仕上がりの朝と、生きた汚染源
港の誰も、夜明け前の海底で何があったか知らない。
作業を始めるとき、リアロマはもう一手だけ波を添えていた。光を曲げていたのだ。
海面を鏡にして、水平線から差し込む薄明を折り返し、割れた通路をそのまま「夜の続き」に見せる。遠目には何もない海だ。波魔法の中では地味な技だが、洗濯屋が営業中に店の中を見られたくない時にも使う、並の工夫である。
そして今、海は元通りだ。
翌朝の港は、別の場所のようだった。
夜が明けると同時に、漁師たちが一斉に沖へ出た。四日ぶりのことだ。昼前には全員が戻ってきて、市場に色とりどりの魚が並んだ。量だけではない。漁師たちが口々に言っていた。「いつもより澄んでいる」「臭みがない」「捌いた時の感触がまるで違う」と。
朝市を歩いていたリアロマは、馴染みの魚屋の前で足を止めた。
「リアロマさん、これ見てくれよ。今朝獲れたんだ」
店主が誇らしげに差し出したのは、大ぶりの舌平目だ。銀色の皮が、朝日の中でほとんど輝いているように見える。
(……海の汚染が長く続いていたから、浄化されたばかりの今、魚の鮮度が特に際立っている。海水そのものが澄んでいるから、魚の体内にも余計なものが蓄積していない。これは、並の仕上がり以上ね)
「きれいですね。いただきます」
「こんなにきれいな舌平目、久しぶりだよ。おまけしておくから」
リアロマは舌平目を受け取り、買い物カゴに入れた。今夜は塩焼きにしよう。並の塩加減で、内側からじんわり火を通せば、素材の甘みがそのまま出る。
店主はリアロマの背中を見送りながら、ふと首を傾げた。海が戻ったのがいつか、誰が何をしたのかは知らない。ただ、この洗濯屋が朝市に顔を出すようになってから、この街は何かが変わった気がする。うまく言葉にはできないが。
「リアロマさーん!」
声がした。
リアロマは反射的に、三歩後退した。
石畳の向こうから、茶色い何かが走ってくる。茶色の正体は全身の泥だ。その泥の塊の中心に、八歳くらいの男の子の輪郭がある。両手には、横向きに挟まれた蟹が一匹。蟹はまだ生きていて、ハサミをぱちぱちと動かしている。
テオだ。
(来た。来てしまった。しかも蟹つき)
「海に蟹がいっぱい戻ってきてた! きれいになったから戻ってきたんだって、漁師のおじさんが言ってた! これ、リアロマさんにあげる!」
「……ありがとうございます。でも、テオくん、今すぐそこで止まってください」
「え?」
「そのまま、一歩も動かないで」
リアロマは買い物カゴを持ち直し、正確に四メートルの距離を保ったまま、真顔でテオを見た。
泥と、蟹。泥は繊維の奥まで入り込む最悪の汚れで、蟹は一秒後の動きが読めない。ハサミが今どちらを向くか、次の瞬間どこに飛ぶか、波で読もうとしても生命のリズムは不規則すぎる。テオ自身も同様だ。子どもというのは軌道が読めない。接近を許せば何をされるかわからない。
リアロマが困っていたところ、背後からカイルが近づいてきた。朝の報告を届けに来たのだろう。彼は状況を一瞬で把握し、すぐに動いた。
「テオ。その蟹はひとまず桶に入れろ。それからリアロマさんに近づく前に、港の水場で洗ってこい」
「えー、なんで」
「いいから行け」
テオが不満そうに走り去る。リアロマはその背中が十分に遠ざかったのを確認してから、ゆっくりと息を吐いた。
「……カイル様」
「なんだ」
「海は、並の仕上がりになりました」
「ああ、おかげで助かった。漁師たちも喜んでいる。……本当に、ありがとう」
カイルが、珍しく真面目な顔でそう言った。リアロマはそれを受け取って、少しだけ考えてから、答えた。
「いえ。汚れているものを、きれいにしただけです」
遠くで、テオが桶に蟹を入れようとして指を挟まれた声がした。
「並の仕上がりというのは、難しいですね」
カイルが、声を上げて笑った。




