雨の日の「並」な過ごし方
朝から雨だった。
港町シズナの雨は、潮風と一緒にやってくる。細かく、しつこく、石畳を黒く濡らし、軒先に雫の列を作る。洗濯物は干せない。リアロマにとって、雨の日は商売上がったりのはずだった。
しかし彼女の機嫌は悪くなかった。
店の中で、お茶を飲んでいた。窓の外の雨音を、静かに聴いていた。
雨音には、周波数がある。屋根を叩く音、石畳に弾ける音、軒先から落ちる雫の音。それぞれが微妙に違う高さと間隔を持ち、重なり合って、港町の雨特有の「響き」を作り出している。リアロマはそれを、ただ聴いていた。
(……今日の雨は、少し高めですね)
潮風の向きと気温のせいだろう。雨粒がいつもより細かい。石畳に当たる音が、一段高い。悪くはないが、もう少し低い成分が混ざった方が、落ち着く音になる。
リアロマは指先を、窓枠にそっと触れた。
建物の固有振動数を確かめる。石造りの壁、木製の窓枠、瓦の屋根。それぞれが雨音を受けて、微細に振動している。リアロマはその振動に、ごく小さな波を添えた。屋根の響きをほんのわずか低く。軒先の雫の落ちる間隔を、呼吸のリズムに近づける。
店の中の雨音が、じわりと変わった。
変わった、というより、整った。高すぎる成分が落ち着き、低い成分が少し前に出て、全体がゆったりとした周期を刻み始めた。完全に一定ではない。しかし完全にばらばらでもない。一定の揺らぎが、そこにあった。
リアロマはお茶を一口飲んだ。並の温度だった。
そこへ、カイルが入ってきた。書類を抱えている。雨の日も、習慣は変わらないらしい。
しかし扉を開けた瞬間、彼の表情が、わずかに緩んだ。気づいていないようだった。椅子に座り、書類を広げ、いつも通りペンを走らせ始める。しばらくして、ペンの動きが、ゆっくりになった。
「……なんだ、今日は」
カイルが、ぽつりと言った。
「なんですか」
「眠い」
「雨の音がちょうどいいんですよ。今日は」
「そうか」
カイルはそれ以上聞かなかった。ペンを置き、腕を組んで、目を閉じた。そのまま、しばらく経った。規則正しい寝息が聞こえ始めた。
リアロマは書類が濡れないよう端に寄せて、膝掛けを一枚、カイルにかけた。洗い立ての、ふかふかの毛織物だ。
それから、預かっていた衣類の繕いを始めた。
針が布を通る。引く。また通る。また引く。リアロマの手は、一定のようで一定ではなかった。布の厚みに合わせて、針の角度がわずかに変わる。糸の張力に合わせて、引く速さが微妙に揺れる。それでも仕上がった縫い目は、どこを見ても均一で、糸の波が布地の上に美しい稜線を描いていた。針仕事そのものが、波だった。
昼前に、ゼノが傘を差して現れた。入ってきた瞬間、何かに気づいたように足を止めた。測定器を取り出しかけて、眠るカイルを見て、思いとどまった。
代わりにノートを開き、耳を澄ませて雨音を聴き始めた。しばらくして、何かを書いた。また聴く。また書いた。
リアロマは新しいお茶を淹れ、音を立てないようにゼノの前に置いた。ゼノは書きながら、無言でそれを受け取った。
ゼノがノートに書いていたのは、この雨音の分析だった。
一定のようで一定ではない揺らぎ。強い雨粒と弱い雨粒が混在し、間隔も長短が混ざり合っている。しかしその揺らぎには規則があった。周波数が高いほど変動が小さく、低いほど大きい。いわゆる1/fの関係だ。滝の音、木漏れ日、波の音、人の心拍——自然界に潜むこの揺らぎが、人の神経を落ち着かせることは、魔導理論の世界でも知られていた。ただ、それを人工的に再現できるとは、ゼノは聞いたことがなかった。
今、この店の中の雨音は、完璧な1/fの揺らぎを刻んでいた。
(……外の雨は、そうではない)
ゼノは窓の外と、店の中を、交互に聴き比べた。雨は同じ雨だ。しかしこの店の中だけ、音の構造が違う。誰かが、何かをしている。あるいは、した。いつの間に、どうやって。ゼノには見えていなかった。
ゼノは針仕事をするリアロマに目をやった。針が布を通るたびに、糸が波のように縫い目を作っていく。仕上がりはどこを見ても乱れがない。しかし手の動きは、完全に一定ではない。布の状態に合わせて、呼吸するように揺れている。
あれも、揺らぎだ。
ゼノはノートに書き足した。
三人で、雨の音を聴いていた。カイルが眠ったまま。ゼノがノートに書きながら。リアロマが針を動かしながら。
夕方近く、ゼノが静かに口を開いた。
「……リアロマ殿」
「なんですか」
「今日の雨音、外とここでは違いました」
「そうですか」
「あれは、意図してやっていたんですか」
リアロマは繕い物から目を離さずに答えた。
「雨の日は洗濯物が干せないので、暇なんですよ」
ゼノがノートに何かを書いた。
窓の外で、雨が少しだけ弱まった。軒先の雫が、ぽつり、ぽつりと落ちている。そのリズムは、眠る人の呼吸に、よく似ていた。
「……よし」
リアロマが小さく呟いた。
「並の仕上がりですね」




