やります」
僕はあきらめて答えた。
「富先輩!がんばってくださいね」
一人の少女が声をかけた。僕はその子の方を向いていった。
「西岡さん、副委員長、君がやってね。僕を委員長に押し立てた、バツだよ」
「そんなあ、先輩。今年はやめさせてくださいよ」
「ダメ。委員長権限!」
実を言うと、彼女は昨年もやっぱり副委員長をしてくれていて、
内面的に内気な僕が、何とかやっていけたのも、彼女が手伝ってくれたからなのだ。
外面的には、しっかり見えて、そのくせ気の弱い僕に比べて、
彼女は本当にしっかりしていて、時には、逆に引っ張られることも多かった。
僕が委員長をやる以上、やはり彼女に手伝ってもらわなければ、ダメだと思った。
「また先輩とやるんですか?私、先輩とやると、肩凝るんです。やたら仕事が多いから」
「それ、嫌み?西岡さん」
委員達の笑いが部屋に響いた。
静寂は、やはり重くのしかかり、次々に呼ばれていく名前は、いったい誰の名前なのか、見当さえつかなかった。
僕は、もう、そんなことは少しも気にとめず、一心にあの時をたどっていた。
春は瞬く間に過ぎ、校庭には初夏が来ていた。
委員長になった僕は、しかし、その一学期間を、ほとんど図書館の方へは行かなかった。
一学期には、ほとんど何も行事らしき物がなかったこともあるが、
それよりも、やはり三年になって、何かと忙しかったからだ。
二年の時には、放課後になると、決まって図書室へ足を運び、委員達と雑談して過ごしたものだが、この一学期には、ほとんどそういうこともなかった。
だから、図書のことは、全て西岡さんにまかせっきりだった。
すまないとは思っていたのだが、反面、図書のことを忘れていたようにも思う。
一学期最後の日。僕は実に久しぶりに図書室へ行くことにした。
その日は、一学期に貸し出した本の最後の返却と、夏休み中の貸し出しの受付をする日だった。
多分、こんな日ぐらい顔を出さなければという気持ちだったのだろう。
僕は、足早に図書室へ行った。
着いたとき、まだ誰も来ていなかった。
僕は戸を開いて、中へ入った。
そのとたん、僕は、そこに立ちすくんでしまった。
長い間来なかった図書室が、僕を待っていてくれて、何か、さそっているような気がした。
懐かしい部屋の隅々の、一年から委員をしている僕の思い出が、ゆらゆらと揺れて、そこかしこの本棚が、目にしみてきた。
学校生活のほぼ半分を過ごしたこの部屋が、何か、ものすごく貴重なものに思えた。
そして、一学期の間、訪れなかったことが、あたかも、自分の大切にしていたものを失ってしまって、取り返しのつかないことのように感じられた。
僕は、歩き出そうと思った。失った時を取り戻すために、歩き出そうと思った。
と、その時。ポンッと肩をたたかれた。
驚いて振り返ると、そこに、彼女、西岡さんが立っていた。
「お久しゅう、先輩。どうしてたんですか?」
彼女がはずんだ声で言った。
「え、うん、ちょっとね」
僕は慌てて答えた。
「長い間、来てくださらなかったですね」
「うん。そうだね」
「先輩、もっと図書室に顔出してくださいね。みんな、富先輩がいないとさびしいなんて言ってますから」
彼女が僕を見つめて、いやに真剣に言うものだから、僕は、こう言ってしまった。
「うん、そうするよ。僕もここに来ないとさびしいから」
それは、半ば本心だった。さっき、この部屋に入ったとき感じた感覚は、まだ強く残っていた。
それに、彼女を見つめていると、胸がドキドキしてきて、僕は目をそらしてしまった。
そして、部屋の中へ、歩を進めた。
さっきの感覚が、まだ残っているんだなあと思いながら。
図書の委員なんていうのは、みんな、さぼることが多いのだけど、この日やってきたのは、僕と、彼女の他には、中村という僕の親友だけだった。
この日は、時間が少ない上に、一学期最後なので、利用する人が多くて忙しかった。
加えて、僕は長いこと貸し出し事務をやっていなかったので、時々間違えそうになって、手間取ってしまった。
「富先輩、本当に、もうちょっと来てくださいよね。それじゃあ、委員長だって威張れませんよ」
彼女が笑いながら言った。
「図書の委員長なんて、どっちにしても威張れんもんな〜、富」
中村が、すかさず口を入れた。
「そう、そう、名前だけで、要するに雑用係みたいなものだね」
僕も言い返した。
こういった冗談の言い合いは、図書室にいるとしょっちゅうなのだが、
さすがに僕には、このときは懐かしく、かつ、心安まる気持ちがした。
その日は、図書室を締めて、途中まで3人で帰った。
西岡さんと途中で別れた後、僕と中村は、ゆっくり歩きながら、夏休み中の勉強や高校入試のことなどを話し合った。
そして、別れるとき、ふと、彼が、こんな事を言った。
「富、おまえ、西岡さんのことを大切にしろよ」
「え、なんだい、それ?どうして……」
僕は突然のことに驚いて、答えられなかった。
「多分、彼女、おまえのことが…」
中村が言いかけた。僕はその続きが解ったので、慌ててさえぎった。
「そんなこと無いよ。僕なんかに……」
「まあ、いいさ。じゃあな、富。休み中さぼるなよ」
彼はもどかしそうな口調でそういって、自分の道の方へ歩いていった。
僕は、しばらく歩き出すこともせずに、
「そんなことはない」
と、くり返し、彼の言葉をうち消していた。
ああ、なぜ、あの時、肯定しなかったのだろう?
気にとめなかったのだろう?
僕は、重く沈んだ心で考えていた。
あの時、気づいていれば、もっと時間があったのに。
もっと余裕があったのに。
僕の内気な心でも、決心するだけの時間があったかも知れないのに……。
式の続く講堂には、雨音だけが響いていた。
けれど、夏休みは、そんなほんの些細な一言を忘れさすには、十分長く、
おまけに、僕らは悲しき受験生のために、勉強に追いやられてしまった。
四十日の休みは、わずかな蝉の音だけを印象に残し、過ぎ去っていった。
二学期。僕は言葉通り、図書室へ足を運ぶことが多くなった。
休みの間、みっちりやった余裕も少しはあったのだ。
それと共に、何か図書の活動の方もやっておきたいという気持ちになっていた。
昨年は、新聞などを発行し、アンケートをとったりしていたのだが、
今年は、一学期の間、何もしていなかった。
こういう発行物は、主に、僕と中村とでいつも書いていて、
委員には、後のアンケートの集計などを手伝ってもらうだけだったので、
一学期には誰も発行していなかったからだ。
僕はすぐに、アンケートを作成し、遅ればせながら第一号として発行した。
回収は、各クラスの委員がしてくれる。
そして、クラスごとに一応の集計を出してもらって、後で僕らがそれを見直し傾向などを調べて、ふたたび新聞などで発表する。
これが、実に、一人でやるときつい仕事なのだが、僕はその時、いっそ一人でやろうと思っていた。やはり、一学期間、何もしなかった反省と後悔の気持ちがあった。
けれど、中村が半分やってやると言ってくれたので、僕は感謝しながら、三分の一ほど渡した。
「じゃあ、富。おれ、もう帰るから。これだけ明日までにやってきてやるよ」
彼は、図書室の椅子から立ち上がった。
「ああ、ありがとう。僕はもう少しやってしまってから帰るよ」
彼は机の上に載せられてあるアンケートを束にして手に取り、部屋から出ていった。
「さて、下校時間まで、やれるとこまでやるか」
僕はそうつぶやいて、ふたたびアンケートと資料に取りかかった。
しばらくして、背後で人の気配を感じた。僕は、中村だろうと思って、
「中村か?何か、忘れもんでもしたのか?」
そういって振り返った。
けれど、そこにいたのは、彼ではなかった。
「富先輩。手伝いましょうか?」
「あ、西岡さん」
彼女だったのだ。
白い手提げカバンをもって、ドアのところで、のぞき込んでいた。




