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悦楽の儀式  作者: 香住景
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8.エピローグ

 衛藤家の事件から2週間、私は榎尾の事務所兼自宅に立ち寄ることができなかった。無論、彼のほうから私に連絡が来ることもなかった。

 楓が死んだあの夜、完全無欠と思っていた彼の虚しい背中を目にした私は、少なからず彼に失望していた。

 私は勝手に榎尾冬也を完璧な男だと思い込み、多大な期待と尊敬を寄せていた。しかしそれらを全て裏切られたような気がして、自然と彼の元へ足が向かなかったのだ。

 けれど日が経つにつれ、流石に榎尾がどうしているのか気になってくる。

 もしかしたらまだふさぎ込んだままかもしれない。だとしたら、私は一体どう声をかけたらいいのだろう。いや、榎尾のことだから、もう衛藤の事件などすっかり忘れて、暇そうにデスクでコーヒーを啜っていそうだ。そしていつものように、大して面白くもない依頼をちまちまと片付ける。

 私の頭には後者の情景が簡単に浮かんできた。いつまでも落ち込んだままの榎尾なんて、私には想像できない。

 そう思うといくらか気が楽になった。一瞬でも榎尾を案じたことすら無駄だったなどと思えてくる。

 木製の粗末な扉。何度も見てきた「榎尾私立探偵事務所」の文字。私はノックもせずに、ノブに手をかけ扉を引き開ける。

 しかしそこには、私の見慣れた風景はなかった。



 デスクも、汚いソファーも、床に散乱していた資料やゴミの類もなく、代わりに沢山の段ボールが部屋を占領していた。

「やあ、君か」

 榎尾冬也は段ボールの口をガムテープで閉めてから、こちらに向かって手を挙げる。事務所にいるのに、彼は珍しく黒のスーツで身を包んでいた。しかし声に覇気はなく、顔も少し窶れているように見える。

「一体どういうことだ、これは……」

「うん、引っ越そうと思ってね」

「随分と急なんだな」

「まあね。ついでに探偵も辞めるよ」

 引っ越しを告げるのと変わらぬトーンで、榎尾はとんでもないことを言い出した。

 私は己の耳を疑い、すぐには反応することができない。

「先の事件で、僕は改めて思い知ったよ。自分がどれだけ探偵に向いてないかってね」

「そんな……たった一度挫折しただけじゃないか」

 榎尾は自嘲するような笑みを浮かべると、私から目を逸らして傍にある段ボールに腰を下ろした。

「確かに、僕の推理が外れたのはあれが初めてだった。でも、そのせいで何人犠牲を出した? おまけに、今まで苦労して獲得してきた警察からの信頼も、地に落ちてしまった。そんな中でのうのうと探偵を続けられるほど、僕は図太くないんだ」

「じゃあ……これからどうするんだ」

「さあ、どうしようか。何も考えちゃいないよ。ただもう、此処にはいられない。いたくない」

 そう言って榎尾は頭を垂れる。もう彼は、私の知る榎尾冬也ではなかった。

 私は部屋へ入って彼に近づき、慰めの言葉をかけるべきなのに、それができない。

 探偵でなくなった彼に、私はもうすっかり興味を失ってしまっていた。

 私が事務所を出て行こうとすると、榎尾は無言で手を挙げる。寂しそうに微笑む彼を見ていられず、すぐに背を向ける。

私は一度も振り返ることなく、榎尾私立探偵事務所を後にした。




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