並の洗濯屋と、不眠の公爵
港町シズナ。潮風が運ぶ波の音が一定で心地よいこの街に、リアロマ=ナミマツは流れ着いた。
「よし、今日も並の仕上がりですね」
リアロマは、末端は白へグラデーションした青い髪を揺らしながら、干し終わったシーツを満足げに眺めた。
彼女の営む洗濯屋『なみまつ』。そこでは、どんな頑固な汚れも一瞬で消え去り、布地は生まれたてのようにふっくらと蘇る。近所の主婦たちは「魔法の洗濯屋」と呼んでいるが、リアロマはそれを「ちょっとしたコツですから」と笑って受け流していた。
実際は、汚れの固有振動数を狙い撃ちして分子レベルで粉砕し、繊維を微細振動で整えるという高度な技だ。しかし、彼女にとってそれは、単なる家事の延長に過ぎない。
その日の夕暮れ。
店の扉が、重苦しく開いた。
「……すまない。ここで、少し休ませてくれないか」
入ってきたのは、漆黒のコートを着た青年だった。
整った顔立ちは青白く、目の下には深い隈がある。何より、彼の周囲に漂う「空気」がひどく荒れていた。遠目にだが見覚えがある。この地の領主、カイル・ヴァン・シズナ公爵だ。
彼を蝕んでいるのは、呪いだ。脳波が常に高周波で乱され、強制的に覚醒させられている。これでは一分も眠れるはずがない。
「いらっしゃいませ。あら、ひどくお疲れですね?」
リアロマは、震える足で椅子に座り込んだ公爵にそっと近づいた。
「笑ってくれていい。公爵ともあろう者が、市井の洗濯屋に縋るとは……。だが、もう限界なのだ。ここ数年、一分たりとも意識が静まったことがない……」
「笑いませんよ。疲れに上も下もありませんから。……ちょうど、シーツを一枚、仕上げたところなんです。少し、触れてみますか?」
リアロマは、ふかふかに乾いた真っ白なシーツをカイルの膝にかけた。
その瞬間、彼女は指先から極微弱な波を放ち、シーツの繊維を通じて彼の乱れた脳波に干渉させた。
――逆位相による、不協和音の打ち消し。
カイルを苦しめていた呪いの波長が、リアロマの放つ穏やかな波とぶつかり、相殺されて消えていく。
「……っ、これは……?」
カイルの目が見開かれた。
数年間、嵐のようだった頭の中が、嘘のように静まり返る。
聞こえるのは、リアロマが口ずさむ鼻歌の振動と、遠い潮騒の音だけ。
「ただの洗濯したてのシーツですよ。……おやすみなさい」
リアロマが優しく彼の肩を叩いた瞬間、カイルの意識はすとんと深い闇に落ちた。数年ぶりの、純粋な、泥のような眠り。
「ふぅ。……さて」
リアロマは寝息を立て始めた公爵を確認すると、店の裏口から外へ出た。
湿った夜の空気の中に、刺すような殺気が混じっている。刺客は四人。公爵に呪いの波を送り続けていた術者たちだ。
「おい、娘。その男を引き渡せ。さもなくば――」
暗殺者が短剣を抜く。だが、リアロマは困ったように首を傾げた。
「あの、そんなに怖い声を出したら、せっかくの静かな夜がもったいないですよ。……少しだけ、静かにして下さい」
リアロマがパチン、と指を鳴らす。
無音の領域が、生まれた。
彼らが発した言葉も、踏み出した足音も、すべてが逆の波によって相殺され、世界から音が消えた。
「!?(な、なんだ、声が出ない!?)」
困惑する刺客たちに対し、リアロマは歩みを止めない。彼女が空を撫でるように手を振る。
「皆さん、少し騒がしいですよ。……寝ている方がいるので、お静かにしてくださいね」
放たれたのは破壊の波ではない。対象の脳を包み込む、極低周波の共振だ。
脳漿だけを、一瞬、揺らした。
「…………っ!?」
四人の刺客は、悲鳴を上げることすらできず、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
外傷は一切ない。だが、彼らの三半規管は激しく攪乱され、脳は強烈な脳震盪を起こしている。
「明日の朝まで、ずっと天井が回っているような感覚が続きますけど、我慢してくださいね。……あ、そのお持ちの武器は危ないですね」
リアロマが刺客たちの持つ短剣に視線を送ると、ビーンという音を立てた。そのうち、それらは目に見えない振動に耐えきれなくなって粉々に砕け散った。
こうなると彼らは、ただの「ひどい船酔い状態で道に倒れている不審者」だ。
「ふぅ。……さて、公爵様が風邪を引かないように、温めておきましょうか」
リアロマは何事もなかったかのように店の中へ戻っていった。この後、赤外線で公爵を温めてあげるつもりだ。
翌朝、カイル公爵が目覚めたとき、店の前には不自然にのたうち回る刺客たちが転がっていた。
公爵は、リアロマが淹れてくれた「驚くほど適温」のお茶を飲みながら、確信した。
(この娘……ただの洗濯屋ではない。世界を揺らす、とんでもない波を持っている)
「リアロマさん、昨日の……あのシーツは一体……」
「ただのシーツですよ。……それより公爵様、そのコート」
リアロマは、カイルが着ている漆黒の軍服をじっと見つめた。
呪いの残響は消えたが、刺客との攻防やこれまでの不摂生で、布地は汚れ、繊維の奥には不快な死臭がこびりついている。
「そんな不衛生なものを纏っていては、せっかく整えた脳波がまた乱れます。並の生活は、清潔な衣類から。……そのコート、今すぐ脱いでください。」
「え? あ、ああ……頼めるかな」
カイルが呆然としながらコートを脱ぎ渡すと、リアロマは営業スマイルを浮かべて手を差し出した。
「はい。では、特急料金込みのクリーニング代、先払いでよろしいですか?」
こうして、スローライフ中の洗濯屋と、彼女を絶対に手放したくなくなった公爵の、奇妙な関係が始まった。




