側近ゼノと、魔導理論の衝突
翌朝、ゼノは魔力測定器を三台抱えて『なみまつ』の扉を叩いた。
昨日のパンのことが、一晩経っても頭から離れなかったのだ。
火を使わず焼いた、焦げ目ひとつないパン。どこを齧っても同じ温かさ。素材そのものの、清潔な甘さ。あれは一体どういう原理だったのか。パンを焼く行為のどこに、リアロマは魔法を使ったのか。測定器を向ける前に帰ってしまったのが、今になって悔やまれた。
「リアロマ殿。昨日のパンの件なのですが」
「ああ。またお代わりですか? 今日は小麦がまだ届いていないですけど」
「違います! 原理の話です!」
リアロマはゼノの剣幕を気にする様子もなく、客から預かった麻のシーツをカウンターに広げ、繊維の状態を確かめていた。潮風に長く晒された布地は、塩が繊維の奥まで入り込んでいる。力で擦っても余計に絡まるだけで、ぬるま湯でゆっくりふやかしてから振動で弾き飛ばすのが「並」の正道である。
「ゼノ、朝から何を騒いでいる」
遅れて扉を開けたのはカイルだった。昨夜の書類仕事を片付けてきたのだろう、隈は相変わらずだが、昨日より顔色はいい。リアロマのマッサージと焦げ目のないパンのおかげか。
「カイル様。昨日リアロマ殿が見せたあの調理法、やはりどうしても合点がいかないのです。火なし、魔法陣なし、詠唱なし。にもかかわらず、生地の芯まで均等に熱が通るなど、あり得ない話で」
「ちゃんと中まで届くように温めただけですよ」
リアロマがシーツの端を持ち上げながら、さらりと言った。
「届くように、では説明にならないんです!」
ゼノが鞄から測定器を一台取り出し、カウンターに置く。魔石が三つ埋め込まれた、王立魔導アカデミー首席が自ら設計した最新型だ。
「測らせてもらえますか。今から何か、少しだけ」
「どうぞ。シーツを確かめているだけですよ」
ゼノが目盛りを確認する。針が、ほんのわずかに、かすかに動いた。それだけだ。
「……これだけですか」
ゼノは目を細めた。下級の魔導師でもこの5倍は反応させることができる。シーツに触れているだけの女の魔力反応は、とても微小である。しかし、あのパンを焼いたのはこの人物だ。
表情を変えず、今度は振動計測機を取り出した。
針が、激しく振れた。
「……振動は、これほど出ているのに」
「繊維の状態を読む時も、ちょっと波を当てて確かめるんですよ。手触りだけじゃ奥まで見えないですから」
ゼノの喉が、小さく鳴った。
(魔力の消費はほぼゼロに近い。なのに、この振動量は……? 魔力を使わずに振動だけが出るはずがない。ならばこの微小な魔力が、どこかで途方もなく増幅されている……?)
「ゼノ様、難しい顔をしていますよ」
「難しいんです! リアロマ殿、あなたがやっていることは魔法ではないんですか?」
「魔法かどうかは知りませんが、波を使っています」
「波……」
「ゼノ様は魔法陣を書いて魔力を通しますよね。私はそれを省いているだけです。お湯を沸かす時に、いちいち竈の設計図を描かなくても沸かせるでしょう? それと同じですよ」
ゼノが固まった。
カイルが固まった。
(竈の設計図……。つまり彼女は、魔法陣という「媒介」を必要とせずに、理そのものに直接干渉していると……? そして、この極めて微小な魔力を起点として、何らかの方法で桁違いの振動を引き出している……。ブランコを、指先の力だけで高く揺らすように……)
「ゼノ、大丈夫か。顔色が」
「……崩れています、閣下。私の常識が、今、崩れています」
カイルが深い溜息をつきながら、リアロマが広げたシーツに視線を落とした。それからふと、窓の外の沖合に目をやって、眉をひそめる。
「……リアロマさん。あの海の色、昨日から気になっているんだが」
リアロマがシーツを持つ手を止めた。
昨日より、濁りが広がっている。沖合の海面が、光の反射の仕方からして、普通の海水ではない何かを含んでいる。
「……ええ」
リアロマの声が、ほんの少しだけ、低くなった。
「普通の汚れじゃないです。何かが底の方から滲み出ているような。……これは、ちゃんと洗わないといけませんね」
「原因がわかるか?」
「まだわかりません。観察しないと。……公爵様、港の漁師の方々に、いつ頃からこの色になったか聞いていただけますか。どの辺りから広がっているかも」
カイルが頷いて扉へ向かう。ゼノが慌てて測定器を鞄に戻し、その後を追った。三台目は一度も出番がなかった。
「漁師への聞き込み、今日中に終わらせる。ゼノも来い」
「は、はい……リアロマ殿、測定の続きはまた」
「どうぞ。シーツを干したら、私も沖の方を見てきますので」
扉が閉まる。洗い上がったシーツが、干し場の風を待っていた。




