第31話 曇り空
わたしはいつものように、掃除をしていました。
ご主人様は今日も、お仕事の関係で外出しています。ご主人様がいないと、事務所も家もとても静かに感じられます。少し寂しいですが、ご主人様が戻ってくるまでの辛抱です。
それに、静かな時間も、今のわたしにとっては新鮮です。
わたしは鼻歌を歌いながら、掃除をし、ゴミを集めていきました。
ある程度ゴミが集まりますと、集めたゴミをゴミ袋に入れます。
もちろんそのままにしたりせず、わたしはそれを勝手口から外へと持ち出しました。
勝手口の先には、裏路地があります。
ゴミはそこに置かれたゴミ箱に入れることになっています。
そのとき、わたしはふと空を見上げました。
「あっ……!」
空を見たわたしは、目を見張りました。
西の空に、雲がいくつも流れてきます。それも、黒い雲ばかりです。
こういう時、天気は悪くなります。
今はまだ太陽が出ていますが、この後確実に雨が降ります。
「大変……!!」
わたしはゴミをゴミ箱に押し込み、スカートを少しだけたくし上げて、急いで家に戻りました。
そしてすぐに、外に干してあった洗濯物を取り込んでいきます。
取り込んだ洗濯物は、室内に干す以外ありません。
コインランドリーを使ってもいいのですが、お金がかかってしまいます。
あんまり無駄遣いはできません。
取り込んだ洗濯物は、開いている場所に干していきました。
オレが事務所に戻ってきてドアを開けると、そこには異様な光景が広がっていた。
「な、なんじゃこりゃ!?」
オレの事務所と家のあちこちに、洗濯物が干してあった。
家の中ならまだしも、事務所の窓際にまで干してあるのは……。
それにまだ太陽が出ている。部屋の中に干す意味が、まるで分からない。
これじゃあ事務所に来たお客さんが、驚いてしまうだろうなぁ。
「マリアー?」
「お帰りなさいませ、ご主人様」
マリアが、居間から出てきた。
「マリア、この洗濯物はどうしたんだ?」
オレは部屋の中に干された洗濯物を指し示す。
「まだ太陽が出ているのに、どうして部屋干しなんだ?」
「ご主人様、もうすぐ空が曇ります。今日は、部屋干しでお願いします」
「しかし……」
マリアの言葉を聞きつつも、オレは窓の外に目を向ける。
どう見ても、外はよく晴れているんだよなぁ。天気予報も、雨が降るなんてことは一言も云っていなかった。
どうしてマリアが、部屋干しにこだわるのか、オレには分からなかった。
「……できれば、外に干してほしいんだけど」
こんな事務所じゃ、お客さんも入ってこないだろう。
しかし、オレの考えは却下されてしまった。
「お言葉ですがご主人様、もうすぐ空模様が変わります。どうか、わたしを信じてください」
オレは首を傾げた。
マリアがここまで譲らないなんて、珍しい。
いつもなら、オレが指摘したことには二つ返事で従ってきたマリア。
それが今日は、一向に譲る気配がない。たかが洗濯物を干すのが室内だからといって、そこまでこだわるものだろうか? マリアにしか分からない、こだわりのようなものがあるわけでもなかろう。
やめさせるのも、あんまり気が進まない。ここまで譲らない……ある意味強引ともいえる気持ちを揺り動かすのは、並大抵ではない。
マリアを信じて、部屋干しのままにしておくか。
今日は来客の予定も無いから、きっとお客さんが来ることはないだろう。
オレはそう考え、洗濯物をそのままにしておくことに決めた。
事務所で午前中いっぱい仕事をし、昼食を食べてから、また午後に仕事に取り掛かる。
タイプライターと万年筆を使い分けながら、オレは次々に依頼された書類を作り上げていく。
すると、マリアが居間から事務所へと入ってきた。
右手には、いつもの買い物かごを手にしている。どうやら買い物に出かけるみたいだ。
時計を見ると、すでに3時を過ぎていた。
「ご主人様、夕食の材料を買いに行ってきます」
「わかった。あんまり遅くならないようにね」
オレはそう云い、マリアは頷いて事務所を出て買い物に出かけていった。
どれくらい、時間が経っただろうか。
仕事に夢中になっていたオレは、時が経つのを忘れて仕事をしていた。
少し背伸びをすると、いつの間にか身体がガチガチに固くなっていた。
「いてて……ん?」
オレは背伸びをしながら、窓に目を向けた。
窓から空を見上げると、空はいつの間にか真っ黒な雲に覆われている。いつ雨が降り出しても、おかしくなさそうだ。
そんな空を眺めていると、オレはマリアの言葉を思い出す。
『ご主人様、もうすぐ空が曇ります。今日は、部屋干しでお願いします』
『お言葉ですがご主人様、もうすぐ空模様が変わります。どうか、わたしを信じてください』
今から思えば、マリアの言葉は正しかったのかもしれない。
マリアがあそこまで頑固に部屋干しにこだわったのは、このためだったのか。
すると、雨が降り出した。
雨はあっという間に強くなり、曇りで暗くなっていた空がさらに黒くなる。あと少しで夜と同じではないかと思うほど、暗くなった。
冷たそうな雨が、事務所の窓を打ちつけていく。
「……あっ!」
降りしきる雨を見ていたオレは、あることを思い出した。
マリアは、傘を持って出かけなかった!!
こんな土砂降りの中、走りながら帰ってくるマリアを想像する。
メイド服が雨を吸って重くなり、身にしみる冷たさが、マリアの体温を奪っていく。
そうなったら、間違いなく風邪をひいてしまう!
「マリア!」
オレはいてもたってもいられなくなり、イスから立ち上がった。
トレンチコートをクローゼットから取り出し、羽織った。事務所の入り口に置かれていた傘を手にし、事務所のドアを開ける。
まるで滝のような雨が、通りを支配していた。
こんな雨の中を、マリアは彷徨っているのかもしれない。
オレは事務所を閉め、傘をさして雨の中に飛び出した。
「マリアちゃん? 今日は来てないわね」
「あぁ、あのカワイイメイドさんね。見てないなぁ」
「メイドさんよりも、こんな雨の中を歩いている兄ちゃんのほうが心配だよ。早いとこ帰った方がいいんじゃないのかい?」
あちこちの店を回り、オレは口々にそう云われ続けた。
どこを見回っても、マリアはいない。
買い物に出かけるのなら、行く場所はだいたい見当がつく。
マリアが買い物をする店といえば、安くて大量に食材を買える店が多い。ブランド品を扱っているような場所や、高価なものを扱う店には立ち入らない。
「残すところは……」
オレはマリアがよく立ち寄る店を、しらみつぶしに回った。しかし、どこにもマリアはいなかった。
後思いつくのは、少し離れたところにある量販店だ。あそこは遅くまで営業している上に、商品が安い。マリアは安売りをしている時は必ず行く。オレもマリアが来る前は、日々の買い物によく使っていた場所だ。
雨は先ほどよりも激しくなってきている。
だが、ここまで来たのなら、行くしかない。
オレが行かないと、マリアは雨が止むまでずっと雨宿りをしないといけなくなる。
いつ止むか分からない雨。止むのを待っていたら、夜になってしまうだろう。
そんな中に、マリアをひとり置いていくわけにはいかない!
「待ってろよ……マリア!」
オレは降りしきる雨の中、量販店へと向かった。
「マリア!」
「ご主人様!」
オレが睨んだ通り、マリアは量販店の店先にいた。
軒下で雨宿りをしていたようだ。買い物かごを手に、量販店の軒下にマリアは立っていた。
「マリア、やっと見つけた!」
迎えに来たことを告げると、マリアは目を丸くした。
「わたしのために、雨の中を……」
「あぁ。今さらながら、車を出せばよかったと思っているよ」
オレはずぶ濡れになっていた。傘をさしていたというのに、地面からの跳ね返りですっかり濡れている。
上着はトレンチコートのおかげで無事だが、ズボンと靴は水を吸ってしまった。
そんなオレの姿を見て、マリアは涙目になっていた。
「ご主人様、わたしのためにびしょ濡れに……!」
「気にすることは無い」
オレは肩についていた雨粒を手で払い落す。
「オレはここまで雨が降るとは予想できなかった。マリアのおかげで、洗濯物が濡れずに済んだんだから」
「ご主人様……」
「さぁ、帰ろうか。傘を……」
マリアに傘を手渡そうとしたオレは、そのときになって傘を1本しか持ってこなかったことに気がついた。
慌てて事務所を閉めていったから、傘を1本しか手に取らなかったのだ。
やっぱり、車で迎えに来るべきだった。
「……すまない、マリア。傘が1本しかない」
「ご主人様、大丈夫です!」
そう云うと、マリアはオレのすぐ隣に立った。
まるで密着しそうな距離感だ。
「マリア……?」
「ご主人様と、一緒の傘に入れば、1本でも大丈夫です!」
確かに、それしかないな。
オレは口元を緩め、傘を開いた。
「これで、帰れます。ご主人様、ありがとうございます!」
マリアが笑顔で、オレにお礼を伝える。
土砂降りだが、マリアの表情は晴れやかなものだった。
先ほどよりは少し落ち着いてきた雨の中、オレはマリアと共に1本の傘で事務所へと向かった。
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次回更新は、9月3日の21時を予定しております。





