夜の路地裏、音を消す暗殺者
夜の買い物は、好きではない。
昼間の朝市では手に入らなかった蜜蝋を、港の外れの雑貨屋が夕方だけ売っている。布地の仕上げに使う分がそろそろ切れかけていた。仕方がないので、閉店前に間に合わせるべく、リアロマはひとり、石畳の路地を歩いていた。
夜のシズナは、並の騒がしさだ。居酒屋の喧騒、波の音、遠くで誰かが笑う声。それらが重なって、港町特有のゆるやかな響きを作っている。
悪くない。
蜜蝋を買い、来た道を戻りかけた時だった。
路地の角を曲がった瞬間、音が消えた。
突然、外の音がすべて消えていた。居酒屋のも、波のも、笑いも。
(……包まれた?)
リアロマはその場で足を止め、即座に波紋を広げた。指先から探査の波が周囲に染み渡り、路地を囲む空気の構造を読む。
風魔法だ。高速で循環する空気の壁が、この路地ごと包むように展開されている。壁の内側と外側で気圧差が生まれ、音波がその境界で散乱して外からの音が聞こえない。
そして、外からの音が中に入らないのと同様に、中の音も外には漏れない。ドームが展開されている間は、内側の声も、剣戟の音も、一切外には届かない。
リアロマが路地に近づいてきたのを察知した誰かが、ドームを拡張したのだろうか。来る直前まで、ここが異常な空間だとは気づかなかった。ドームに飲み込まれて初めて、中の状況が見えた。
路地の奥に、カイルがいた。
黒装束の男が三人、カイルを取り囲んでいる。カイルは剣を抜いていたが、三対一だ。背後の壁際まで押し込まれ、じりじりと間合いを詰められている。
「リアロマさん、来るな!」
カイルが叫んだ。
「……買い物の帰り道なんですが、そういう配慮は難しかったです」
リアロマは蜜蝋の包みを脇に抱え直した。
「それより公爵様、護衛は」
「……夜の見回りだ。護衛は不要と判断した」
「一人でですか」
「……問題ない」
カイルが気まずそうに視線を逸らした。男の一人が、リアロマに気づいて向き直る。
まず、カイルを囲む三人を減らす必要がある。
リアロマは足元の石畳に波を流した。地面を伝って、三人のうち二人の足元へじわりと届かせる。低周波が靴底から足首へ、足首から膝関節の周囲へと這い上がる。筋肉が一瞬だけ意図せず弛緩する。それだけでいい。
「な……っ」
二人が同時によろめいた。カイルがその隙に間合いを詰め、一人の剣を弾き、もう一人の体勢を崩す。
残る一人がリアロマへ向かってきた。だが、リアロマの放った波が空気を介して届くと、その男は正面から倒れた。受け身も取れず顔面から。脳を揺らされたのだ、まともに立ってはいられない。それでも立とうとして、また崩れた。
「動かないでください。公爵様の邪魔になりますから」
カイルが残った二人を壁に押さえ込む。三人とも、動けなくなっている。
「ドームが、まずいですね」
リアロマが空気の壁に向き直った。
風魔法による遮断は今も続いている。外には何も伝わっていない。
波紋を広げて、空気の壁の構造を丁寧に読んでいく。高速で循環する風の層は、均一に見えて均一ではない。魔法で作られた構造には、必ず継ぎ目がある。循環の速さが微妙に乱れている場所、気圧差が薄くなっている場所を、端から読んでいく。
(……ここね)
壁の一点に、循環の向きが内側へわずかに折れている箇所を見つけた。ここが継ぎ目だ。
リアロマがその一点へ手のひらを向け、空気の流れに乗せるように波を当てた。継ぎ目から乱れが広がり、循環が崩れ、壁が薄くなっていく。外の音が少しずつ戻り始め、やがて港町の夜の響きが路地に満ちた。
最初に飛び込んできたのはゼノだった。カイルが夜にひとりで出かけることを察知して、心配で遠くからついてきていたらしい。路地にも入ろうとしたが、ドームにはばまれていたようだった。
「閣下! ご無事で……」
「問題ない」
「……閣下」
「問題ないと言っている」
ゼノがリアロマを見た。リアロマは蜜蝋の包みを確かめていた。
「リアロマ殿、何が起きていたんですか」
「買い物の帰り道に公爵様とお会いしまして、ご挨拶したところです」
「……風魔法ドームでしたな。魔導具ですね。そのせいでカイル様を見失い、分断されてしまった。どうやって解いたのですか」
「一箇所が薄くなってしまった布はそこから裂けやすくなってしまうんです。丁寧な作りでしたけど、均一ではありませんでしたから」
ゼノが測定器を取り出し、路地のあちこちへ向けた。針が揺れ、また静まる。ゼノはそれをしばらく見つめてから、ノートを開いた。何かを書き、少し考え、また書いた。
騎士団が三人を引き立てていく。カイルが深く息を吐いた。
「リアロマさん、すまなかった。巻き込んでしまって」
「いえ。蜜蝋は無事に買えましたから。……ただ、公爵様」
「なんだ」
「次から夜の見回りは、護衛をつけてください。私がまた通りかかるとは限りませんので」
カイルが押し黙った。ゼノが小さく咳払いをした。
リアロマは店への道を歩き出した。
夜の石畳に、自分の足音が、ちゃんと響く。
「……並の夜ですね」
鼻歌を一節、口ずさんだ。




