解き明かされる『聖女の涙』と、繊維の悲鳴
洗濯屋『なみまつ』の奥で、銀の洗い桶に沈められた「白い麻のハンカチ」が、不気味な静寂を湛えてから数時間が経過した。
外の世界では、カイル公爵が「街全体に言いようのない不快感が漂っている」として騎士団を警戒に当たらせていたが、その震源地であるリアロマの店では、一人の洗濯屋が「汚れの本性」をいつもの洗濯と同じように分解し続けていた。
店を閉め切っているにもかかわらず、店内の空気は目に見えて変質していた。リアロマは、空気の分子に指向性の波を干渉させて波打たせ、店内の淀みを強制的に屋外へ押し出していたが、それでも追いつかないほどの「粘着質な不快感」が次々と溢れ出してくる。。
さらに、彼女は部屋全体を振動探知し、空気中に散布された「呪いの成分」の周波数だけを特定、極細な逆位相波を用いてピンポイントに呪いを中和し続けていた。そうでなければ、店内の木材すら腐食しかねないほどの負のエネルギーだった。
その元凶を前にして、リアロマは相変わらず、夕食の献立でも考えるかのような淡々とした手つきで作業を続けていた。
「……なるほど。繊維の最深部に、意志を持った『核』があるわね。通常の汚れなら数秒で分解できるんだけど、これは私の波から逃れ、組織の奥へ、奥へと逃げ込もうとしているようね。……なんとまあ、往生際が悪いわね」
リアロマは銀の桶の中に指先を浸し、その中の液体の粘性を確認する。
漆黒に染まった水は、今や光を一切反射しない「虚無の黒」へと変色していた。それは、千年の時を経て濃縮された純粋な魔力の残滓であり、持ち主の悲痛な叫びが固定されたものだ。
粘性に合わせて、振動の周波数を調整する。溶液が小さく泡立つたびに、リアロマの耳には、数千人の女たちが一斉に啜り泣くような、生理的な嫌悪感を呼び起こす音が聞こえていた。
そこへ、顔色を土のように白くし、膝を震わせたゼノが、古びた巨大な魔導書を抱えて飛び込んできた。彼は古文書の調査から、この「汚れ」の正体を突き止めたのだ。
「リアロマ殿! 大変だ、とんでもないことが……いや、歴史の禁忌が暴かれたぞ!」
ゼノは震える手で魔導書を広げ、煤けたページを指し示した。そこには、千年前の戦乱期に「聖女」と呼ばれながらも、最期は信じていた国と民に裏切られ、火刑に処された悲劇の女性――聖女クローディアの真実が記されていた。
「このハンカチに宿った『呪い』は、聖女クローディアが処刑台で流した涙……その絶望と怒りそのものだ! 彼女は最期、慈しんできたはずの民衆に石を投げられ、罵声を浴びせられながら、布で自らの涙を拭った。その瞬間に放出された膨大な魔力が、負の思念として固定され、千年の時を超えてティーポットカバー、そしてこのハンカチへと『色移り』しながら移り住んだんだ!」
「……聖女、ですか。それはまた、随分とアクの強そうな肩書きですねえ」
リアロマは、ゼノが語る歴史の悲劇を、まるで「落ちにくいシミの原因」を聞かされた時のように、事務的な納得感で受け止めた。そして腕が鳴るとばかりに微笑む。
一方で、ゼノの声は、もはや恐怖で悲鳴に近いものになっていた。
「それを、あなたが指先一つで剥離させてしまったことで、蓋が外れた。白いハンカチに、千年の執念が里帰りしたんだ! お分かりか!? これは単なる遺物ではない。千年前の災厄が、現代というキャンバスに『再構築』されようとしているんだ! この浸け置きが終われば、彼女は『絶望の具現体』として実体化し、シズナの街の生命すべてを飲み込む広域な呪いを撒き散らすぞ! 今すぐカイル様に報告し、騎士団の全戦力を投入して、空間ごとこの店を封印しなければ……!」
「ゼノ様」
リアロマは桶をかき混ぜる手を止めず、相変わらずのんびりとした様子でゼノの言葉を遮った。
「何やら大層なもののようですね。聖女の涙ですか。でも、私の店に持ち込まれた以上、それは単なる『放置された頑固なシミ』です。千年経っていようが、どれだけ強大な魔力がこもっていようが、繊維を汚し、持ち主の生活を乱し、あまつさえ店内の空気まで生乾きにするものは、きれいにしちゃいましょう」
「!? 私の話を聞いていたか! 街が、国が、文明が滅びるかもしれないと言っているんだぞ!」
「どんな汚れも、落として見せますよ。私は洗濯屋ですから。形があるのなら、話は早いです。汚れを落とすために必要なのは、暴力ではなく、正しい手順と適切な波の洗濯です」
リアロマは冷徹な手つきで、銀の桶に澱んでいる漆黒の呪いの上に両手をかざした。
「今から、仕上げに取り掛かります。ゼノ様、カイル公爵に伝えておいてください。明日の夜明け、洗濯物の『仕上げ』を行います。……この汚れを真っ白に落として御覧に入れますわ。作業の邪魔になりますので、裏庭には決して近づかないように、と」
リアロマが桶の中に残ったハンカチへ手のひらからを低周波振動や超音波など様々な波を打ち込むと、繊維に固定されていた呪詛が乱れ、激しく反転し、女の、そして獣のような、世界そのものを呪う鋭い悲鳴が店内に響き渡った。




