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波魔法使いは並じゃない 〜最強魔法使いの洗濯屋スローライフ〜  作者: 藍帽


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黒幕の絶望と、普通のこと

 翌朝、リアロマが干し場にシーツを出したところで、カイルが顔を出した。


「昨日の船主が口を割り始めた。ゼノが尋問を続けている」


「そうですか」


「雇い主の名前はまだ出ていないが、時間の問題だ」


 リアロマは洗い立てのシーツを広げながら、ふと気づいた。今朝は霧がない。潮風が清潔で、空気が澄んでいる。シーツが風を受けてゆっくりと膨らんだ。


 並の朝だった。



 そこへゼノが駆けてきた。


「閣下、問題が。昨日から街を監視していた者がいたようです。成果を確認するために上の者が直接シズナ入りする手はずだったと。もうここに来ているかもしれません」


 カイルが表情を引き締めた。


 その時、広場の方から、声が響いた。



「カイル・ヴァン・シズナアアアア!!」


 広場に、男が立っていた。


 五十がらみの、仕立てのいい外套を着た男だ。お供を数人引き連れ、広場の中央に仁王立ちになって、カイルの名を叫んでいる。朝市の買い物客が何事かと足を止め、魚屋が首を伸ばし、通りがかりの主婦が連れの主婦と顔を見合わせた。


 カイルはリアロマとゼノを連れて広場へ向かった。


「何者だ」


「ギルバート・フォン・クレスタだ!」


 男が外套を翻した。


「三十年間、この日を待っていた! カイル・ヴァン・シズナ、私はすべてを捧げてきた。この街を、この地を、じわじわと追い詰めるために! 魔導の霧が街を覆い、井戸の水は汚染され、シズナは内側から腐り果てるはずだった! その全ては、三十年前のあの日の屈辱をそそぐため……!」


 広場が、しんと静まった。


 買い物客の一人が小声で隣に言った。「……霧? いつもの朝霧じゃなかったの」。隣が「領主様が片付けてくれたのか」と返した。魚屋が腕を組んだ。


 ギルバートは構わず続けた。


「三十年前! 私がまだ幼き日! 貴様の父親の服に、泥を、カエルを、ぶつけてしまったあの日! あの貴様の親からの一喝が、私のすべてを変えた!」


 ギルバートの声が震えた。


「あの場に……あの場に、エリザがいたのだ!」


 広場が、また静まった。


「幼馴染のエリザだ! 私が密かに思いを寄せていたエリザが、よりにもよってあの瞬間を見ていた! 大勢の前で父上に怒鳴られ、私は……私は、泣いてしまった! 十二の子供が、泣いてしまったのだ! エリザは翌日から私を避けるようになり、一月も経たぬうちに別の男と仲良くなって……!」


 お供の一人が、そっと目を伏せた。


「それだけではない! 私は恥ずかしくて外に出られなくなった! 半年、部屋に籠った! 学院での成績も下がった! 社交の場に出るたびに、あの日の記憶が蘇り、まともに人と話せなくなった! 今もだ! 私が今日まで結婚できていないのは、すべてあの日のせいだ! あの一喝がなければ、エリザと結ばれていたかもしれなかった! 違うか!?」


 広場が、じわりと冷えた。


 誰も何も言っていないのに、何かが変わった。


 主婦の一人が、ゆっくりと隣に顔を向けた。隣も、ゆっくりと顔を向け返した。二人とも、何も言わなかった。通りがかりの老人が、何かを言いかけて、やめた。


 お供の筆頭格が、小声でもう一人に耳打ちした。


「……ギルバート様が三十年間温めていた恨みというのは」


「そうらしい」


「…………」


「…………」


 二人は正面を向いた。表情は動かさなかった。


 カイルが、困惑した顔のまま、静かに言った。


「……父は覚えていないと思うぞ」


「何?」


「叱ったことは叱っただろうが、やんちゃな子供を叱るなんてよくある普通のことだ。いちいち覚えてなどいない」


「は?」


「エリザさんのことは気の毒だが……初恋が実らないのも、まあ、よくあることだ。その後、別の人と結婚するのも普通のことだ」


 ギルバートの顔が、膠着した。


 広場の空気が、じわりとさらに変わった。


 その時、路地の奥から足音が来た。全速力の、子供の足音だ。泥だらけのテオが角を曲がり、何かを叫びながら走り抜けていった。両手に何かを持っている。何かはよくわからないが、とにかく元気だった。


 カイルが、ゼノが、リアロマが、広場の住民が、お供たちが、無言でその背中を見送った。


 ギルバートも、見ていた。


「……あ」


 小さな声だった。


「…………れ?」


 ギルバートがきょろきょろと周囲を見回した。住民の顔を、お供の顔を、カイルの顔を。誰も怒っていない。誰も震えていない。ただ、どこか、困ったような顔をしている。


「待て。待ってくれ。私は……三十年間、私の三十年は……」


「ギルバート殿」


 カイルが一歩前に出た。


「一度、話を聞かせてくれ。来てもらえるか」


 ギルバートが、ゆっくりと肩を落とした。



 リアロマの店に、ギルバートが連れてこられたのは、それからしばらくした後だった。


 お供たちは騎士団が預かった。ギルバート一人が、カイルとゼノに挟まれて椅子に座っている。広場での剣幕はどこへいったのか、今は抜け殻のような顔をしていた。


 リアロマはエプロンを整え、ギルバートの前に立った。


「少し、失礼します」


 指先から、ごく細い波を放った。


 ギルバートの周囲の空気が、わずかに変わった。三十年間、積み重なって凝り固まっていたものが、少しずつ、少しずつほぐれていく。力でこじ開けるのではない。ぬるま湯に浸けるように、ゆっくりと繊維をふやかすように。怒りの形をしていたものが、本来の色を取り戻していく。


「……なんだ、これは」


「不衛生な感情の澱が、随分と溜まっていましたね」


 そう言って、ギルバートの脳波を整えていく。


 ギルバートが、ゆっくりと息を吐いた。目の奥の昏いものが、薄れていく。長い時間をかけて積み上げてきたものが、今どこへ行ったのか、本人にもわからないようだった。


「……私は、利用されていたのか」


 誰も答えなかった。答えなくても、わかっているようだった。


「組織は、私の恨みを都合よく使っていただけか。三十年間、私が信じていたものは」


「よし」


 リアロマが静かに言った。


「並の仕上がりですね」


 ギルバートが顔を上げた。


「……洗濯屋と言ったか。これも洗濯か?」


「洗濯です。よくすすいで起きました」


 ギルバートが、しばらくリアロマを見ていた。それから、力なく笑った。泣いているのか笑っているのか、よくわからない顔だった。



 ゼノがギルバートを連れて出ていった後、カイルがリアロマに言った。


「……ご苦労だった」


「いえ。汚れを落としただけです」


 カイルが窓の外を見た。


「組織の本体は、王都にいる」


 リアロマはシーツを畳みながら、聞こえなかったような顔をした。


「シーツが乾きましたね」


「……そうだな」


 カイルは、それ以上言わなかった。

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