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波魔法使いは並じゃない 〜最強魔法使いの洗濯屋スローライフ〜  作者: 藍愛某


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焦げ目ひとつないパンと、並のほぐし方

 聖女クローディアの思念体を「日干し」にして並の白さに戻した、翌朝のことだ。


 洗濯屋『なみまつ』の厨房に、小麦の香りが満ちていた。


 リアロマは、石造りのかまどの前に立っていなかった。薪もない。火もない。彼女の両手は丸いパン生地を包むように宙に浮かせてあり、その手のひらから、遠赤外線が静かに放たれていた。

 可視光よりも波長の長い電磁波が、生地の内部にある水分子を直接揺らし、表面を焦がさずに内側からじんわりと熱を通す。電子レンジのように急かさず、お日様のように焦らず、芯の芯まで均等に温める。


(表面だけ焦がして中が生、というのは。洗濯物を表面だけ叩き洗いして、繊維の芯に汚れを残したまま乾かすのと同じよね)


 リアロマはそう考えながら、波長をほんのわずかに調整した。一番イメージするのは、晴れた日の午後、干し場のシーツを手で撫でた時のあの感触だ。表面だけでなく、綿の奥の奥まで、太陽がじっくりと入り込んだ、あの均一な温かさ。それを、丸いパン生地の中心まで、丁寧に届ける。


 ぱん、と小さな音がした。生地がふっくらと持ち上がる。続いて、甘くて澄んだ小麦の香りが、厨房からカウンターまで、ゆっくりと満ちていった。


「……よし。並の仕上がりですね」


 鼻歌を一節口ずさみ、パンを皿に並べかけたところで、店の扉がおずおずと開いた。


「リアロマさん。……朝から申し訳ないが」


 入ってきたカイルは、見るも無残な状態だった。昨夜の戦後処理の書類仕事で一睡もしていないことは一目でわかる。目の下の隈はともかく、首が右に五度ほど傾き、両肩が岩盤のように固まっていた。その後ろからゼノも続く。彼は玄関の柱に額をぐりぐり押しつけながら、「ここにいさせてください……」と力なく呟いている。


「ゼノ様、柱を汚さないでください」


「す、すみません……」


 カイルが恥ずかしそうに首筋を押さえた。


「昨夜は……例の件の報告書を夜通しゼノに書かされた。首が、もう動かない」


「体が……生乾きのような重さで……」


 ゼノが柱に額を当てたまま呟いた瞬間、リアロマの眉がわずかに動いた。


 生乾き、は衛生上よろしくない。


「……少し待ってください。そこに座っていてください」


 リアロマはカイルの背後に回り込み、両手を彼の肩のすぐ上に、触れるか触れないかの距離で浮かせた。手のひらから放たれたのは、低周波振動だ。毎秒数十回の、ゆるやかで規則正しい揺れ。人体の筋繊維が持つ固有振動数に寄り添うように、肩から首にかけての凝りの奥へ、温かい浸け置き液がしみ込むように、少しずつ、少しずつ浸透していく。


「力は要りません。凝り固まった繊維は、ゴシゴシ擦っても余計に傷めるだけですから。……そのものが持っているリズムに合わせて、ゆっくりほぐしてあげれば、繊維は自分でほどけていきますよ」


「……っ、あ……」


 カイルの目が、丸く見開かれた。鉄板のように固まっていた肩が、みるみるうちに、ゆっくりと落ちていく。首の傾きが戻り、頬から緊張が溶けていく。


「これは……筋が、溶けるような……。いや、解けていく、というか……」


「根が深い汚れは、力で擦っても落ちません。ぬるま湯にじっくり浸けて、繊維をふやかしてから、そっとほどいてあげるのが一番なんですよ」


「それ……洗濯の話ですか……?」


「肩こりの話ですよ?」


 リアロマが首を傾げた、その瞬間。カイルの眼差しがとろりと緩んだ。低周波が肩から首へ、首から頭へと浸透するにつれ、意識が急速に深い水底へ沈んでいく。


「あ……これ、また、眠く……」


「低周波が入ると、筋肉と一緒に頭も緩みますから。ちょうどパンも焼けましたし、起きたら召し上がっていってください」


 カイルが椅子の上で、ことん、と眠りに落ちた。


「ゼノ様も、どうぞ」


 リアロマは焦げ目ひとつないパンをゼノの前に差し出した。ゼノは柱から額を引き剥がして恐る恐るそれを受け取り、一口、齧った。


 しばらく、沈黙があった。


「……なんだ、これは」


 ゼノが、ぽつりと言った。目が少し、丸くなっている。


「外が、しっとりしている。……でも中は、ふんわりと……どこを齧っても同じ温かさで……」


 パンの断面は白く、きめが細かく、均一だった。表面に焦げの一筋もなく、しかし生でもなく、ただ満遍なく、均等に、熱が通っている。口の中に入ると、小麦の甘さが、じわりと広がった。香ばしさ、ではなく、素材そのものの清潔な味だ。飾り気がない。けれど、食べるほどに、奥から何かが満たされていくような感覚がある。


「……火を、使っていませんでしたよね」


「ええ。表から焼いても、中まで届かないことがありますから。内側からお日様の温かさで包んであげれば、生地も喜ぶんですよ」


「……生地が、喜ぶ」


 ゼノはもう一口、齧った。


 椅子の上でことんと眠る公爵。焦げ目ひとつないパンを手に、静かに咀嚼する魔導師。

 洗濯屋の朝は、これ以上なく、並に穏やかだった。


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