10月 火風 ⑪
生島たえはお茶を入れようとしていた。
「湯のみが足りないわね」
つぶやき、戸棚のあちこちを探した。
「あった、あった」
吊り戸棚から、一つの箱を取り出して開けると、伊万里焼の湯呑茶碗が四客入っていた。
「大事なお客さん用にって、お義母さんがとっといたのよね。一度も使ったことがないけど」
湯呑を洗っていると、
「生島さん、何やってるの?」
と吉田貫太郎が隣の和室から顔を覗かせた。
「ちょっとね、お茶を入れようと思って」
「そんなことしてる場合じゃないでしょ。それに、明かりをつけたら、やつらにここにいるってバレちゃうじゃないか」
貫太郎はヒソヒソ声で話す。
「ちょっとだけよ、すぐに終わるから」
「早く、早く電気を消して。そこの電気は外の廊下から見えるんだから」
「ハイハイ」
たえは慌てて8つの湯飲みにお茶を入れ、用意しておいた菓子と一緒にお盆に載せた。台所を出るとき、忘れずに電気を消す。
和室には、男4人、女3人が車座になり、沈痛な面持ちで佇んでいる。7人とも、たえと同じ団地の住人の、70代から80代の高齢者だった。
停電でもないのに電気を消し、部屋の真ん中にろうそくを立てていた。
「お茶なんて飲んでる場合じゃないのに」
男の一人が、呆れたように言った。
「いいじゃないの、最期なんだから。おいしいお菓子も買っておいたの。もう食べられないからね」
たえは端に座っている女に湯呑を手渡した。その女は隣の人に渡し、やがて全員にお茶が行き渡った。菓子はろうそくの隣に置く。
「そうよね、これで最期なんだから。せめておいしいものでも食べたいわよね」
そう言いながら、一人が菓子に手を伸ばした。
「ここのどら焼き、私大好きなの」
「ねえ、おいしいわよねえ」
「私は饅頭をいただきましょ」
女性陣は次々と手を伸ばし、菓子を食べ始めた。
「ああ、おいしい」
たえはそう言いながらも、実際には味はあまり感じられなかった。
男性陣は黙って腕を組んでいたが、やがて一人が菓子に手を伸ばし、ほかの3人も結局菓子を食べた。
「この饅頭、うちの子大好きだった」
「うちの子は、和菓子は全然ダメ。ケーキとかプリンじゃないと食べなかった」
「俺の子供のころは、饅頭なんてめったに食べれなかったけどねえ」
「そうそう。今の子は、ほんっと贅沢だよ」
「子供の頃は、こんな暗い中でご飯食べたよな」
「そうそう、B29に狙われるからって、電気の傘に黒い紙を巻いてさ」
みな、菓子を頬張りながら、思い思いに話し始める。
「しっ」
突然、一人の男が人差し指を立て、静かにするよう指示した。
「今、外で話し声がしなかったか?」
とたんにみな押し黙った。息を殺し、身じろぎもせずに全神経を外に集中する。
貫太郎は壁に体を押し付けるようにして窓際に寄り、カーテンをわずかに開けて外の様子を伺う。
「いる、あいつらだ。隣の棟にいる」
7人は同時に息を呑んだ。
「じゃあ、こっちにも」
「来るだろうね」
「急がないと」
貫太郎は、ガムテープでふすまの隙間をふさぎ始めた。
「湯呑をかたさなきゃ」
たえが湯呑をお盆にのせて立ち上がると、
「手伝うわ」
と一人の女が懐中電灯を持ち、一緒に台所についてきた。
その女の名前をたえは知らない。たまに団地内で見かけたとき、会釈する程度のつきあいである。
「立つ鳥、跡を濁さずって言うからね」
懐中電灯に手元を照らしてもらい、水を少しだけ出して湯呑を洗いながら、たえは独り言のように呟く。
その女も
「そうよね。うちも、今日は朝から大掃除よ。だから、腰が痛くて」
とかすかに笑った。
「今まで何度もお見かけしたけど、こうやってお話しするのは初めてね」
「ほんと、そうねえ」
二人はヒソヒソ声で話す。
「今更ですが、生島たえと申します」
「国崎まきのと申します。私は7号棟に住んでるの」
「今日は、どなたの紹介で?」
「吉田さん。うちの主人と仲が良かったの」
片付けが終わり、和室に戻ると、四隅には七輪が置いてある。
「あら、四つもあるのね」
たえが言うと、
「いくつあれば効くのか、分かんないからね。これだけありゃ、効果があるだろって思ってね」
貫太郎が答えた。
「そういえば、人数はこれでよかったんだっけ? 確か9人じゃなかった?」
たえが尋ねると、男性陣は顔を見合わせた。
「そうだったけど……来てないってことはさ」
「たぶん、ね」
たえは意味が分からずに首を傾げた。
「だからさ、あいつらにやられちゃったってことだよ」
貫太郎の言葉に、たえは「えっ」と驚いた。
「その人、隣の棟の人だから」
貫太郎は外を指差す。
「じゃあ、ここに来る前に」
「たぶん、あいつらにつかまったんだな」
「そんな……」
「まあ、どっちみち、死ぬには変わりないんだけどさ。あんなやつらに刺し殺されるのは勘弁して欲しいよな。なんで、あんなやつらに……」
重苦しい空気が部屋を包む。
「みんな、遺書は書いてきてある?」
たえが尋ねると、「もちろん」「ポケットに入ってる」と口々に答えた。
「生島さん、本当に明日、娘さんたちが来るんだね?」
貫太郎が念を押した。
「うん、来ることになってる」
「早いとこ、見つけてくんないとね。発見までに一週間とかかかったら、悲惨なことになっちまう。まだ昼間はあったかいからね」
部屋のセッティングが終わった。
「それじゃ、練炭に火を付けようか」
「一斉につけたほうがいいよな」
男性陣が立ち上がり、ライターを取り出した。
「本当に」
たえは思わずため息をついた。
「これで最期なのね」
その一言で、みなが動作を止める。
「しょうがないさ。このまま、いつ殺されるのかってビクビクしながら生きてたくないんだから」
貫太郎は「何を今さら」という口調で言う。
「俺は見たんだよ、5号棟の人が襲われるのを。1階に住んでる足の悪いお婆さんが、あいつらに嬲り殺されるのが窓から見えたんだ。それなのに、警察を呼んでも来るまでに1時間もかかってさ。ここは警察署から遠いからって……1時間だよ? 警察にパトロールを頼んでも、これだけ広い団地だと、パトロールしても限界があるって言われちゃうしさ。それって、警察から見離されてるってことじゃないか」
「そうねえ。そうだけど」
「俺んとこにも来るかもしれないって、じっと息を殺して、部屋の電気を消して身を潜めてるのに、耐えられるか? もう二週間にもなるんだよ、こんな生活が。頭がおかしくなっちまうよ」
「……」
「うちの子に、ここから出たいって言っても、そんな金はないって言われるし。しばらくそっちに行かせてくれって頼んでも、引き取る余裕はないって、あっさり断られたんだから。ほかにどうしろって言うんだよ」
たえは何も言えずに項垂れた。みな押し黙っている。
貫太郎はみんなの顔を見回し、
「引き返すなら、今のうちだよ。やめたい人は今すぐ出て行ったほうがいい」
と語りかけた。
「いや、俺も息子に見捨てられたから」
一人の男が投げやりな口調で言う。みな顔をそらせ、唇を噛みしめる。
ここに集まってきているのは、つれあいをなくして長年一人で暮らし、自分の子供にすら頼れない者ばかりである。
別の場所に引っ越すお金もなく、殺されるかもしれないと分かっていてもここにいるしかない。
たえは、ふと思った。
――死ななくても、みんなで力を合わせれば、何とかならないかしら?
だが、年寄りだけで何ができるというのか。今更それを議論したところで、何になるのだろうか?
「せっかく、戦争で生き残ったのにね。最期はこんな風に死ななきゃならないなんて」
まきのが涙声で言い、鼻をすすりあげる。
「孤独死するんじゃないから、まだいいわよ。みんなで死ぬんだから」
近くにいた老婆が慰める。




