冥府の役人 小野篁(五)
三人目の巫女から呪詛の正体を聞き出した篁は、夜が明けるよりも早く冥府を後にした。
急いで地上へ戻ったのには、理由がある。
橘宗成に付き添う倶生神から話を聞くためだった。
倶生神とは、冥府の使いで人とともに生まれ、その者の左右の肩にあって、一生の善悪を記録する二柱の神である。
人が死ねば、その記録は閻魔王の裁きに用いられる。
人の目を欺くことはできても、倶生神の目を逃れることはできない。
宗成が誰にも語らずにいる行いも、この二神は見届けているはずだった。
冥府の役人である篁にとっては、嘘をつく人間よりもよほど頼りになる証人である。
ただし、一つ厄介なことがあった。
生きている者に付き添う倶生神を、篁の術で呼び出して話を聞けるのは、その者が眠っていたり活動をしていない間だけだった。
夜が明け、宗成が目を覚ましてしまえば、その機会を失う。
だからこそ、篁は冥府から急いで戻ってきたのである。
まだ闇の残る刻。
篁は橘宗成の屋敷へ霊の姿となって赴き、眠る老人の枕元で、左右の肩に付き添う倶生神を呼び出した。
そして尋ねた。
「橘宗成は、なぜ呪詛をおこなっている?」
二柱のうち、宗成の悪行を記していた神が答えた。
その言葉によって、ようやく事件の奥に隠されていたものが明らかになった。
すべての始まりは、宗成の孫娘だった。
妻に先立たれ、息子夫婦にも先立たれた宗成にとって、たった一人残された孫娘は、何ものにも代え難い存在だった。
その孫娘に目をつけたのが呪詛する相手である公達藤原兼季だった。
兼季は娘に言い寄った。
しかし、娘はそれを拒んだ。
自分になびかぬ女がいる。
ただそれだけのことが、兼季には許せなかった。
己の思い通りにならぬことに腹を立てた兼季は散々に嫌がらせをして、孫娘を自死に追いやったのだという。
宗成に残された最後の肉親は、それでこの世からいなくなった。
「それで、巫女を呼んだのか」
篁が尋ねる。
倶生神は答えた。
初めから宗成が巫女を殺そうとしていたわけではなかった。
ただ、もう一度だけ孫娘と話したかった。
声を聞きたかった。
なぜ死を選ばねばならなかったのか。
何か言い残したことはなかったのか。
それを知りたくて、死者を呼び戻せるという巫女を屋敷へ招いた。
だが、その巫女に霊力などなかった。
死者の言葉を聞いたふりをして、遺された者から銭を取るだけの偽物だった。
宗成は騙された。
それでも諦めきれず、別の巫女を頼った。
だが、二人目も同じだった。
孫娘を失った悲しみにつけ込み、もっともらしい言葉を並べて銭を取る。
それを知った宗成の悲しみは、やがて怒りへ変わった。
そして――巫女を殺した。
だが、宗成の凶行はそこで終わらなかった。
橘宗成の家には、古くから呪いや祈祷について多少の心得が伝わっていた。
宗成は思いついてしまったのだ。
殺した巫女の亡骸を、ただ捨てるのではなく――贄として使えばよい、と。
すべてを奪った藤原兼季を呪い殺すために。
こうして宗成は、兼季の屋敷を四方から囲む呪詛を始めた。
一人。
また一人。
殺した巫女を贄として置き、呪詛の言葉と方角を記した紙を残していった。
そして三人目の巫女に至っては、もはや口寄せを頼むためですらなかった。
最初から、贄にするために呼び寄せたのだ。
「では、最後の一人は」
篁が問う。
倶生神は答えた。
次の満月の夜。
藤原兼季の屋敷から見て西にあたる場所。
最後の巫女を殺し、贄として捧げる。
東西南北、四つの贄が揃えば呪詛は完成する。
藤原兼季は死ぬ――。
「……そういうことか」
篁は倶生神を見つめた。
これで必要なことは、すべて分かった。
だが、倶生神の記録は冥府の裁きに用いるもの。
その言葉もまた、人の世では証にならない。
ならば――。
人の世で、証を押さえるしかない。
そして、満月の夜が来た。
篁は数人の下役を連れ、橘宗成の屋敷が見える場所に身を潜めていた。
夜空には、雲ひとつない。
白い満月が、都を冷たく照らしている。
篁は黙ったまま屋敷を見つめていた。
やがて――。
屋敷の門が、静かに開いた。
一人の老人が姿を現す。
橘宗成だった。
篁は暗がりの中で、わずかに目を細めた。
「さて……」
宗成はまだ知らない。
今宵、自らが仕掛けた呪詛が完成することはない。
そして篁は、下役たちに小さく合図した。
◇
篁たちが闇の中で橘宗成の屋敷を見張り始めてから、しばらく経った頃だった。
一台の牛車が屋敷の門をくぐった。
篁は黙ってその様子を見つめていた。
こんな夜更けに訪ねてくる者。
しかも、今宵は満月。
倶生神から聞き出した話が正しければ、宗成が最後の贄を用意する夜である。
おそらく、あの牛車には巫女が乗っている。
篁は下役たちに目配せした。
「まだだ」
ここで踏み込んでも、宗成が巫女を屋敷へ招いただけだと言い張れば、それまでだった。
確かな証が必要だった。
やがて――。
「きゃああっ!」
女の悲鳴が、静まり返った夜の屋敷から響いた。
篁の目つきが変わった。
「行くぞ!」
その声と同時に、篁は下役たちを率いて屋敷へ乗り込んだ。
突然現れた検非違使たちに、屋敷の家人は騒然となった。
抵抗しようとする者もいたが、篁たちは次々と取り押さえていく。
そして屋敷の奥。
そこには、刃物を手にした橘宗成と、その家人たちがいた。
傍らには一人の女が倒れている。
やはり巫女だった。
すでに傷を負っていたものの、幸い命に別状はなかった。
「橘宗成」
篁は老人を見据えた。
「これまでだ」
宗成は何も答えなかった。
手にしていた刃物が、力なく床へ落ちた。
こうして橘宗成と、犯行に加担した家人たちは捕らえられた。
◇
その後の取り調べで、宗成はこれまでの巫女殺しについて自白した。
殺した巫女を贄として使い、藤原兼季を呪い殺そうとしていたことも認めた。
そして篁は、宗成自身の口から、なぜそこまで兼季を憎んでいたのかを聞くことになった。
「兼季が……きっと孫娘を死に追いやったのだ。元々、あの男には悪い評判がある」
宗成は、うつむいたまま語った。
藤原兼季は宗成の孫娘に言い寄った。
だが、娘はそれを拒んだ。
己になびかなかった。
ただそれだけの理由で、兼季は娘を死へと追いやったのだという。
妻を失い、息子夫婦を失い、最後に残った孫娘まで奪われた。
宗成は、もう一度だけ孫娘と話したいと巫女に縋った。
だが、そこでさらに偽りの口寄せに騙された。
悲しみが怒りへ変わり、怒りが殺意へ変わった。
そして最後には、何の関わりもない巫女まで殺して、兼季を呪い殺そうとした。
宗成の罪が消えるわけではない。
だが――。
篁には、もう一つ確かめなければならないことができた。
「藤原兼季について調べろ」
篁は下役にそう命じようとした。
ところが、それを聞いた上役たちの反応は芳しくなかった。
「待て」
「何でしょう?」
「橘宗成の孫娘を、藤原兼季が死に追いやったという証はあるのか」
「今のところは…」
「ないのであろう」
篁は黙った。
「宗成は人を三人も殺した罪人。そのような者の言葉だけをもって、藤原の公達を調べるわけにはいかぬ」
さらに別の者が口を挟んだ。
「兼季殿は傍流とはいえ、藤原北家の流れを汲むお方だ。下手に騒ぎ立てれば、こちらが面倒なことになる」
篁の眉がわずかに動いた。
証がない。
それは確かだった。
だが、その言葉の裏側にあるものも、篁には分かっていた。
藤原兼季だからだ。
相手が名もなき者ならば、同じ扱いをしただろうか。
篁は何も言わなかった。
結局、橘宗成による巫女殺しは解決したものの、藤原兼季と宗成の孫娘を巡る一件については、それ以上調べられることなく、うやむやにされることとなった。
◇
数日後。
篁は一人、都を歩いていた。
向かう先は決まっている。
藤原兼季の屋敷だった。
検非違使として調べることは許されなかった。
ならば、これは検非違使の仕事ではない。
「さて……」
篁は遠くに見えてきた屋敷を眺めた。
「どのような男か、顔くらい見ておくとするか」
そして篁は、誰にも告げることなく藤原兼季の屋敷へと向かった。




