カイル公爵の休日、並のピクニック
カイルが休みを取ったのは、珍しいことだった。
珍しいどころか、ゼノが記憶している限り初めてのことだった。朝、書類を持って『なみまつ』へ向かおうとしたカイルに、ゼノが「閣下、今日は休みを取ってください」と申し渡したのだ。目の下の隈が、ここ数日で特にひどくなっていた。
「……休みとは、何をすればいいんだ」
「外に出てください。日に当たってください」
そういう経緯で、カイルはリアロマと連れ立って、港の外れの小高い丘にいた。
丘の上には、草地が広がっていた。遠くに海が見える。潮風が草を揺らし、空は高く、雲が少ない。リアロマは草の上に腰を下ろし、お茶を二人分、並の温度で注いだ。指先を静かに動かして、二人の周囲の紫外線だけを散乱させておく。日差しの温かさは変わらない。
「……」
カイルが腰を下ろした。お茶を受け取ったが、飲まなかった。海を見ていた。
「北の港の税収の件だが、来月の会議までに数字を整理しておく必要があって」
「今日はお休みですよ」
「わかっている。ただ、頭の中で整理しておくだけなら」
「それも仕事ですよ」
カイルが黙った。お茶を一口飲んだ。
落ち着かない。草の上に座って、海を眺めて、お茶を飲む。それだけのことが、どうしてこんなに難しいのか。
リアロマは何も言わなかった。ただ、お茶を飲んでいた。
しばらくして、カイルはなんとなく、目を細めた。
あの夜のことを、ふと思い出した。
数年ぶりに、本当に眠れた夜のことだ。洗濯屋の椅子で、シーツを膝にかけられて、気づいたら朝になっていた。外に刺客が転がっていて、目の前では洗濯屋が「クリーニング代、先払いで」と営業スマイルを浮かべていた。
あの時から、何かが変わった気がする。
屋敷の空気が変わった。脳の中の澱みが消えた。一睡もできなかった夜が、少しずつ遠くなった。カビだらけだった教会が白くなり、濁っていた海が澄んだ。街の空気が、少しずつ、並に近づいていく。
自分では何もしていない。ただ、この洗濯屋が来てから、シズナが変わっていく。
(……俺は今、何年ぶりに昼間から外にいるんだろう)
そう気づいたのは、海を見ながら雲の動きを追っていた時だった。執務室の窓から外を見ることはある。だが、こうして風の中に座って、潮の匂いを吸って、雲が流れていくのをただ見ている、ということを、いつからしていなかったのか。
「……リアロマさん」
「なんですか」
「君が来る前、この街はもっと暗かったと思う」
リアロマが少し首を傾げた。
「そうですか? 私は来た時から、並だと思いましたよ」
「並、か」
「ええ。洗濯日和の日もありましたし」
カイルは少し笑った。
一時間ほど経った。眠れはしなかった。だが、帰り道、丘を下りながら、カイルはなぜか少し軽くなった気がしていた。
「……前より、眠れるようにはなっているんだがな」
「それは良かったです」
「だが、こういう時間の使い方がまだよくわからない」
「慣れですよ」
「君は、いつからそんなに慣れているんだ」
「シーツが並に乾いた時が、一番落ち着きますから」
カイルは何も言わなかった。
丘の下でゼノが待ち構えていた。カイルの顔色を見て、来た時より少しだけ表情が柔らかいことに気づいた。
「……閣下、眠れましたか」
「眠れなかった」
「そうですか……」
ゼノがリアロマをちらりと見た。
「リアロマ殿。何か、やりましたか」
「お茶を飲みました」
「……そうですか」
ゼノはノートに何かを書いた。書いてから、少し考えて、また書いた。
リアロマは空のお茶の瓶を抱えて、店への道を歩いた。干し場のシーツが、風に揺れているはずだ。




