表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
波魔法使いは並じゃない 〜最強魔法使いの洗濯屋スローライフ〜  作者: 藍愛某


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/24

ゼノの弟子入り志願と、洗濯板の物理学

ゼノの弟子入り志願と、洗濯板の物理学


 その朝、ゼノは測定器を持ってこなかった。


 代わりに、真っ白な表紙のノートを一冊、大事そうに小脇に抱えていた。洗濯屋『なみまつ』の扉を開けた彼は、カウンターの前で一度足を止め、それから真剣な顔でリアロマに向き直った。


「リアロマ殿。お願いがあります」


 リアロマは桶の前に屈み込んで、麻布のシーツを洗っているところだった。潮風に晒されて塩が染み込んだシーツは、ぬるま湯でゆっくりふやかしてから、洗濯板の上で丁寧に押し洗いするのが「並」の正道だ。顔を上げず、手を止めずに答えた。


「なんですか」


「弟子にしてください」


 リアロマの手が、一瞬だけ止まった。


「……弟子」


「はい。正式に。毎朝ここへ来て、あなたがやっていることを学ばせてほしい」


 リアロマはゆっくりと顔を上げた。ゼノは真剣だった。目の下に薄い隈がある。おそらく昨夜も遅くまで書き物をしていたのだろう。手に持ったノートの表紙には、几帳面な文字で「波魔法観察記録・第一巻」と書いてあった。


「……カイル様はご存知ですか」


「報告しました。『好きにしろ』と言われました」


「そうですか」


 リアロマはそれだけ言って、また洗濯板に視線を落とした。返事はしなかった。弟子の件は保留のまま、シーツを洗濯板に当てて、ゆっくりと押し洗いを再開した。


 ゼノは少し困った顔をしてから、邪魔にならないよう桶の脇に立った。


 布地が溝の上を滑るたびに、繊維の奥に詰まった塩の結晶が少しずつ浮き上がってくる。水が白く濁るわけでも、泡が立つわけでもない。シーツはただ、洗濯板の上をゆっくりと行き来しているだけに見えた。


 しかしゼノは、その「だけ」が気になった。


(……力が、入っていない)


 押し洗いというのは本来、布地を板に押しつけて、物理的に汚れを掻き出す作業のはずだ。しかしリアロマの手には、ほとんど力が込められていない。まるで布を撫でているかのような、軽い動きだ。なのに、シーツの色が、見る間に変わっていく。


 ゼノは洗濯板に目を近づけた。


 木製の、波状の溝。規則正しく、一定の間隔で刻まれている。使い込まれてわずかに光沢がある。何の変哲もない洗濯道具のはずだった。


(……待て。この溝の間隔は)


 ゼノの視線が、止まった。


 溝と溝の間隔が、均一だ。しかも、ただ均一なのではない。布が板の上を滑る時、繊維の動きに合わせて、溝の山と谷が一定のリズムで布地を押し返している。リアロマの指先から伝わる波が、この溝を通るたびに、整流されて、特定の成分だけが取り出されて……。


(……回折格子)


 ゼノの喉が、ひくりと鳴った。


(光学実験で使う、あの格子と同じ原理だ。規則的な構造に波を通すことで、特定の波長だけを選び出す。ならばこの溝は、汚れの固有振動数に合わせた間隔で刻まれていて、リアロマの波がここを通るたびに、落としたい汚れの周波数だけが増幅されて……力で擦らなくても、汚れが自分から浮き上がる……?)


 ゼノは震える手でノートを開いた。ペンを取り出し、書き始めた。書いて、止まって、また書いた。止まる理由は、書くべきことが多すぎるからだった。


 リアロマはそのあいだ、一言も喋らなかった。シーツをすすぎ桶に移し、水を確認し、淡々と次の工程へ進んでいた。


「……リアロマ殿」


 しばらくして、ゼノが口を開いた。


「なんですか」


「あなたは今、何気なく洗濯をしながら、王立魔導アカデミーの光学理論を、洗濯用品で再現していました」


「そうですか?」


「……そうです」


 リアロマはすすぎ終わったシーツを絞りながら、首を傾げた。


「洗濯板はずっとこういうものだと思っていましたけど」


「そういうものでは、ない、んです……」


 ゼノが額に手を当てた。リアロマはシーツを抱えて立ち上がり、干し場へ向かいながら、思い出したように振り返った。


「弟子の件ですが」


「は、はい」


「お断りします」


 ゼノが固まった。


「私にお教えできることは、たぶん何もないので。ただ、ここで見ていただくのは構いませんよ。邪魔にならなければ」


「……それは、弟子ではないんですか」


「洗濯の邪魔をしなければ、なんとお呼びいただいても」


 ゼノはしばらく黙ってから、ノートの表紙を見た。「波魔法観察記録・第一巻」。それからリアロマの背中を見た。それからもう一度ノートを見た。


「……では、見学者として、よろしくお願いします」


「どうぞ」


 リアロマは干し場へ消えた。ゼノは一人、桶の前に残り、洗濯板をそっと手に取った。溝の間隔を指でなぞり、寸法をノートに書き写す。均一で、精密で、一ミリの狂いもない。


 これは、誰が作ったのだろう。


 そしてリアロマは、この洗濯板の何を知っているのだろう。


 ゼノは「波魔法観察記録・第一巻」の最初のページに、今日の日付と一行だけ書いた。


「洗濯板は、回折格子である」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ