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<く>偶発的相互命名のおまけとしての砂糖湯

 山道で熊に出会ったら、死んだふりをしましょう。


 一昔前はこれが本当にまかり通っていたのか、心底謎だと思う。今は熊に出会う前に鈴の音でこちらの存在を知らせるというのが定説ではなかろうか。

 しかし「死んだふりをする」という行動に根拠はないでもない。「死にまね反応」なるものが「闘争・逃走反応」と並んで生理学の用語としてある。これはすなわち極度の緊張状態における動物の反応で、それこそ死んだように動きを止めるものだという。

 死にまね反応をしたからいって外敵に見逃されるわけではない、という記述も最後に付け加えられていた。それならばなぜ、わざわざ敵がいるのに戦いも逃げもせずに無防備極まりない「死にまね」をするのか、と考え始めるとこれもまた謎(専門用語らしく言いかえると未解明)らしい。

 謎は多いが、私の興味は生物の定義に当てはまるのか否かという線上にあるウイルスに傾いているので、明らかに生物である動物については詳しく調べようとまでは思わない。


 7月に入ったばかりの空は鈍く、低い。晴れてはいないが、梅雨の晴れ間とでも呼べばいいのか。

 大学の講義も終わり、スーパーで買い物をしようと歩いてきた。家に入ると出たくなくなるので、ノートやファイルはバッグに入れたままだ。どうせ大した重さではない。

 目指す先は、家近くのスーパーだ。あまり凝った料理は作らない(作れないだけでもあるが)私は、アパートから歩いて行ける距離とそこそこの品揃えと低めの価格設定のおかげで、最近はほとんどそこにしか行かない。

 湿気を吸って暗い色になった歩道の石の上を歩く。


 はじまりは熊だったか。

 熊など出てきそうもない街角でどうしてこんなことを考えているかといえば、きっと駅で笹を見かけたからだろう。七夕の季節にはそこここで見かける、色とりどりの短冊がぶらさげられた笹だ。

 笹から白黒の熊を連想したわけではない。熊笹を思い浮かべたのでもない。

 笹は、鈴を思い出させるのだ。




 かさかさと笹の葉が揺れて、くくりつけられた鈴がちりりと鳴る。頑固な子供のさくらんぼの絵のように、鈴は必ずふたつ並ぶ。短冊よりももっと多く、子供の背丈よりずっと高いてっぺんの近くにさえ、ふたつ組になった鈴は結わえつけられていた。

 どうして鈴は並ぶのか、きっと意味はない。ぶらさげる糸の色は隣同士で違うのに、鈴は並ぶのだ。当然のように。

 私にとって、七夕の光景において笹の葉とともにあるのは短冊でなく、鈴だ。

 安っぽい銀色のくるりと丸い鈴は、刺繍糸のように色とりどりの糸を通されて、笹の葉の根元に結ばれる。私がほしくてほしくてどうしようもないくらい焦がれたのは、鈴だった。

 欲がないわけではないが、今の私にはほしいときっぱり言えるものはない。

 まあ、幼いころも、何かをほしいと強く言った覚えはないけれど。

 ほしいものは、大事なもの。大事なものは、隠すのだ。




 なるべく冷房をつけない、というこの季節にはまださほど無謀ではない挑戦はいたるところで推奨されているようで、公民館の窓も開け放してある。そこから見えたのは、笹だ。

 笹に鈴はつきものだという私にとっての絶対は、常識でもなんでもなかった。それは嫌というほどわかっているけれど。

 引き寄せられるように、公民館に入っていく。


 市民交流のための開放スペース「なごみの広場」には、近頃交流を始めたばかりの向かいの家の住人、ユウジさんがいた。というよりも、いるのはユウジさんひとりだ。奥の方にテーブルについていたが、自動ドアの開く音に気付いたのか、顔を向けてこちらに会釈をくれた。

 近所に住まうものとして、ここは挨拶のしどころだろう。

「どうも。先日はじゃがいもをありがとうございました」

 私が近寄ると、いいえ、とユウジさんは立ち上がってから改めて会釈をする。

「本を読んでいたらチェスが見たくなったもので、こちらならもしやと思って来てみたのですが」

 ユウジさんの視線を追うと、公民館の事務室の外の掲示板に「ボードゲーム、カード等貸し出します。ご希望の方は職員に申し出てください。(賭博行為は法律で禁止されています)」という張り紙がある。チェスはボードゲームだからここで借りられるのだろう。

 しかし、公民館に人気はない。昼というには遅すぎて、夕方というには早すぎる時間と、平日であるせいだろうか。

「見たい、んですか?」

 やりたいのではなく、と婉曲に尋ねてみる。

「ええ。見る方が性に合っているものですから」

 確かにユウジさんは、勝負事は肌に合わないという雰囲気を漂わせている。

 チェスのルールはおぼろげにしか理解していない私は、役に立てそうもない。そもそもユウジさんにやる気がないのだから、私ひとりいたところで変わらないが。


 ユウジさんのテーブルから3歩ほど遠ざかり、窓近くの笹にそっと手を伸ばす。てっぺんの葉にも、背伸びすれば届く。

 飾られた笹はいつも乾いた手触りだ。切られてから時間が経っているからだろう。

 ユウジさんのテーブルのすぐ近く、窓のそばの折り畳み机の脚に、笹が麻ひもでぐるぐると縛りつけられている。先ほど外から見つけたのはこれだろう。机には短冊とマジックペン、針金が置かれ、訪れた人が自由に自分の短冊を飾れるようになっている。

 ああ、そうだ、と思いつく。せっかく公民館に来たのだし、ユウジさんにはぜひ血圧を測ってもらわなければ。イヅマくんの心労が減る結果が出れば好ましい。


 しゃらしゃらと、笹と短冊が擦れて音を立てる。笹を上にたどって、目を上げて。

 開け放した窓の外にいるのは、センリだった。

 わかるものだな、と大人びたのか老けたのか、とにかくは時を経た顔を見て、瞬きをする。


「久しぶり」

 センリは笑う。

「相変わらず、鈴がほしいのかよ?」

 見つかってしまった。大事なものは、隠さなくてはいけないのに。




 ほしいのか、ほしかったのか。

 手に入れて、こっそりと見せびらかして、なくしてしまうのだ。

 鈴をひとつランドセルに取り付ければ、動くたびにちりちり鳴った。その音は甲高くかわいらしかったけれど、ときにはこっそり歩くために、右手を後ろに回して鈴を手のひらに包み込んだ。

 ランドセルの皮と同じ素材で作られたキーホルダーをぶらさげるためのバンド、ほかよりも柔らかく手になじむそれをまず探り当てる。ランドセルの横腹にあるそのバンドは、背負ったままだと首を回してもよく見えないので、肘を突っ張るようにして、文字通り「探り当てる」ことになる。

 バンドに結ばれた糸を下にたどればひやりとして丸い金属の感触に行き当たり、ぎゅっと握りしめれば右手にだけくぐもった振動が伝わって、やがて鈴に体温が沁みていく。

 鈴を外せばいい、とは思わなかった。音を立てたくないのは、ほんの少しの間のことだったから。それでも後ろに回した腕の筋肉が張って疲れると、少し面倒だ、とは感じた。

 しかしやがては鈴の存在にも、それを探り当てる動作にも、音を殺すタイミングにも慣れていく。

 そしてある日、気付くのだ。まず耳で、次に手で、そのあとに目で、鈴がないことを。

 



「知り合い?」

 ユウジさんに短く一度目を留めて、センリはあくまで私に話しかける。小さく頷いて返事に代える。

「どうせお前のことだから、名前も聞いてないんだろ?」

 センリは言う。「名前も」ということは、そう、名前も、ほかのことも。

 センリがセンリと名乗って、私がそれ以上聞こうとしなかったように。

 なるべく表情を動かさないようにしている自分に気付く。表情だけでなく、身じろぎすら抑えようとしている。

 息を詰めようが死んだふりをしようが、相手は見逃してくれるはずもないのに。これだから生物は面倒なのだ。

「思い出せないだけでしょう」

 いささか唐突に背後から聞こえた、平日の午後にふさわしいようなゆったりとした口調は、ユウジさんのものだ。

「仕事柄いくつか別の名前を名乗るもので、僕自身混乱してしまいます」

 ユウジさんの仕事など、知らない。センリのことを知らないくらいに。


「もう、思い出したでしょう、ミドリさん?」


 ミドリさん。

 私のものでないけれど、明らかに私を指す呼び名は、ようやくユウジさんなりの誘い水だということに気付いた。

 私の声を引き出す、誘い水。


「思い出しました、ユウジさん」

 自然と、そう言っていた。目の前にいるのはセンリなのに、ユウジさんの方を振り向かないままに。

「ミドリ、か」

 センリは笑う。いつもセンリは笑うのだ。

「じゃあ」

 センリは歩き去る。「じゃあな」でも「じゃあね」でも「じゃあまた」でもない、どこか半端で断ち切られたような別れ際の「じゃあ」はセンリのものだ。やはりセンリだ、と感じて、けれどそれは窓越しに声を掛けられた瞬間から明らかだった。

 目はセンリの背中を追っているようで、実は映っていなかったのかもしれない。窓の全反射から逃れた空間にあるのは、かさかさと鳴る笹に縁取られた、鈍く低い空だけだ。

 鈴は魔除けか熊避けか。どちらにしても、ここに鈴は存在しない。


 片手で開かれた本が、笹の間を通って視界に飛び込んできた。考える間もなく、ページはそのままに受け取る。本にちらりと目を落として、それを私に差し出したユウジさんを振り返る。

「不思議の国のアリスですよ」

 チェスは鏡の国の方なのですが、とユウジさんは付け加え、どこへか歩いていく。

 窓を背に立ったまま、開かれた部分を読んでみる。どうやらアリスの台詞らしい。



「みんなが上から覗き込んで、『ほら、上がってらっしゃい』って言ったってだめ。私はそっちを見上げて、言ってやるだけよ。『それなら私はいったい誰だっていうの? 先にそれを答えてよ。もしその人になってもいいと思えれば、上がって行くわ。でも、その人になるのが嫌だったら、誰か別の人になれるまで、ずっとここにいるわ』」



『上がっていらっしゃい』

 私は何になりたいのだろう。ミドリさんと呼ばれるその人は、私のなりたい人なのだろうか。「なってもいい」人なのだろうか。

『私はいったい誰だっていうの?』

 後出しじゃんけんみたいだ、と思う。答えを知ってから、こちらの手の内を明かす。

 けれども、答えなど存在しないのかもしれない。アリスは結局アリスのまま、不思議の国を駆け抜けるのだから。


 紙コップをひとつ手に、ユウジさんが戻ってきた。自動販売機の奥になっている、無料で飲み物を手に入れる場所をわかっているあたり、実はここによく来るのだろうか。 

ユウジさんは椅子に腰掛け、つられたように私も斜め向かいに腰を落とした。

「どうぞ。お湯です」

 本を閉じ、代わりに差し出された紙コップを受け取る。熱さがじかに手に伝わる、へなりと薄い紙コップは、確かに九分目まで湯に満たされていた。

「ありがとうございます。あの、中に何か落ちてますけど」

 中に転がる白く小さなカタマリは、水の抵抗を受けてふらふらコップの底をさまよう。

「氷砂糖です」

「それはまた溶けにくそうですねえ」

「梅酒を漬け込んだ際に余っていたもので、持ち歩いていました」

 イヅマくんは梅酒も作るのか、通い妻の鑑だな、と紙コップの縁に唇をつけながら感心し、初めからユウジさんが作ったという可能性を除外している自分がおかしくなる。

 知らないつもりでも、いつの間にか知っているのだ。かつて私が鈴を欲していたことを、センリが知っていたように。


 それは透明な湯で、しかしストーブから熱が立ち上りその向こう側がゆらめくように、溶けた砂糖は水の屈折率を変えかすかに歪みを生む。甘さは一点から生まれて、やわやわと周囲に溶けていく。

 湯に溶け込んだほんのかすかな甘みを、舌の上で転がして、そっと追いかける。

 開け放した窓から入る風はぬるく、それでも湯の熱さを心地よく感じられるくらいに空気は動く。

 溶け残った、というよりもほとんど溶けてはいない氷砂糖が、最後に口に滑り込む。表面のざらりと粗い感触を舌先で確かめて、人肌と呼ぶにはお湯の温度を受け取りすぎたカタマリをそっと転がす。

 かりりと噛み砕くと、いくつもの尖った欠片を舌に感じて、しかし鋭角はすぐに溶けて鋭さを失う。

 これがすべて溶けてしまったら、溶けてなくなってしまったら。

 何か、話さなくては。



「ユウジさん」

 名残の甘さが消えないうちに仮の名で呼びかけると、はい、とさして間も空けず返事が聞こえた。本を繰っていたらしい。

 ユウジさんは、何と呼ばれて、何になりたいのだろう。センリに何も聞かなかったように、ユウジさんにも尋ねはしない。

 知りたくないのか、知られたくないのか。その答えは、曖昧なままに。

「河童だからミドリというのは安直すぎませんかねえ」

 きっと由来は雨の日に渡したきゅうりだろう、と見当をつけて言ってみる。

「でも、あなたは河童ではないのでしょう」

「違いますけど」

「それならば構わないでしょう」

 そうですねえ、とほぼ空になった紙コップに視線を落とし、その底でもう冷めているだろう水滴を動かしてみる。

 構いはしない。構わないのはユウジさんか、それとも。

 ユウジさん、と再び呼んでみる。はい、と同じように返ってくる。

 まあ、構わないというのだから。


「私とご近所付き合いをしてください」


 今はたぶん、これでいい。ご近所付き合いに個人情報は必要ないはずだから。



ユウジさんにとって砂糖湯は料理であると思われます。

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