テオの落とし物と、下水道の冒険
店の前に、テオが立っていた。
泥はいつも通りだった。しかし今日は、蟹も瓶も持っていない。両手を空にして、五メートルの手前で足を止めていた。それだけで、いつもと違うとわかった。
リアロマは干していたシーツの端を確かめてから、テオの方を向いた。
テオの顔が、いつもと違った。元気がない。走り込んでくる勢いも、カエルも泥の塊もない。ただ、困った顔で立っている。
「どうしましたか」
「……落としちゃった」
「何を」
「おもちゃ。下水道の格子のとこから落ちちゃって、拾えなくて」
(……下水道ですか)
不衛生ではある。しかし放置すれば詰まりの原因にもなる。何より、格子の下に落ちたものを子どもが自分で取ろうとすれば、怪我をする。
「どこですか」
「港の、東の路地」
「案内してください。五メートル前を歩いてください」
テオが少しだけ顔を上げて、歩き始めた。
いつもと違う背中だった。普段は走りながら何かを叫んでいるか、蟹を振り回しているかのどちらかだが、今日は黙って、まっすぐ歩いている。両手を空にして、時折ちらりと振り返って、リアロマがついてきているかを確認する。
格子は路地の端にあった。石畳の隙間に嵌め込まれた鉄の格子で、下水が流れる溝への蓋になっている。格子の隙間から覗くと、暗い水の流れの中に、何か小さいものが引っかかっているのが見えた。木製の、小さな船の形をしたおもちゃだ。
「これ、お父さんが作ってくれたやつで」
テオが格子の縁にしゃがんで、下を見ていた。声が、いつもより小さかった。
「朝から落として、ずっと気になってて。でも手が届かなくて、棒でつついたら余計奥に行っちゃって」
リアロマは格子の前に立ち、下の流れを確かめた。水は緩やかに東へ流れている。おもちゃは途中の出っ張りに引っかかって止まっていた。流れに乗れば、もっと奥へ行ってしまう。
指先を格子の隙間から水面に向け、波を送り込んだ。
水の流れに、逆向きの波を重ねる。流れそのものを止めるのではない。おもちゃが引っかかっている場所だけ、局所的に水を逆流させる。波が出っ張りの周囲を回り込み、おもちゃをゆっくりと押し上げていく。
ごく静かな作業だった。水面が少し揺れただけで、音もなかった。
やがて、木の船が格子の下でゆっくりと浮き上がってきた。リアロマが格子の隙間から手を差し込み、それを引き上げた。
小さな、手作りの船だった。木の表面を丁寧に削って、帆の部分に布切れが縫いつけてある。水に濡れ、下水の汚れがうっすらとこびりついていたが、形は壊れていなかった。
(……繊維に汚れが入り込んでいますね。帆の布地も、このままでは傷む)
リアロマは船を手のひらに乗せたまま、指先から微細な振動を流し込んだ。帆の布地に染み込んだ汚れを浮かせ、弾き飛ばす。木の表面の水気を、内側から穏やかに乾かす。ほんの数秒の作業だった。
「はい」
リアロマがテオに差し出した。
テオが受け取って、しばらく船を見ていた。濡れていた木が、乾いている。汚れていた帆の布地が、白くなっている。
「……きれいになってる」
「下水に入っていたので、洗いました」
「洗ったの? いつ?」
「今」
テオがリアロマを見た。それから船を見た。それからもう一度リアロマを見た。
しばらくして、顔を上げた。
「……リアロマさんって、なんなの」
「洗濯屋ですよ」
テオが少し考えてから、また船を見た。それ以上は聞かなかった。
「……ありがとう」
いつもより静かな声だった。船を大事そうに両手で持ったまま、走り去っていった。泥は相変わらずだったが、今日は速度がいつもより遅かった。
リアロマは格子を見下ろした。水の流れは、もう元通りだった。
「……並の流れですね」
踵を返し、店へ戻った。干し場のシーツが、風に揺れていた。




