七章 (2) それぞれの道行き
「いいじゃねえか」
半ば予想していたとは言え、アムルの返事を聞いたカゼスは、椅子ごとひっくり返りそうになった。
「いいじゃねえか、って、親父」
アテュスが抗議しようとするのを遮り、アムルは息子の帰還で手狭になったテーブルに追加の料理を置いた。元から良く食べるアテュスに加えて、朝から何も食べていないカゼスが、恥ずかしいほどの勢いで皿を空にしているのだ。
「何が不満なんだ、広い屋敷に住んで美味いもん食って、単に突っ立ってるばかりの衛兵仕事よりも取っ組みがいのある仕事をして。おまけに国王陛下と宰相閣下まで味方についてくれてんだろ?」
この場にヤルスがいたらどんな顔をするかと想像し、カゼスはにやっとした。
ヤルスは騒動が片付いた後、自分の家に戻り、両親であると思い込ませていた夫妻の暗示を解く、と言っていた。
そうして去りかけた彼に、アテュスはこう言ったのだ。
追い出されたら、うちに来いよ――と。
ヤルスがどういういきさつで今のデニスにいるのか、アテュスには半分も理解できていないに違いない。だが、ヤルスが今の家を失ったらどこにも行き場がないことだけは知っているし、それさえ分かれば充分だと思っているようでもあった。
純粋な親切心と友情から、アテュスはヤルスに手を差し伸べたのだ。その時にヤルスが見せたなんとも複雑な表情は、忘れようにも忘れられそうにない。
「だけど、俺には何をどうすりゃいいのかさっぱり分からないし……それに」
アテュスの言いにくそうな声で、カゼスは現在に意識を引き戻した。しばらく口ごもった後で、アテュスは思い切って言った。
「俺、本当は親父の跡を継ぎたいんだよ」
これには本心から驚いたらしく、アムルが目を丸くした。
「親父、今、一人でここに来る患者全員を相手にしてるだろ。だから、今年いっぱいぐらいでまとまった金が貯まるからさ、衛兵辞めて……親父の手伝いしながら医者になろうと思って」
「なるほど、せっせと小金を貯めてたのは結婚資金じゃなかったわけかい」
呆れたようにアムルは言い、温かみのある苦笑をこぼす。
「馬鹿野郎、一朝一夕でなれるほど医者は甘くねえぞ。それにおまえは医者にゃ向いてねえ。手先が根本的に不器用だし、じっと座って細かい仕事を根気よく続けるのは、昔っから苦手だったじゃねえか。おまえの手伝いなんざ邪魔になってしょうがねえよ」
「でも、親父……」
「いーから、俺のこた気にすんな。どっちみち俺はおまえの本当の父親じゃない。言っちまやただの保護者だ。だったら、国王だのなんだの、俺よりもっと役に立って頼りになりそうな連中が保護者になってくれる、ってのを断る筋はねえだろ?」
ばっさり言ったアムルに、カゼスは不安な目を向けた。自分がこんなことを言われたら、ぐれてしまうかもしれない。じゃあ、あなたは私を子供とは思っていなかったんですか、とかなんとか。
だが、この男に育てられたアテュスの反応は、違っていた。
「どうしても俺に言わせたいんだったら言ってやるけど、親父、俺はあんたに遠慮してるんじゃなくて、あんたと一緒に暮らしてたいんだよ! 今までみたいに!」
バン、とテーブルを叩き、アテュスは真っ赤な顔で恥ずかしい台詞を吐く。アムルもとうとう折れたのか、しょうがねえな、というような笑顔になった。
「分かった、分かった。んじゃ明日、国王陛下に話つけに行ってやるよ」
ぺし、と軽く金髪の頭を叩くと、アテュスのコップにワインをついでやる。カゼスはくすくす笑いを止められなかった。
「本当に、仲がいいんだなぁ」
「おまえだって、仲良しが欲しけりゃいくらでも作れるだろう。ここに来て十日も経ってないってのに、うちのバカ息子はともかく、あの堅物宰相とまですっかり親しくなっちまってよ。たいしたもんだぜ」
アムルは言い返し、カゼスのコップにもつぐ。それから彼は、意地悪くにやっとして付け足した。
「ま、その気の抜けた面を見てりゃ、敵意も長続きしなくてもっともだ」
「気が抜けてて悪かったですねっ!」
言い返してワインを飲む。憤慨したふりをしたが、気分は悪くなかった。
わいわいしゃべりながら、いつの間にか飲み過ぎたらしい。意識しないうちにカゼスは眠ってしまっており、目が覚めた時は既に外が明るくなっていた。
どうやってそこまで行ったのか覚えていないが、くるまっていた毛布をたたんでベッドから降りる。アテュスの姿はない。
二日酔いで気分が悪いまま、カゼスは目をこすりこすり部屋を出た。
食堂はきれいに片付いており、アテュスがぼんやり座っている。
「おはよー……ゆうべはちょっと飲み過ぎたね」
カゼスが挨拶すると、アテュスはぺらっと紙を差し出した。カゼスは首を傾げてそれを受け取り、「請求書じゃないだろうね」などと冗談を言う。だが、紙に目を落とし、そこに書かれている文字を見ると、それ以上ふざけられなくなった。
ぽつんと、数人の姓名が記されている。
「誰の名前だい、これ」
呆然とカゼスは問うた。説明は一切ない。ただ、この国に来て日が浅いカゼスにも、そのいくつかの名前が、王族あるいは王に連なる貴族の血筋のものであろうことは、見当がついた。……あとは自分で調べろ、ということなのだろうか。
「知るか。親父の創作だろうさ」
アテュスはそれだけ言うと、カゼスの手から紙を取り返してため息をついた。
「親父の奴、これだけ残して出てっちまった」
「え?」
ぽかんとしてカゼスが聞き返すと、アテュスはだらしなく腰掛けていた椅子から立ち上がり、暖炉の上でしゅんしゅん言っていたやかんを取って紅茶を淹れた。
「そろそろ自分で歩け、ってことだな。……顔、洗って来いよ」
やれやれと言い、テーブルにパンとチーズなどを並べ始める。あたふたとカゼスは外に出て、小川で顔を洗ってから大急ぎで戻ってきた。もたもたしているとアテュスまでいなくなってしまいそうな気がしたのだ。
が、彼はまだそこにいて、カゼスが椅子に座ると、茶の入ったカップをひとつ渡してくれた。どう切り出したものかとカゼスがためらっていると、アテュスは突然チーズにナイフを突き刺し、「あーっ!」と声を上げた。
「踏んだり蹴ったりだ、まったく! オルトシアも親父もいなくなっちまった。あんたももうじき帰っちまうんだろ?」
憮然として、それでも一抹の希望を浮かべた目でこちらを見る。カゼスはそれに耐えられず、うつむいた。
「ごめんよ」
「ちぇっ。まぁ、しょーがねーか」
なげやりに言って、彼はもういつもの調子で朝食をがつがつやり始めた。呆気に取られているカゼスに、怪訝な顔で
「どうした? 食えよ」
などと言う。相手の心情の変化についていけず、カゼスは目をぱちくりさせたが、とりあえず食事をすませることにした。
食器を洗い桶に突っ込んで立ち上がると、アテュスは例の紙片を持って外に出た。カゼスが後から出た時には、彼は小川のほとりでそれをもう一度じっくり眺めているところだった。そして……
「あっ!」
思わずカゼスは声を上げる。細かくちぎられた紙が、アテュスの手の中から川へ飛び散っていく。小さな紙片は、さらに小さなかけらになって、吹雪のよう。丁寧に、もう一度つなぎ合わせることができないように小さく紙を裂いて、アテュスはすべてを水の中にばらまいた。
「いいのかい?」
おずおずとカゼスが訊くと、アテュスはアムルによく似た皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「いいさ。本当は焼いた方がいいんだろうけど、細切れにしてやりたい気分だったから」
「いや、そうじゃなくて……」
「いいんだよ」
それだけ言って、アテュスは歩きだす。王宮の方へ。
ふとカゼスは直観し、それを口に出した。
「君は何も言わないつもりだね」
「何を言うんだ? 俺は何も知らない。だから、言わなきゃならない事なんか何もない」
断固とした口調だった。だが、それだけ言うとアテュスは立ち止まり、小さなため息をついて爪先を見つめた。
「……まあ、『宝珠』って証拠がある限り、逃がしちゃ貰えそうにないけどな」
「医者になるのは諦めるのかい」
カゼスの問いに、アテュスはうなずいただけだった。
養父がいなくなった結果、アテュスの正確な身分は分からずじまいになってしまった。
だが意外なことに、近衛隊長はそれを喜んだ。次期隊長の候補にアテュスを、と考えていたからだ。王族であろうとなかろうと、アテュスが出世するのはどうやら間違いなさそうだった。
だからと言ってもう一度よりを戻したがるほどオルトシアのプライドは低くなかろうが、なんとなくカゼスは、アテュスが彼女を迎えに行くんじゃないかな、などと思った。オルトシアは破門されてしまい、ターケ・ラウシールで下働きをしているのだ。
ハーカーニーはまだ牢につながれているが、恐らく死罪だろう。
ヤルスに関しては、罪を犯しはしたものの、高貴な血筋の者やラウシールを助け、また結果として宮中の不穏分子を一網打尽にすることとなったため、功罪相殺してお咎めなしとされた。
そうこうして事件の後の片付けが慌ただしく進む中、カゼスは転移装置で故郷に帰ることに決めた。
急に忙しくなったアテュスも、合間をぬって見送りに行くと約束してくれた。
ヤルスは家では正体を隠す必要がなくなったので、堂々と転移装置の調整をしている。彼の『両親』は、暗示が解けた後もそのままヤルスを息子として受け入れてくれたのだ。
〈ヤルスさんのこと、治安局に報告しなくてもいいよねぇ?〉
せっかく、失った家庭をここに見出せたというのに、十一条を持ち出すのは無情というものだろう。カゼスは年相応に見えてきたヤルスを眺め、リトルに言った。
〈別に害もないだろうし、今後アテュスには味方が一人でも多く必要だよ〉
〈同意見です。ということはつまり、報告しても結果は同じということですよ、カゼス。現在の治安局は、あなたが考えているほど無慈悲で硬直的な機関ではありません。せっかくですからこの世界に頭文字を使ってもらう機会を捕まえておいたらどうですか?〉
〈えー……それはどうでもいいけど……おまえの判断に任せるよ〉
バタバタバタ、と騒々しい靴音がして、アテュスが地下室に降りてきた。
「なんだ、こんなところから帰るのか? どうせなら庭にでも出ればいいのに」
「どこでも一緒だよ」
カゼスは苦笑して答え、アテュスを見上げる。
「忙しそうだね」
「まあな」
他愛ない、当たり障りのない会話を少し交わしてから、ふとカゼスはつぶやいた。
「どうせならアムルさんも見送りにきて欲しかったなぁ。何もあんなにいきなり出て行かなくてもいいだろうって思うよ」
「確かにちょっといきなりだったな。でも、突き放されるような気はしてたんだ」
少し考えてからアテュスは言葉をつないだ。
「ちゃんとした擁護者がついたんだから、後は自分で歩け、って放り出すのが親父のやり方なんだよ。俺は親父にいて欲しいと思ってるし、親父だって俺のこと心配しだしたらきりがない。でも、それじゃ一生俺は親父に頼りっきりになっちまう」
淡々と話すアテュスを、カゼスとヤルスはいささか驚いた面持ちで見つめた。二人の視線には気付かないまま、アテュスは自分の気持ちを整理するように話し続ける。
「親父がいなくなったのは薄情なんじゃなくて、それが今必要なことだからだと思う。それに元々、親父はあちこち旅をしていたらしくてさ。自分の生活を取り戻したかったんだろうな。だから、気が向いたらまた様子を見にくるさ。たぶん、な」
ぽかんとしてそれを聞いていたカゼスは、アテュスが口をつぐむと、感心してほうけたように言った。
「君はしっかりしてるんだなぁ……見直したよ」
「親父の影響さ。実際はそんなたいしたもんじゃない」
アテュスは苦い笑みを浮かべる。それからふと表情を改め、彼は続けた。
「昔もそういうことがあったんだ。俺が、なんで母親がいないんだ、って問い詰めた時だったな。親父の奴、それがどうした、だったらどうなんだ、ってな感じの答えしか寄越さなくてさ。あの時は家出しちまったぐらい腹を立てたけど、今考えると……今回と同じなんだよな」
ひとり納得しているアテュスに、カゼスは首を傾げた。どこがどう同じなのか、彼にはさっぱり分からない。怪訝そうなカゼスの表情を見て、アテュスは苦笑気味に続けた。
「いつでも、自分でどうにかしろ、って突き放すんだよ、あの冷血親父は。だったらおまえはどうしたいんだ、ってことを訊いてくる。だから俺はいつも、先に進まざるを得なくなるんだ……どうして、とか、こんなのは嫌だ、とか言ってべそかいてられない。まったく、たまには休ませて欲しいよ」
彼は言って大袈裟に憮然として見せた。が、もちろんそこに悪意はない。
ああ、そうか、とカゼスは納得して、不意に寂しくなった。
アテュスはそうやって、一歩先に踏み出す力を持っているのだ。父親の手で無理やり押し出されたにしても、そこでけつまずいて倒れてしまわずに、しゃんと立っている。強がって踏ん張るでもなく、ごく当たり前の顔をして。
(羨ましいな)
少しまぶしそうに目を細めたカゼスの心中が、分かっているのかいないのか。アテュスは黙って軽くカゼスを抱き締め、背中を叩いた。親愛の情の表現に慣れないカゼスは、ぎこちない抱擁を返す。
アテュスはカゼスを離すと、もう一度その顔をじっと見てから言った。
「あんたがいなくなるとこを見物したいんだけど、どうも居座ると湿っぽくなりそうだし……こういうのは苦手なんだ、だから俺も親父を見習ってとっとと失せることにするよ。またいつか会えるといいな。それまで元気でな」
「君もね」
うん、とカゼスがうなずくと、アテュスは未練を振り切るように「じゃ、忙しいんだ」とかなんとかわざとらしい台詞を残して、来た時と同様にバタバタと騒々しく階段を駆け登って行った。
シンとなった地下室に、ヤルスが調整を再開した音がガチャッと響く。カゼスはそっちを振り返り、苦笑した。
「アテュスがいなくなると、一段とここは寒いですね」
「悪かったな」
無愛想に答え、ヤルスは最後の仕上げを終えた。
「これで共和国の……おまえのいた時代と場所に戻れるはずだ。私の出発時点と空間座標の記録を元に算出したから、例の不可解な法則が作用しない限り、ずれは最小限に抑えられるはずだ……が、もし大幅にずれても私を恨むなよ」
装置が作動の準備を始めたらしい。パッパッとところどころでランプが点滅し、パネルに公用語の表示が次々と現れては消えて行く。
「この転移装置も一緒に移動させるから、そっちで処分してもらいたい」
「え? あ、じゃあ、つまり」
カゼスが声を弾ませると、ヤルスは一瞬だけ、はにかんだような笑みを見せた。
「もうどこにも行く必要はないからな。残りの物はすべてこちらで片付ける。私自身については……まあ、仕方あるまい。この地域一帯には死体をいじりまわす習慣はないから大丈夫だろう。それから……」
淡々と言いながら、ヤルスは聖典を取って差し出した。
「これも持って帰ってくれ。そっちの治安局に、これがデニスに残っていた最後の聖典だと言えば、私を見逃した言い訳もしやすくなると思う」
カゼスはちょっと目をみはり、ありがたくそれを受け取った。そこまで考えてくれているのが嬉しかったのだ。
ヤルスは少し物思いにふけり、それからふとアテュスが上がって行った階段の方を見て、小さくため息をついた。
「私には彼の真似は出来そうにないな。なぜと問いかけるばかりでは物事は進展しないと分かっていても……動き出すのは難しい」
その言葉に、カゼスは前にこの倉庫に来た時のことを思い出した。暗がりに立ち尽くして星を見上げている、心象風景。あれはヤルスの言葉によって自分の内に生まれたものだと思っていたが、もしかしたらヤルス自身のものでもあったのかも知れない。
「仕方ありませんよ、人それぞれってことですし……それに、遠くの星を見上げているのは、あなた一人だけじゃありませんから」
カゼスのたとえに、ヤルスは少し不可解げな表情でこちらを見つめ返した。やがてそれが、ゆっくりと何か納得したようなものへと変わって行く。
「……そうだな。似ていると思ったのは……そういうことだったか」
呟いて苦笑すると、小さく頭を振る。
言葉にならないところで何かが通じ合った気がして、カゼスも無言で微笑んだ。
ヤルスがカゼスに立つ位置を指示し、パネルの操作を始める。その作業の途中で彼は顔を上げ、「カゼス」と呼びかけた。初めて聞く、強すぎる感情のゆえにかすれた声で。
顔を上げて振り返ったカゼスに、ヤルスは何か言いかけて……やめた。お互いに喉元まで出かかっている思いがあるのに、まるで世界から音が消えてしまったかのように、はりつめた沈黙が満ちる。
結局、ヤルスは黙ったまま最後の指示を入力し、装置を離れた。
「それじゃあ……」
カゼスが曖昧な別れの言葉を口にのぼせると、ヤルスは小さくうなずき、ちょっと手を上げる。そして、もう何年もしたことのない表情になった。
それがカゼスの目に映るか映らないか。装置が作動し、カゼスの身体は光の壁に取り囲まれ、消え失せた。
倉庫にひとり残ったヤルスは、しばらくそこに立ち尽くしていた。光の壁は中の対象物を転移させた後、本体をも取り込みはじめ、やがて自分自身を呑み込んでいく。
転移装置が影も形も残さず消えてからも、ヤルスは動かなかった。頬を伝っているものが何なのかを理解したのは、その滴がぽたっと床に染みを作ってからだった。




