並の休息
その日、リアロマには予定がなかった。
預かり物のシーツは昨日のうちに返し終えた。急ぎの依頼もない。港の海は澄んでいる。屋敷の呪いも、海底の残骸も、荒くれ者の襟汚れも、今は全部、並の状態だ。
リアロマは店の扉に「本日休業」の札を掛け、裏庭の椅子に腰を下ろした。
空は高く、雲が少ない。潮風が一定のリズムで吹いている。干し場のシーツが、ゆっくりと揺れていた。洗濯物はない。ただ、空のまま揺れている。
それでいい。
お茶を一口飲んだ。適温だった。並の温度だ。
(……静かですね)
リアロマは目を細めた。
普段は気にならない音が、今日はよく聞こえる。遠くの漁師の声。波が桟橋を叩く音。石畳の上を転がる空き樽。どれも規則的で、清潔で、不協和音が混じっていない。港町シズナの、本来の響きだ。
悪くない。
しばらく、そのままでいた。お茶が冷めかけた頃、店の前の路地を、テオが全速力で駆け抜けていった。泥だらけだったが、今日は蟹を持っていなかった。リアロマは椅子の上で、ほんの少しだけ背筋を伸ばし、テオの姿が角を曲がって見えなくなったのを確認してから、また肩の力を抜いた。
並の警戒で済んだ。良かった。
午後になった。
カイルが顔を出したのは、日が傾きかけた頃だった。裏庭の扉からではなく、店の前から。珍しく書類も持っていない。
「休みか」
「ええ」
「珍しいな」
「たまには並の休日も必要ですから」
カイルは少し考えてから、隣の椅子を引いた。リアロマは特に何も言わなかった。カイルも何も言わなかった。
二人で、しばらく海の方を見ていた。
水平線が、夕日でゆっくりと染まっていく。橙と金が混ざって、海面が鈍く光っている。リアロマには、その光が波長ごとに分かれて見えた。長い波長が赤く、短い波長が青く、水平線の厚い空気の層を通り抜けて、こちら側に届いている。
きれいだ、とは思わなかった。
並だ、と思った。これが本来の夕暮れの色だ。
「……今日は、何もしなかったのか」
カイルが、ぽつりと言った。
「はい。何もしませんでした」
「それで満足か」
「十分です」
カイルが小さく笑った。何がおかしいのかリアロマには分からなかったが、悪い笑い方ではなかった。
お茶が、完全に冷めた。リアロマは立ち上がり、二人分、淹れ直した。並の温度で。




