第89話 うたかた
それからというもの、夕鈴はたびたび中庭にやって来た。彼女の姿を見るたび、言いようのない嬉しさが込み上げてくる。楓也にとって、その非日常的で特別な時間はいつしか生き甲斐となり、かけがえのない宝ものに変わっていた。
「こんにちは、青波くん」
「あ、押垂さん!」
今日も変わらぬ調子で夕鈴との談笑が始まる。ベンチに座り、色々な話をした。願わくば、この楽しいひとときがもっと続けば――楓也は一度断られてしまったものの、再び部活への勧誘を試してみることにした。すっかり打ち解けた今なら、あるいはと思ったのだ。しかし期待とは裏腹に、彼女は困ったような顔をした。
「! ごめん、しつこかったよね」
「ううん! そんなことは……!」
「いや、本当にごめん。……ぼくさ。立場上、顔は広いけど……ちゃんと対等に話してくれる人って全然いなくって。押垂さんはいつも自然体で接してくれるから、なんだかそれがとても嬉しくて、楽しくて……ついまた誘っちゃったんだ」
「……そうだったんだ。ありがとう青波くん。わたしもね、ここはたくさんのあったかい心があるから、すっごく気が紛れるの。まるで昔に戻ったみたいで、居心地もよくて。だから楽しいって思っているのはわたしも同じだよ」
そう言ってほほえむ夕鈴の横顔は、どこか儚げに見える。
心? 昔に戻ったみたい?
わからない点はたくさんあるが、楓也は遮らずに彼女の言葉を聞き届けた。
「でもやっぱり、わたしには……やらなきゃいけないことがあるから。こちらこそ、せっかく誘ってくれているのに応えられなくてごめんなさい」
「……その、無理に言う必要はないんだけど。やらなきゃいけないことって、具体的にはどんなことなの? ひょっとしたら力になれるかもしれないし、よければ教えてほしいな」
「あ……」
彼女は少し考えてから、花たちを見つめて静かに言った。
「阿岸佳果って人、知ってる?」
「阿岸? ああ、筋金入りの不良って噂になっている同級生だよね。でもあまりよくは知らないかな……ぼくらとはクラスも違うし」
「そっか、そうだよね……」
「? 押垂さん、その阿岸君がどうかしたの?」
「……佳果はわたしと幼馴染なんだけどね。家族が一人もいないんだ」
「え」
夕鈴が他人を名前で呼んでいる事実に、楓也はちくりと胸の痛みをおぼえた。しかしそれ以上に、その阿岸佳果という人物が抱えているであろう問題の大きさが、彼女の真剣な表情からも伝わってくる。彼は心して次の言葉を待った。
「だからなのかな。あの人は、放っておくとすぐ独りの殻に閉じこもる。本当は誰よりも、それが怖いはずなのに……」
悲しくも優しい瞳で語る夕鈴を見て、楓也は直感的に悟る。彼女にとって特別な人は、すでに存在していた。そこへ自分が入る余地などないのだとわかり、深い絶望が押し寄せる。ただ夕鈴はそんなこと知る由もないだろうし、このタイミングで気持ちを伝えたところで、きっと誰も幸せにはなれない。彼はためらわず心のスイッチを押すと、絶対に気づかれぬという覚悟をもって演技を始めた。
「察するに、押垂さんは阿岸君のために何かできることをしていると?」
「? そう、だけど……」
夕鈴は現在、花や植物たちの醸しだすあたたかい心にまみれて、超感覚が抑制されている。だがそんな彼女であっても、楓也の雰囲気が急変したのは容易にわかった。彼が新たに生み出した凛々しい顔が意味するところはわからないが、自分に対して何かを隠そうとしているのはわかる。ならば追求すべきではないのやも――浮かぶ疑問を押し殺し、彼女は話を続けた。
「……あのね。人は独りになると、よくない方向へどんどん進んでしまうものなの。佳果には誰かが必要で……その誰かをわたしがやってるんだ」
「ふむ。ってことは放課後、いつも阿岸君の家にいるとか?」
「へっ? ち、違う違う! そうじゃなくて……うーんなんて言えばいいんだろう。遠くから見守っているというか、そう、用心棒みたいな感じ!」
「余計わかりづらいよ……」
取り乱し赤面する夕鈴に、楓也は苦笑した。結局なにをしているのかは不明だが、彼女の核となる部分に阿岸佳果がいることだけはわかる。そして今後も親しい関係を維持していくのなら、彼についての情報は色んな意味で必要不可欠となるだろう。そう思い至り、楓也が次の質問しようと口をひらいた瞬間だった。
「!!」
突如、夕鈴が立ち上がる。
先ほどまでとは打って変わり、非常に切迫した雰囲気だ。
「押垂さん? どうしたの」
「ごめんなさい青波くん。あなたはここを動かないで」
「え、あ、ちょっと!」
振り返ることもせず、どこかへ走り去ってゆく夕鈴。その後ろ姿を呆然と眺める楓也は内心、自分が不快な思いをさせてしまったのだと考えた。だがそれにしては様子がおかしかった気もする。ぐるぐる当惑していると、今度は金髪の青年が血相を変えてやってきた。
「おいお前! あいつはどこ行った!?」
「あ、あいつ……? というか君はだれ? なんなの急に大きな声で……」
「さっきまで女子が一緒にいただろ!? 頼む教えてくれ、時間がねぇんだ! このとおりだ!」
そう言って青年は土下座を始める。あまりの事態に思考が追いつかないが、この青年の慌てように加え、先刻の夕鈴の表情――彼女が危ない? 直感にしたがって、楓也は青年の横にしゃがむと西の方向を指さした。
「顔を上げて。押垂さんはあっちに行ったよ。あの先には裏門があるけど、そこを抜ければ舗装された道路と、自然公園に続く悪路の二択だ。彼女はローファーだったから、たぶん走りやすい前者を進んでいるんじゃないかな」
「! サンキュー、恩に着るぜ!」
青年はお礼を言うと、間髪入れずに踵を返す。その全力疾走にはなぜか、夕鈴に対する絶対的で、排他的な想いが宿っているように感じられた。楓也は彼のことなど一ミリも知らなかったが、気がつくとこう叫んでいた。
「阿岸君!! 押垂さんを助けて!! 必ずだよ!!」
楓也の言葉が届いたのか、彼は後ろ向きのまま右手を上げ、小さく二回振った。佳果の返事にひどく安堵した楓也はその場にへたり込み、空をあおぐ。
――しかしその日を境に、夕鈴が学校へ来ることはなくなった。
お読みいただきありがとうございます。
察しのいい方はお気づきかもしれませんが、
このあと第25話に繋がります。
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