天敵テオの襲来と、五メートルの結界
朝の洗濯は、順調だった。
潮風の向きが良く、干し場のシーツがきれいに膨らんでいる。繊維の隅々まで空気が通り、乾きむらが出ない理想的な条件だ。今日仕上げた分も合わせて、白いシーツが十二枚、干し場に並んでいる。
リアロマは満足げにそれを眺めていた。洗い立てのシーツが風に揺れる音は、いつ聞いても並の響きがする。布地が喜んでいる音だ。
その時、路地の向こうから足音が来た。
子どもの、全力疾走の足音だ。
(……来る)
リアロマの表情が、わずかに変わった。
「リアロマさーーーん!!」
テオだった。全身が泥で覆われている。いつものことだ。問題は両手だった。右手に泥の塊。左手に、何かうごめくものが入った瓶。瓶の中で、大きなヒキガエルが二匹、ぺたぺたと壁を叩いている。
(泥と、カエル。干し場まで十メートルを切っています)
シーツが、まずい。
リアロマは即座に足元から波を石畳へ流し込んだ。波は路地の目地を伝い、テオの足元へ届く。
「遊ぼ! カエル捕まえてきた! あとこの泥、すごくいい泥なんだよ!」
テオが一歩踏み込んだ。その瞬間、足元の石畳がゆるやかに波打ち、テオの体がそのままするりと後ろへ流された。
「……え?」
もう一度踏み込んだ。また石畳が波打った。またするりと戻された。
「なんで!?」
三度目、今度は助走をつけて全力で突っ込んだ。石畳が大きくうねり、テオは二メートルほど後退した。波に乗った小舟のように、本人の意思とまったく関係なく、するすると押し返されていく。
「リアロマさん! 石畳が動いてる!!」
「調整をしていただけです」
「……調整?」
テオがきょとんとした顔で足元を見下ろした。石畳は、もう動いていなかった。しゃがんで手で触れてみた。普通の石畳だった。立ち上がってもう一歩踏み込んだ。また波打った。またするりと戻された。テオは首を傾げ、もう一度しゃがんで石畳を叩いた。こつこつ、と乾いた音がした。それだけだった。
テオはしばらく石畳とにらみ合ってから、顔を上げた。
「ねえ、入れてよ」
「今は難しいです」
「なんで」
「テオくんの手が、少し危ないので」
テオが自分の両手を見た。右手の泥の塊、左手のカエルの瓶。それからリアロマを見た。それからまた自分の手を見た。
「……カエルだけ見てよ。ここから」
「わかりました」
テオが足を止めたのを確認して、リアロマは静かに波を解いた。そして、20メートルの距離を保ったまま、瓶の中を確認した。大きなヒキガエルが二匹。元気そうだ。
「……見ました」
「かわいいでしょ!」
「そうですね」
テオが満足そうに笑った。それだけで十分らしく、来た時と同じ勢いで走り去ろうとした。
ちょうどそこへ、カイルが現れた。小脇に書類を抱えている。最近、朝の書類仕事をここで片付けるのが習慣になっていた。リアロマが淹れるお茶の温度が、ちょうどいいらしい。
走り去ろうとしたテオと、正面からぶつかりそうになった。カイルがテオの首根っこを掴んで止めた。
「カエルは逃がしてこい。それから手を洗え」
「えーー、なんで知ってんの」
「見ればわかる」
「えーー」
テオが不満そうに走り去る。カイルはその背中を見送ってから、干し場のシーツと、五メートル離れた位置に立つリアロマを交互に見た。
「……今日は何だった」
「石畳の調整です」
「そうか」
特にそれ以上は聞かなかった。カイルは店の中へ入り、いつもの椅子に座って書類を広げた。
しばらくして、リアロマが店に入ってきた。並の温度のお茶を、カイルの手元に置く。カイルは書類から目を離さないまま、それを受け取った。
「……シーツは無事だったか」
「おかげさまで」
リアロマはエプロンを整えて、干し場へ戻った。シーツが、風に揺れていた。




