決戦の漂白と、眩しすぎる『並』
約束の期限を迎えた、その日の夜明け。シズナの街は、静かだった。しかし、洗濯屋『なみまつ』の裏庭はかつてないほどの異様な重圧感に包まれていた。
空は夜が明けたはずだというのにどす黒い渦を巻き、大気が不協和音を奏で、空間そのものが軋んでいる。
しかし、裏庭を一歩出ると、そこは快晴、いつも通りの朝だった。リアロマが逆位相波をコントロールして、音や呪い閉じ込めていた。
裏庭の銀の桶を囲むように、カイル公爵率いる騎士団の精鋭と、魔導師ゼノが展開していた。彼らが張った幾重もの防御結界が、その内側にある凄まじい「負のエネルギー」の大きさを物語っている。
「……油断するな! 全員、精神防御を最大に展開せよ! 決して『影』に触れられるな、魂の芯まで腐食されるぞ!」
ゼノが叫ぶ。リアロマは、そんなことは意に介さないように銀の桶に向かって手のひらを向けた。すると銀の桶の中から、真っ黒に染まったハンカチがゆっくりと、重力に逆らうように浮上した。
それは空中で解けるように広がり、巨大な、そして透き通るような悲しみを湛えた「女性の影」へと姿を変えていく。聖女クローディアの思念体だ。彼女が纏う漆黒の影は、一瞬にして周囲の芝生を枯らし、石造りの塀をボロボロの砂へと変えていく。それは「汚れ」が周囲を侵食し、己の色に染め上げようとする、究極の「色移り」の具現。
『ア……アアアア……。皆、死ネ。白イ世界ナド、ドコニモ……ナイ……』
聖女の影が放つ絶望の叫びが、物理的な破壊衝撃波となって騎士団を襲う。
「もう、ちょっとおとなしくしてて」
駄々っ子をあやすようにリアロマが声を上げた。
「めっ」
人差し指を上げて、聖女クローディアの思念体に向けてちょんとたたくような動作をする。その瞬間、騎士団を襲う衝撃波が霧散した。衝撃波が見えた瞬間に身構えた騎士団たちがあっけにとられた。
「……うーん。こんなに波が乱れていたら、落ち着かないでしょう。」
絶望的な闇の奔流が満たすこの空間で、リアロマはふらっと日常の家事をこなす時と同じような静かな足取りで前へ出た。
彼女が地面を踏みしめるたび、そこから「音」が消える。波魔法による完全静止干渉。周囲の喧騒も、聖女の呪詛が上げる不協和音も、彼女の歩みに合わせて物理的に相殺され、無へと帰していく。
「ゼノ様。カイル様。……下がっていてください。ここから先は、ただの振動では汚れが落ちなさそうです」
リアロマが右手を天に掲げる。その手のひらの上で、空間が激しく歪み、巨大な魔方陣が顕現した。
「リアロマ殿、そ、それは?なんという大きさ。ど、どうやって……!」
驚愕するゼノに対し、リアロマは小さな子に、ちょっと難しい勉強を教えるかのように答えた。
「ゼノ様。共振ですわ。
そうですわねえ。ブランコを大きく揺らしたいとき、力任せに押しても上手くいきませんよね? タイミングがズレると、かえって動きを止めてしまいます。
でも、ブランコが戻ってくるリズムに合わせて、指先で『ちょん』と突いてあげるだけで、ブランコは勝手にどんどん高く揺れてくれます。
あれと同じですよ。魔力にも『揺れやすいリズム』があるんです。指先で『ちょん』とつつく、それだけすよ。」
彼女の指先から、目も眩むような「白」が溢れ出した。
それは、汚れひとつない、洗い立てのシーツのような、真っ白で温かな光だった。
「リアロマ殿、それは……光か!? だが、君の魔法は振動や音のはずでは……!」
驚愕するゼノに対し、リアロマはにっこりと答えた。
「光って、電磁波、波なんですよ。ふふっ、お洗濯ものは日の光で乾かすのが一番。『黒い影』も、照らして乾かしちゃいましょう」
リアロマがその手を振り下ろした。
放たれたのは、聖女の怨念という「呪い」を根源から解体する、圧倒的な電磁波の濁流。
それは単なる攻撃ではない。聖女の影を構成する呪詛分子の結合波長を正確に狙い撃ちし、その結びつきを紫外線域を含む高エネルギー波で瞬時に切断していく。漆黒の聖女クローディアの姿が、内側から発光するように白く透け、粒子となって空間に溶けていく。
「あ……ああ……。光が……私を、洗って……」
それは悲鳴ですらなかった。あまりに精密、かつ絶対的な「光」の波動に晒されたことで、千年の怨念という「汚れ」そのものが、存在意義を失って消滅していく過程の吐息だった。
「いいですか。もうあなたは聖女でも世界の敵でもありません。きれいになっておかえりなさい」
リアロマが最後にパチンと、乾いた音で指を鳴らした。
そして、残留した負のエネルギーを最後の1分子まで弾き飛ばした。
裏庭にこもっていた、どす黒い「負のエネルギー」はリアロマの日の光によって洗われた。
後に残ったのは、雲一つなく、どこまでも突き抜けるような洗濯日和な青空。
そして、リアロマの手元にふわりと舞い落ちてきたのは、一点の曇りもなく、触れれば指が透けそうなほど真っ白な「麻のハンカチ」であった。
「……終わった。あの、国を滅ぼすとまで言われた災厄が、光の粒となって消えたのか」
カイル公爵が茫然と空を見上げる中、リアロマはハンカチの端をピンと伸ばし、満足げに頷いた。
「ええ。ようやく、清潔な『並』の状態に戻りました。……さて、今日もめいっぱいお洗濯をしましょう」




