不穏な霧、シズナを覆うスモッグ
祭りから数日が経った朝、リアロマは干し場に出て、空を見上げた。
霧だった。
潮風が運ぶ朝靄なら、シズナには珍しくない。だがこの霧は質が違った。石畳の上を這い、家々の軒先に白く貼りついて、動かないような。鼻の奥に、なにか引っかかるものがある。潮の匂いに混じる、金属を冷やしたような、人工的な冷たさ。
干し場のシーツを一枚、手に取った。広げた布の表面に指先をそっと触れ、波紋を広げる。繊維の目から目へと波が染み渡り、返ってくる。
(……これは)
ごく細かな粒子が、布地の表面に降り積もっていた。潮の塩でも砂埃でもない。魔力の気配を僅かにまとった、人工的な塵だ。今朝の霧に混じっていたものが、外に出ていたものすべてに降りかかっている。
干していたシーツを全部、家の中に取り込んだ。
買い物カゴを手に、路地へ出た。
歩きながら、足元の石畳に波紋を流し続けた。石畳、壁の表面、軒先に下がった洗濯物。どこにも、シーツで感じたのと同じ粒子が薄く積もっている。昨日まではなかった。
港の方向から、風が来た。
波紋をそちらへ向けて伸ばした瞬間、引っかかりがあった。
大きな反応だ。リアロマは足を止め、波紋を港へ向けて絞り込んだ。停泊している船の一隻、その甲板の下に、整然とした魔力の反応がある。船の構造としては不自然な密度で、内側に何かが組み込まれていた。波紋をさらに細く鋭く送り込み、応答を読む。
霧の発生装置だ。霧に紛れ込ませて塵も街へ散布している。
(誰かが、降らせていたんですね)
何者の船かは、リアロマにはわからない。これはカイルに確認してもらう必要がある。港への道へ足を向けかけたところで、曲がり角から全速力の足音が来た。
「リアロマさーーーん!!」
テオだった。全身が水浸しで、おまけに泥だらけだ。左手に、大きな蟹を一匹、逆さに持っている。蟹はハサミをぱちぱちと動かし、テオの右手の親指をしっかりと挟んだ。
「いってええええ!!はさまれたあああ!!」
「テオくん、五メートル手前で止まってください」
テオが叫びながら止まった。
「いたい!!はさまれたのに止まれっていうの!!」
「川に入ってたんですか、今日」
「入ってた! 泥のとこに蟹がいっぱいいて!」
リアロマの波紋が、テオの足元の石畳まで届いた。水浸しのテオが持ち込んだ水が石畳に広がっていて、その中に、塵とは別の、もっと深いところからの粘ついた何かが混じっていた。
(……川の水に)
波紋を地面に沿わせ、川の方角へと伸ばした。路地を越え、街の外れの川へ届く。川底を遡るように、上流へ、地下へ潜る水脈へと辿っていく。
深いところに、ある。
水源の底に、異物が沈んでいた。今はまだ僅かに滲み出しているだけで、見た目にはほとんど出ていない。けれど放置すれば、シズナの繋がった水源が全部汚染される。
(空から塵を降らせ、下から水を汚す。二段構えですか)
誰かがこの町を汚そうとしている。それが許せなかった。
住民は今朝も並の一日を過ごしている。朝市へ行き、洗濯物を干し、井戸から水を汲む。誰も気づかないまま、汚れだけが黙って積もっていく。
「テオくん、今日は川の水を飲まないでください。体も早めに綺麗な水で洗い流してください」
「え、なんで。蟹のせい? あいたたた」
「蟹は関係ないです。……でも今日は助かりました」
テオが蟹をようやく地面に放した。蟹は素早く石畳の隙間に消えた。テオは親指を眺めながら、きょとんとしてから、また全速力で走り去った。
リアロマからカイルに会いに行くのは、珍しいことだった。
執務室の扉を開けると、カイルとゼノが地図を広げているところだった。二人ともリアロマを見て、同時に少し驚いた顔をした。
「……君が自分から訪ねて来るとは。何かあったのか?」
「急ぎの洗濯が」
地図の上のシズナを見ながら、リアロマは順を追って話した。霧に混じった塵のこと。港の船に仕込まれた装置のこと。川から辿った水源の異物のこと。
ゼノが検知器を取り出し、リアロマが持ち込んだ塵のついた布切れへ向けた。針が振れた。
「……複合型の魔力反応があります。これは、かなり手の込んだ造りで」
「船と水源は同じ系統の魔力だと思いますか」
「分析してみなければわかりませんが、おそらくは……まずは船でしょうか。どの船か特定できれば、船主の身元が割れます」
「船をお教えします。逃げられなければ抑えられますので、水源の処理からかかりましょうか」
カイルが立ち上がった。
「ゼノ、港の停泊船を全隻検分する。領主権限で動かせ。身元を洗え」
「わかりました。塵の成分分析と、船の魔導具の特定も並行して進めます」
「リアロマさん、水源の件は私と」
「私は、いつでも動けます」
窓の外、霧は薄れかけていた。日が高くなれば晴れる。そして明日の朝、また霧が出る。洗濯物が汚れ、川で子どもたちが遊ぶ。誰も気づかないまま。
それは、並ではない。
「できるだけ早く、行きましょう」
カイルが静かに頷いた。




