ゼノの弟子入り志願と、洗濯板の物理学
ゼノの弟子入り志願と、洗濯板の物理学
その朝、ゼノは測定器を持ってこなかった。
代わりに、真っ白な表紙のノートを一冊、大事そうに小脇に抱えていた。洗濯屋『なみまつ』の扉を開けた彼は、カウンターの前で一度足を止め、それから真剣な顔でリアロマに向き直った。
「リアロマ殿。お願いがあります」
リアロマは桶の前に屈み込んで、麻布のシーツを洗っているところだった。潮風に晒されて塩が染み込んだシーツは、ぬるま湯でゆっくりふやかしてから、洗濯板の上で丁寧に押し洗いするのが「並」の正道だ。顔を上げず、手を止めずに答えた。
「なんですか」
「弟子にしてください」
リアロマの手が、一瞬だけ止まった。
「……弟子」
「はい。正式に。毎朝ここへ来て、あなたがやっていることを学ばせてほしい」
リアロマはゆっくりと顔を上げた。ゼノは真剣だった。目の下に薄い隈がある。おそらく昨夜も遅くまで書き物をしていたのだろう。手に持ったノートの表紙には、几帳面な文字で「波魔法観察記録・第一巻」と書いてあった。
「……カイル様はご存知ですか」
「報告しました。『好きにしろ』と言われました」
「そうですか」
リアロマはそれだけ言って、また洗濯板に視線を落とした。返事はしなかった。弟子の件は保留のまま、シーツを洗濯板に当てて、ゆっくりと押し洗いを再開した。
ゼノは少し困った顔をしてから、邪魔にならないよう桶の脇に立った。
布地が溝の上を滑るたびに、繊維の奥に詰まった塩の結晶が少しずつ浮き上がってくる。水が白く濁るわけでも、泡が立つわけでもない。シーツはただ、洗濯板の上をゆっくりと行き来しているだけに見えた。
しかしゼノは、その「だけ」が気になった。
(……力が、入っていない)
押し洗いというのは本来、布地を板に押しつけて、物理的に汚れを掻き出す作業のはずだ。しかしリアロマの手には、ほとんど力が込められていない。まるで布を撫でているかのような、軽い動きだ。なのに、シーツの色が、見る間に変わっていく。
ゼノは洗濯板に目を近づけた。
木製の、波状の溝。規則正しく、一定の間隔で刻まれている。使い込まれてわずかに光沢がある。何の変哲もない洗濯道具のはずだった。
(……待て。この溝の間隔は)
ゼノの視線が、止まった。
溝と溝の間隔が、均一だ。しかも、ただ均一なのではない。布が板の上を滑る時、繊維の動きに合わせて、溝の山と谷が一定のリズムで布地を押し返している。リアロマの指先から伝わる波が、この溝を通るたびに、整流されて、特定の成分だけが取り出されて……。
(……回折格子)
ゼノの喉が、ひくりと鳴った。
(光学実験で使う、あの格子と同じ原理だ。規則的な構造に波を通すことで、特定の波長だけを選び出す。ならばこの溝は、汚れの固有振動数に合わせた間隔で刻まれていて、リアロマの波がここを通るたびに、落としたい汚れの周波数だけが増幅されて……力で擦らなくても、汚れが自分から浮き上がる……?)
ゼノは震える手でノートを開いた。ペンを取り出し、書き始めた。書いて、止まって、また書いた。止まる理由は、書くべきことが多すぎるからだった。
リアロマはそのあいだ、一言も喋らなかった。シーツをすすぎ桶に移し、水を確認し、淡々と次の工程へ進んでいた。
「……リアロマ殿」
しばらくして、ゼノが口を開いた。
「なんですか」
「あなたは今、何気なく洗濯をしながら、王立魔導アカデミーの光学理論を、洗濯用品で再現していました」
「そうですか?」
「……そうです」
リアロマはすすぎ終わったシーツを絞りながら、首を傾げた。
「洗濯板はずっとこういうものだと思っていましたけど」
「そういうものでは、ない、んです……」
ゼノが額に手を当てた。リアロマはシーツを抱えて立ち上がり、干し場へ向かいながら、思い出したように振り返った。
「弟子の件ですが」
「は、はい」
「お断りします」
ゼノが固まった。
「私にお教えできることは、たぶん何もないので。ただ、ここで見ていただくのは構いませんよ。邪魔にならなければ」
「……それは、弟子ではないんですか」
「洗濯の邪魔をしなければ、なんとお呼びいただいても」
ゼノはしばらく黙ってから、ノートの表紙を見た。「波魔法観察記録・第一巻」。それからリアロマの背中を見た。それからもう一度ノートを見た。
「……では、見学者として、よろしくお願いします」
「どうぞ」
リアロマは干し場へ消えた。ゼノは一人、桶の前に残り、洗濯板をそっと手に取った。溝の間隔を指でなぞり、寸法をノートに書き写す。均一で、精密で、一ミリの狂いもない。
これは、誰が作ったのだろう。
そしてリアロマは、この洗濯板の何を知っているのだろう。
ゼノは「波魔法観察記録・第一巻」の最初のページに、今日の日付と一行だけ書いた。
「洗濯板は、回折格子である」




